2008年12月31日水曜日

しつけは自由へのパスポート

こんにちは

毎年末に、今年お世話になった方、これからもおつきあいいただきたい方に、ぼくの青春の味、教え子の家から送ってもらった日高昆布1等品をお福分けしています。
打ち合わせついでに丸の内のスパコン本部の方たちにもちょびっとずつ持って行きました。
ここの秘書の方はとても元気のいいねーちゃん。
「わー、ありがとう!坂田さんや倉持さんにも持って行ってあげるよ!」
坂田さん、倉持さんは元理研のスパコン担当理事。
今は文科省に戻って、坂田さんは文部科学審議官、倉持さんは局付きの審議官をなさっています。
文科省の偉い方にまで届けるなんてぼくはまったく想定外のことで、面食らっちゃいましたが、ちょびっとずつでかっちょ悪いなーと思いつつも素直にお願いしました。
するともう翌日には、坂田さんと倉持さんからお礼のメールが届きました。
さすがです!

何かプレゼントしたり、その人のために何かをしたとき、さっと礼状をくれたり、お礼の電話やメールをくれる人がいますよね。
「ありがとう」とひとこと言ってくれる。
とても嬉しいし、気持ちがいい。
そうされると、また何かその人のためにしたいなーって思います。

仕事の上でも、ありがとう、と言ってくれる人がいます。
仕事なんだからやるのは当たり前なんですが、それでも「ありがとう」とか「助かった」とか、素早くメールをくれたりします。
そうすると、その人のためならもっと頑張ろう、という気が湧いてきます。
逆に、本来業務以外のことをやったときでさえ、ひと言もなかったら「なんかなー」って思っちゃいます。

で、マメにひと言くれる人って伸び伸びと仕事をしているように思います。
自分のやりたい仕事を伸び伸び、かつバリバリやっている。
とても充実しています。そして出世している^^;)。
それは、「ありがとう」のひと言が生み出しているんじゃないか。
「ありがとう」と言うから、他の人もその人の仕事に協力してくれる。

仕事だって一人でできることはたかが知れていますから、協力者は絶対に必要です。
無理やり業務命令で従わせる手もありますが、強制されたら嫌々やることになって、スピードと品質が落ちるのは当然です。
それよりは、自然な形で協力してもらう方がいい。

何かをしてもらったら「ありがとう」とすぐ言うのって、実は「しつけ」なんですよね。
礼儀作法と言ってもいい。
きっとそう言う人は子どもの頃からきちんとしつけられていた。
だから自然に素早く「ありがとう」のひとことが言えるんだと思います。
それが大人になって仕事をしても役に立っている。
伸び伸びバリバリ仕事をこなすための、潤滑剤になっている。
つまりそれは、自由を手に入れていると言っていいと思います。
しつけが身に付いていれば、より自由になれるんだって思うのです。

野口芳宏『子どもの作法』PHP\1300-から引用します。

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「礼儀作法」を身に着けている人は立派です。
誰からも愛され、親しまれ、尊敬されます。
品位もあり、おくゆかしく、人間としての円熟味も加わります。
そして、何よりも本人が楽しく、明るく、幸せな日々をおくることができます。
「作法」は人を幸せに導くお守りです。(2p)
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子どもをしつけるというと、子どもの自由を奪うような気がして、腰が引けてしまう親も多いようです。
確かにそれで子どもは伸び伸びするかもしれません。
でも子どもが成長して社会に出て行ったときにどうなのでしょうか。
社会でも伸び伸び自由にやれるのか。
そうじゃないとぼくは思うのです。
しつけ、礼儀作法が身に付いていないと、社会の中での自由度は返って狭くなってしまう。
人生の長いスパンで考えたとき、より自由になれるのはどうすることなのか。
そう考えると、子どものときのしつけって大事だよなって思えます。

はっちゃんとっちゃんにも、「ありがとう」のしつけはしつこくやっています。
何かしてもらったら必ずありがとうと言う。
お店でおやつを買うとき、お金を払うときにも忘れず言う。
不躾な子どもより、やっぱりちゃんと躾けられた子どもの方がかわいいですからね。
かわいいとオマケしてくれたりします。
来年も、きちんとすることは得なことなんだ、ということを体に染み込ませていきたいですね。
そのためにみ、親自身も礼儀正しくしなくちゃね!

2008年12月30日火曜日

子供に健康管理を教える方法

こんにちは

すっかり寒くなりましたね。
おかげさまで我が家は誰も風邪を引かず、元気にしています。
インフルエンザの予防接種もしていません。
それどころか我が子たちは、生まれたからまだ病院に一度も行っていません。

ぼくは子どもの頃から体が弱く、毎年のように重い風邪を引いていました。
大人になってもそうでした。
でも結婚してからだんだん丈夫になってきました。
結婚生活は規則正しい団体生活だからでしょうか。
そして、子どもが生まれてから、ますます丈夫になってきました。
子どもに病気をうつしちゃいけないから、リスクの高いことをしないように注意するようになったからでしょう。

つまり、健康管理をしっかりと意識してやるようになったからなんだと思います。
仕事でも何でも無理しすぎない。
ちょっと疲れたなと思ったら休養する。
だからといってダラダラもしない。
健康のためにメリハリつけた生活をする「技」が身についてきたように思います。

健康管理の仕方も意図的に学ぶ必要がありそうです。
我が子たちにも学ばせていきたいです。
昔は学校で「皆勤賞」なんていうのがあったそうです。
1年間一度も学校を休まないですんだら、表彰される。
それが子どもたちに健康であることに目標を与えていたと思いますね。
目標があれば、自ら健康に注意するようになっていくと思います。
今は皆勤賞なんかやらないからでしょうか、子どもたちは(親も)平気で学校を休むようです。

ぼくの尊敬する小学校教師、野口芳宏さんはご自分のお子さんに対してこんなことをやっていたそうです。

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子どもはお正月になると、当然のごとくお年玉をもらえると思っている。
これがいけない。
私はそうはしませんでした。
どうするかというと、学校を一日も休まないように自らの健康管理をした場合、お年玉として二万円をやるようにしました。
子どもにとっての二万円は目の飛び出るような額です。
標準額ではありません。
正月がまだ先の話であっても、子どもは期待と志を持ちます。
ただし、一日学校を休んだ場合には、五百円ずつ天引きをすると約束します。
そうすると子どもは、風邪を引かなくなります。
(野口芳宏『縦の教育、横の教育』モラロジー研究所\600-、27p)
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ナルホド、いい方法ですね。
お年玉を健康管理奨励金として利用するんです。
学校がやってくれないなら、自分の家庭で皆勤賞を実践する。
こういうインセンティブを与えたら、子どもも自分の健康に興味を持ち、どうしたら風邪を引かないか工夫するようになると思います。

二万円とは子どもにとって高額なようにも思えますが、風邪を引いて病院に行って診療費や薬代を支払い、かつ病気の期間の不快感や心配を考えると、安いとも言えます。
何より、健康ほど価値のあるものはない、と子どもに実感を持って伝えることができる。

こういうお金で子どもを釣るようなことを毛嫌いする人もいます。
もちろん金ばかりの人間に育つのも困りますが、お金を疎んじたり毛嫌いしたりバカにしたりする人間も困りものです。
適切にお金とつきあえる人になってもらいたい。
だから野口さんのやり方はいいなーって思います。

お年玉も、お正月だから子どもに与えるだけじゃもったいない。
健康管理の目標を与え、お金とのつきあい方を学ぶチャンスにもなるんですね。
我が子たちが小学生くらいになったら、真似してみようと思っています。

2008年12月29日月曜日

10歳は新車

こんにちは

我が家の小さな庭で、ほんのささやかな畑を作っています。
果樹も何本か植えています。
植物を育てていて分かったのは、苗のときに手をかければよく育つ、ということです。
苗のときはちょっと油断していると虫が着いちゃって、成長が遅くなったり、下手すると枯れてしまう。
ほんの数日見ないでいると、あっという間に葉っぱがなくなっちゃったり。
だからこまめに虫をつぶしたり、ちょっと殺虫剤を使ったりする必要がある。
苗の時期を過ぎると、ホントに丈夫になります。
ちょっとぐらい虫が着いても、株全体に影響しない。
放っておいても大丈夫。

子育ても同じだと思うんですよね。
子どもが小さいうちはマメに手をかける。
虫がつかないように気をつけるわけです。
ある程度大きくなったら手を離す。
多少虫がついてもいいし、その方が反って丈夫になる。

ではいったい何歳ぐらいから、手を離すことを始めたらいいのか。
ぼくは「10歳を目安にする」といいんじゃないかって思っています。
10歳からは徐々に子どもの意思を尊重し、子どもに任していきたい。
親が直接手をかけるのは10歳、小学4年生までだと考えているのです。

ぼくが小学校の教師だったとき、一番面白かったのは4年生を担任していたときです。
4年生になると、論理的な思考ができるようになる。
屁理屈が言えるようになるんですね。
だから、ちょっと何かを教えるとそれを自分で発展させることができるんです。
打てば響く、といった年齢なんです。
これは6年生よりも、中学生よりもそうなんです。

この年齢は、昔から「9歳の壁」と言われています。
9歳の時にきちんとした教育すると見違えるように成長するけど、いい加減だと成長しない。
すなわちそれが、9歳の壁なんです。
9歳の壁を上手に乗り越えられると、しっかりとした子どもになるんです。
9歳の壁を乗り越えられた10歳の子どもだけが、自分の力で人生をスタートさせることができるのだと思うのです。

『Dad-Garage』英治出版\1100-に、ホテル・ドゥ・ミクニのオーナーシェフ三國清三さんのインタビューが載っていました。
三國さんは、小学3年~6年生の子どもに「キッズシェフ」という味覚の授業をボランティアで行っています。
子どもたちの味蕾を開花させ、その味覚を鍛えることが目的の授業です。
三國さんは次のように言います。

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8歳~12歳の間に人の一生の味覚が決まります。
講演などで私がよくいうたとえなんですが、小学三年生の子どもの体というのはいわば新品の車で、新品のエンジンがついている。
ガソリンも満タン。
でも、それだけでは車は始動しません。
誰かがキーを挿して、回して、エンジンに点火する必要がある。
味蕾から受け取る刺激物、酸っぱ味や苦味といった味がそのキーの役割、つまり、脳を始動させる役目を果たしているんですよ。
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子どもを新車に喩えるって、いい表現ですね。
確かにこの時期の子どもは、ピカピカの新車のようです。
でもそれだけじゃいい車にならない。
エンジンをかけて、十分慣らし運転をする。
慣らし運転の時期が過ぎたら、その性能を発揮できるドライビングコースを走る。
そうやって新車は鍛えられていくんです。

子どもも同じ。
ピカピカの新車は、誰かにキーを挿してもらってエンジンに点火してもらわなくちゃならない。
その役割は親じゃない方がいいんですよね。
子どもが尊敬できる人にやってもらった方がいいと思っています。
その方が子どもはいい車になれる。
親がいつまでも補助しているんじゃ、子どもは自分の才能を発揮できる道へ出て行くことができない。
その時期が8歳から12歳だって三國さんは言うのです。
三國さんは子どもたちのエンジンキーを回すために、キッズシェフの授業をしているんですね。

じゃあ、親の役割は何なのでしょうか。
ぼくは親の役割は、新車を完成させるまでなんじゃないかって思うのです。
新車にもピンからキリまでありますよね。
なるべくなら高級車に仕上げたい。
高級車ならよりすばらしいコースを走れるようになる可能性が大きいと思います。
高級車じゃなくても、せめて欠陥車にはしない。
コースに出て、故障して止まってしまわないように。

だから子どもが10歳くらいになるまでは、親は一生懸命手をかけてやる。
それに10歳くらいまでは子どもも親の言うことを聞いてくれます。
そういう発達段階にあるんです。
親のコントロールが効くこの時期までに、しっかりした躾をするし、基礎的な知識、技能を身に着けさせる。
そうすれば、ピカピカの新車ができあがるんじゃないかと思っています。
そしてあとは、チューンナップは素晴らしい誰かにゆだねる、ゆだねることができるようにしたいですね。

脳の臨界期を逃すな

こんにちは

子どもの脳の重さは、体重の割に大きいです。
大人はほぼ体重の2%(それでも脳は肝臓の次に大きな臓器です)。子どもは何と6%もあるんです。当然ながら血流も多く、栄養消費も大きい。
脳の栄養はブドウ糖だけ。大人の脳は全ブドウ糖の20%を消費していますが、子どもは40%。
ですから、子どもの脳の発達はものすごいんです。

この時期を大切にしないといけません。
適切な時期に適切に鍛えないと、子どもの脳は正しく発達しません。
時期を逃すと、もう発達しなくなってしまったり、とても苦労を伴うようになってしまいます。
この時期を「臨界期」と呼びます。

ぼくは、教育実習や塾や予備校講師なんかも含めると、幼稚園児から高校生まで教えたことがあります。
大学の後輩の卒論もめんどう見ました。
その経験から言うと、知的な面での臨界期は小学校にあると思っています。
ぼくはもともと中学校の理科教師を目指していました。
大学は中学校教員養成課程に進みました。
教育実習や臨時採用で中学生に教えてみると、たとえおもしろい授業をしたり、実験で興味を引いたりしても、基礎のない子はただ「おもしろかった」で終わってしまう。
それ以上、深く学んでみようとしないんです。
多少理科に興味を持ってくれたかな、と思っても、それが持続しないんですね。
だって基礎がないから、学ぶだけの「技」が身についていないから。
計算が不得手だったり、教科書や参考書を読み込んでいくだけの読書力がなかったり。
基礎がないから持続できないんです。

その基礎はどの辺にあるかというと、小学校、それも3,4年生頃の読み書き計算にあることが分かりました。
これらの基礎がないと、はっきり言って中学校からでは手遅れなんです。
手遅れは言い過ぎかもしれませんが、少なくとも回復させるための苦労は、先生も親も生徒自身も大変なものになります。
つまり、臨界期を逃してしまっている。
とても学校の授業の中で回復させるなんてことはできないんです。

ぼくは若い技術者君たちに、資格試験のための勉強を教えたりもしています。
ここでもネックは読み書き計算なんですよ。
小学校レベルの読み書き計算ができない若者は、勉強が続きません。
基礎が不足しているため、自学できないのです。
その意味で小学校レベルの読み書き計算は、人生をよりよく生きるための「道具」なのです。

安岡正篤『青年の大成』致知出版\1200-にこうありました。

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昔は小学校を尋常小学校といいました。
この尋常とはあたりまえ、どんなことにでも、平常と少しも変わらないことです。
如何なる戦場に臨んでも平常どおり少しも変わらぬ戦いをしたいと、昔の武士は「いざ尋常に勝負」と言ったものです。
従って尋常小学校の尋常とは将来如何なる境遇にあっても平常心を失わぬように処するその根底を養うことであります。
これを誤って尋常小学校とは学校の中で一番程度の低い子どもの団体である等と、とんだ誤解をしておると申さねばなりません。(163p)
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小学校は学校の中で一番程度の低い場所だと思っていると、大変な目に合います。
人生という戦場に臨んで、常に平常心を保って闘うための基礎を学ぶ場所なんです。
だから大切にしなくちゃいけない。
小学校での勉強を軽んじてはいけないんです。

なので我が家では、はっちゃん、とっちゃんの小学校選びを既にはじめています。
来年はスケジュールをしっかり組んで、学校説明会に行こうと思っています。
選ぶポイントは、3,4年生の勉強をしっかり教えてくれる学校。
私立の進学校で、5,6年の勉強を受験対策でスパルタ式に教えてくれる学校はあるようですが、3,4年生の勉強が身についていればスパルタなんか必要ないんです。
それにスパルタ式は返って子どものやる気を削ぎますから、やめてもらいたい。

もちろん学校だけに頼らずに、我が家でも寺子屋をすることを通じて自学する習慣をつけていく。
我が家の寺子屋をうまく3,4年生の勉強へと接続したいと考えています。
この時期までは親としても手を抜かないし、必要ならお金もかける。
もしかしたら一番お金をかけるべき時期は、小学生の頃なのかもしれませんよ。
それが一番コストパフォーマンスがいい。

小学生の時期に適切に手間とお金をかけておくと、その後の負担が返って軽くなるんじゃないか、という仮説をぼくは持っています。
高校や大学はお金がかからない学校に行ける。
捕らぬタヌキの皮算用ですが、我が子たちは小学校国立->中学校全寮制私立->高校都立->大学外国がいいなー、なんて夢見ています。
もちろん子どもに過剰な負担をかけないように気をつけながら、子ども自身の意見や希望にも配慮して、用意周到に楽しく夢を実現していきたいと思っています。

ところで、子どもの脳はたくさんの栄養を消費しています。
ということは、発熱も大きいということです。
冷却のため、そして脳の発達具合を目視するため、我が子たちは定期的に坊主頭にしています。
ついでに、床屋代も節約です!

2008年12月28日日曜日

元気なじいさんになりたい!

こんにちは

毎年末、ぼくは今年お世話になった方とこれからもずっとおつきあい願いたい方に、ぼくの青春の味、教え子の家から取り寄せた日高昆布を贈っています。
寺田じいさんから礼状が届きました。
寺田さんは法務省の営繕の仕事を定年後、何年か理研のぼくのいるセクションに来ていただいた方。
とっても元気なじいさんで、ぼくのリスペクトする、こういうジジイになりたいと思える方です。今も現役で仕事をしている。
死ぬまでつきあっていきたいスバラシイじいさんです。

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さて、小生の方も相変わらずで、仕事がなければ出勤不要なのですが、今年は4月から殆ど毎日満員電車にゆられております。
相変わらず積算が仕事で、エクセルと格闘しております。
あと2年で80歳になるので、そろそろバイバイして好きな海外旅行に専念したいと考えておりますが、会社から、あなたは必要不可欠な人材だとおだてられ、「おだてりゃブタも木に登る」で、当分無理かと半分あきらめております。
考え方では、「ボケ防止」の最大の手段かもしれません。
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渡辺弥栄司『125歳まで、私は生きる!』ソニーマガジンズ¥1500-という本を友だちから紹介されて読みました。
渡辺さんは今87歳だそうですが、健康で生き生きと生きている。
まだまだやりたいことがたくさんあって、125歳まで生きるぞーなんて言っています。

なぜ生き生きとしていられるのか。その秘密はやっぱり「ちゃんと自分でお金を稼いでいる」ことなんですね。
渡辺さんは60歳過ぎたとき、これからも生き生きと社会の役に立って生きるにはどうしたらいいかと考えた。
社会に役に立つボランティアをこれからの人生の仕事にしていこうと考えたわけです。
ボランティア活動するのでも、やっぱりある程度のお金が要ります。
手弁当と言っても交通費だってバカになりません。
お金の心配をしていたのでは、やりたいことを思い切ってできなくなってしまう。
だから、ちゃんと収入を得る道も確保しておかなくちゃと考えたんですね。

そこらへんが偉いじいさんですよ。
たいていのじいさんは、年金だけでは自由になる金がほとんどないから、家でテレビばっかり見ているなんてことになってしまう。
金がないのであちこち出かけられないわけです。
ボランティアなんてとてもとてもやれやしない。
なので、家でダラダラするしかないことになってしまう。
125歳まで生きるどころか、「早くおっちんでくれたらいいのに」なんて婆さんに陰で言われちゃったりして。

話を戻して、そこで渡辺さんは一発奮起して司法試験に合格し65歳で弁護士になった。
弁護士事務所を開設しただけじゃありません。
実務経験もなく年取った弁護士に、そんなに仕事が舞い込んでくるわけがない。
そこで司法修習時の同級生からコイツはと思った弁護士を引っ張ってきた。
事務所のオーナーは自分、裁判などの対応は引っ張ってきた弁護士。
そうやって、収入をしっかりとかつコンスタントに確保できる状況を自分で作り上げちゃった。

渡辺さんはこう言います。

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使命感を持った日々は充実し、楽しく、幸福である。
人の役に立っていると思えば、誇りが生まれ、その誇りが活力を盛んにする。(217p)
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渡辺さんも寺田のジジイも、日々充実して元気でいるのは、やっぱり「自分で稼いでいる」という自信と気概なんじゃないでしょうか。
稼げるということ自体、社会から必要とされているからです。
人間は、特に男性は、社会と関わっていないとダメになっていくものだと思います。
サラリーマンなら定年前は待っていても会社が仕事を与えてくれる。
でも定年過ぎちゃったら、待っているだけの人に社会の側から何か要請されることは絶対にないんだと思うのです。

そのためには待っていてもダメで、自分からそうなる状況を作る必要がある。
それには、自分の「専門」がある必要がある。
渡辺さんは弁護士資格、寺田のじいさんは積算の技術ですね。
専門があり、誰かがそれを必要としているなら、仕事と稼ぎを得ることができ、元気に好きなこともできるわけです。
楽しく元気な爺になるためには、定年後は毎日が日曜日、なんて言っていられないと思います。

ぼくも60歳過ぎた人生のことも射程に入れる年齢になってきました。元気なじいさんになれるように、自分の専門性を磨いていきたいと思っています。

2008年12月26日金曜日

まずは「できる!」と言ってみろ

こんにちは

ぼくは次世代スーパーコンピュータ開発の末席にも加わっています。
ぼくの役目は、スーパーコンピュータを入れる建物とコンピューターの電源、空調、つまりインフラの建設。
今、神戸で建設中ですが、もう楽しくて楽しくて仕方ありません。

この仕事に企画段階から関わらせてもらいました。
予算獲得、立地選定から、国家プロジェクトがどんな風に進められるのか見ることができたんです。
いい経験をさせてもらっています。

その中で、文部科学省などのキャリア官僚の人たちとも話をする機会がありました。
世間では高級官僚に対するバッシングがありますが、ほとんどの人たちは誠実で精力的なんです。
自分や自分の省庁の利益を考えているなんてことはなく、やっぱり国のことをまじめに考えて実行しているんだという印象を強く持ちました。

特に文科省からこのプロジェクトの事務方のリーダーとして来ていただいた方に、強く影響を受けましたね。
その印象は「おーー、ここまで図々しいかー!」です(笑)。
図々しいと言っても悪い意味ではなく、とてもさわやかな潔さなんですね。
自然法則と法律と倫理に反しない限り何だってできる、という雰囲気なんです。
ネガティブなところが微塵もない。
いいものをつくろう、いいことをしていこうという情熱を感じました。

この世には2種類の人間がいると思います。
困難に出会ったとき、

 ・できない、無理だと最初に言ってしまう人 
 ・できる、やってみようと最初に言う人

です。
ぼくらサラリーマンは時々上司から無理難題(と思える)仕事を命令されることがあります。
その時、最初にどう言ってしまうかで結果が違ってきます。

できない、無理だと最初に言ってしまう人は、できない理由、無理である条件を考え始めてしまうのです。
つまり、ネガティブなことに時間と労力を使う。
アレコレ検討した結果を数日後に上司に報告するわけです。
でもたいてい上司は「そうか、わかった」とは言ってくれませんよね。
だってその仕事をやりたいんですから。
必ずや部下の報告の穴やアラを指摘してきます。

そしてまた部下はできない条件を探し始め、そうこうしているうちに時間だけが過ぎていきます。
上司も最後にはしびれを切らして「いいからやれ!」と厳命を下すことになる。
しかし時すでに遅く、その仕事を完成させるにはあまりにも時間が足らない状況になっています。
だからものすごい仕事密度を要求される割には成功確率も低くなっているのです。

それで失敗したら「ほら、早くからやっていればできたかもしれないのに」と言われます。
たとえ成功しても「ほらできたじゃないか。最初からやれると言えばいいのに」と言われます。
どっちにしろ悪い評価で、これじゃあ苦労の甲斐がありませんよ。
損な人生だと思います。

それに比べて、できる、やってみようと最初に言う人は、できる理由、できるための条件を考え始めます。
つまり、ポジティブなことに時間と労力を使えるのです。
同じ法令集を見たって、ネガティブな条件を探す場合と、ポジティブな条件を探す場合では視点が違いますから、そこから発見するものも違ってきます。
こうすればできる、この条件さえクリアできればできる、という情報を得ることができるのです。
その下準備の時間もたっぷりありますから、自ずと成功確率も上がってきます。
着手する時期が早ければ早いほど、成功確率が上がるのはものの道理です。

たとえ失敗したとしても「あれだけ準備をして時間をかけてもダメだったんだから、最初から無理な仕事だったのだ」と上司が思ってくれる可能性もかなりあります。
ほとんどの仕事に成功している人がたまに失敗しても、容認されることはままあることです。
「あいつがやってもダメだったんだから、誰がやってもだめだったろう」と。
ですから、失敗しても評価が下がることがないのです。

金出武雄『素人のように考え、玄人として実行する』PHP\1500-から引用します。

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物事を押し進めようとする時、やりとげる前に「できないこと」をいろいろ想像していては前に進まないのである。
最後までやり遂げるから知識も増える。
私はやってみることをためらう学生にこう言う。

 「この問題が解ける方法があれば、それをやってくれ。 
 しかし、解く方法を君はわからない。私もわからない。  
 とするならば、ダメだと思われる方法をやってみたほうが賢明ではないか。 
 最後までやり切れば失敗のパターンがわかるはずだ」

と。
この方法では解けない。
解けないのはなぜか?ということがわかれば、解けなくさせている根本的な理由がすこしはわかる。
そうすれば、「なるほど、ここがキーなのだ」ということがわかってきて、その問題を正面から解決する方法が見えてくるのである。
つまり、困難点をエクスプリシット(陽に明示)することが大切なのである。
どんな問題でも難しい。何が難しいかわからないが、難しいということはわかっている。
まずやってみて、「なるほど、これは難しい」「これを難しくしているのはこれだ。
ここができないから難しいのだ」ということがわかることは、問題を解いたり、研究するうえでの大前提なのである。
また、困難に直面しているのは、自分のアプローチが問題の本質から外れていて、そこから派生した難しさに突きあたり、どんどんのめり込んでしまった結果であるというケースもある。
それも、実際にやってみなければわからない。
ぐたぐた思い悩んでも仕方ないことである。(61-62p)
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とにかくやってみること。
とにかく「できる」と言ってみること。
とにかく「やってみます」と言ってみること。

もしかして今日が御用納めの方が多いと思います。
今年もお世話になりました。
来年、ぼくも今年にも増して「さわやかな図々しさ」を身に着けていきたいと思っています。
え?いやだな~って??
あはははは。

2008年12月24日水曜日

楽器を習う効用

こんにちは

ぼくはギターなど楽器を少々たしなみます。
おかげで幼稚園でギター生演奏サンタなんかできました(^^;)。
ギターが弾けてよかったなーって思います。

楽器が弾けるといっても、フォークソングやロックをやっていたので、正式な教育、訓練は受けていません。
ヤマハの音楽教室にも通ったことがありますが、かなり我流です。
楽譜を読むのは遅いし、自分で作った曲を楽譜に書くのはほぼできません。

100歳現役医師、日野原先生はピアノが弾けます。
学生時代結核になり、療養生活を余儀なくされた。
学校にも行けず家にいるだけではつまらないので、ピアノを練習したのだそうです。
日野原先生は「楽譜の読み書きができ、楽器が弾けるということは、外国語をもう一つ習得できたのと同じ価値を、人生に与える」なんて言っています。

なので、我が子たちにも何か楽器を習わせたいと思っているのです。
松永暢史『女の子を伸ばす母親は、ここが違う!』扶桑社\1200-にこうありました。

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楽器演奏の習得に関するすべての学習のベースにあるのは”忍耐力”です。
ピアノやバイオリンと”忍耐力”にどんな関係が・・・と思った方は、おそらく楽器を弾いたことがないか、あるいは楽才があって苦もなく楽器が弾けるかのどちらかでしょう。
そんな楽才に恵まれないほとんどの人は、楽器がうまく弾けるようになるまでは、つらく苦しい道のりを歩まねばなりません。
初めてピアノなどの楽器を弾いている人を見たとき、多くの子どもは簡単に「自分もやってみたい!」と言い出すものです。
それは、いとも簡単に、楽しそうに楽器を弾き、その結果美しい音楽を奏でているからにほかなりません。
こんなに簡単そうなら、自分にもできるかもしれないという勘違いから、子どもは「自分もやりたい」と言うのです。
ところが美しい音楽を奏でるためには、相当な練習が必要だということは、いざ楽器を習い始めれば、子どもにだってすぐにわかります。
指は思うように動かないし、楽譜は読めなければならないし、バイオリンに至ってはまともな音さえ出すことができません。
これはなまなかなものではない、と悟ったとき、子どもは愕然とします。
でも、すでに高いお金を出して楽器を買ってしまった親は、簡単にやめさせてくれるはずもありません。
では、どうすればいいのか。
忍耐しかありません。
楽器が弾けるようになり、演奏が楽しめるようになるまでには、ひたすらつらい練習に耐え、なかなか上達しない自分に対するいらだちに耐え、教師に怒られるのに耐え・・・と、楽器を習うことは、忍耐の連続とも言えます。(137-139p)
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そして松永さんは、楽器を習うことを通じて得た忍耐力が、その後の子どもの人生に役立つと言っています。
勉強をする上でも、仕事をする上でも、よい家庭を築く上でも、忍耐こそ必須のものだからです。
世の中は自分の思い通りになるわけではありません。
最終的には思い通りにするために色々チャレンジするのですが、そこへ至るまでには地道で着実な時間と精神が必要で、忍耐力があるかないかで成否が決まると言ってもいいです。

一番は、自分でさえも自分の思うようにならない、と知ることだと思います。
やりたいことができないのは、周りの人や社会システムが悪いということより、圧倒的に自分の方がその「資格」がないからだということが多いのです。
学力が足らない、技能が不足している、信用がまだ十分じゃない、などなど。
よって、やりたいことができる状態まで自分を高める必要があります。
自分を高めるには、確かな方法で地道に着実にやっていかなくてはなりません。
それは忍耐の連続なんです。
忍耐ができず、自分を高めることができない人が、誰々が悪いからだ、とか、社会が悪いとか言うのだと思います。

楽器を習うと、自分さえも自分の思うようにならない、ということを思い知らされます。
ピアノなど楽器を弾くと、思うように自分の指が動かないのです。
思い通りに指が動くようにするためには、我慢強く何度も何度も繰り返し練習するしかないのです。
その結果、美しい演奏ができるようになるのです。
自分を克服できたからそれができたんだ、という経験を何度もできるわけです。
その経験が、安易に人のせいにするだけのくだらない人生に堕することを防ぐのだと思います。
それは素晴らしい「人生の刻印」となるはずなんです。

我が子はっちゃんもとっちゃんも音楽は好きなようです。
ぼくのギターに合わせて歌ったり踊ったりしています。
はっちゃんなど、めちゃくちゃだけど自分でギターをかき鳴らし自分で歌を作ったりで、さすがシンガーソングライターくずれの息子です!
おじいちゃんの家にはピアノがあって、たまに弾いて遊んでいます。
うまくチャンスをとらえて、「ピアノか何か習ってみる?」と誘ってみようと思っています。

2008年12月22日月曜日

試験を楽しもう!

こんにちは

同僚の女の子から「簿記3級合格しました!」というメールが。
おーーー、スバラシイ!
簿記は、彼女の今の仕事とは直接関係しないものだと思いますが、会計の仕組みが理解できると世の中の見通しもよくなるんです。
ぜひこの調子で2級、1級へと挑戦してほしいですね。それがやがては自分の仕事や生き方へと跳ね返ってくる。

ぼく自身資格マニア、勉強マニアですが、そもそも試験というものは本来「楽しいもの」だと考えています。
自分の有能さを確認したりアピールしたりできるチャンスですから。
逆に、自分の有能さを確認したりアピールするために試験を「利用する」と言った方がいいかもしれません。

子どもの頃から学校でたくさんの試験を課されます。
この試験をただただ受け身で受けていたのではいけません。
試験で悪い点数ばかりとっていたら、試験はツライものにしかなりません。
だから試験は「いい点数をとるため」に受験するのです。
つまり試験の日までにいい点数を取れるように自分を持っていくことが大事です。
積極的に試験を利用するんです。

時に悪い点数を取ることもあるかもしれません。
いつもじゃなく時にだったらそれほどへこみません。
むしろ、自分の弱点を教えてくれてありがとう、という気持ちになれます。
次への目標を与えてくれます。

日垣隆『父親のすすめ』文春新書\710-から引用します。

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仕事を仕事として成立させる二つの要素は「依頼」と「締め切り」です。(略)
仕事の前段階として宿題や試験がある、という事実をここでしっかり確認しておきましょう。
宿題には「締め切り」があり、試験は「一定範囲の課題をインプットして特定期日にアウトプットして評価を受ける」という、ほとんど「仕事」の一歩手前の内実をもっているのです。
学生時代の試験を莫迦にしてはいけない理由も、ここにあります。
試験突破力は、総じて仕事能力の基礎になるからです。(124p)
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そう、試験や受験はただ自分が試されるものじゃないんですよ。
誰かに試されていると思うから、緊張するしツライ。
試験も自分を高めるための一つの「仕組み」なんだと思うことが大事。
それは将来仕事に就いたときに必ず役に立つスキルとなっていくんです。

日垣さんはこうも言います。

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成功体験は、絶対的にあったほうがいいことだからです。
それは、小さな努力が報われる、という体験です。
この成功体験が積み重ねられてゆかないと、「だめな自分」という思い込みから脱することができません。
「だめでない自分」をイメージすることができず、したがって脱出法がまるでわからない。
小さな成功体験が積み重ねられないと、自分を含めた能力の数々は、すべて所与のものだという誤解から自由になることができません。
「あの子は頭が良い」から何かができるのだと思い込み、「自分は頭が悪い」から勉強もできないのだ、と本気で信じ始めてしまいます。
頭が良い悪いというのは、もちろん学校ごときの成績や点数とはストレートに比例しません。
周りを見渡してみれば、すぐに気づくでしょう。
頭の良さは一般に、「未知のものに対する判断の的確さと速さ」として表現されます。
既知を相手にする学校の勉強とは違う。
けれども、学校での勉強が必要ないかと言うと、天才でないかぎり、そんなことは絶対にありません。
未知のものに対する判断力を鍛えるには、既知のもので訓練するほかないからです。
学校での勉強、とりわけ定期試験や受験は、この点で重要な役割を担っています。
おおむね20代前半までは一人前として通用しないとされる近代社会のなかで、試験は、成功体験を着実に育む貴重な教育装置だからです。(163-164p)
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中学校や高校の定期テストなどは試験範囲が明確ですから、その部分をきっちり勉強すれば必ずいい点数をとれるものです。
努力をすれば必ず報われるのが、定期テストです。
こういった小さな努力と成功を積み重ねていく。
それが自信を生み出し、より困難なものへチャレンジしていく準備になっていく。
そういった努力と成功の積み重ねは、社会人になっても役立つんですよ。

もちろん社会人になってからでも、資格試験を活用したり、職場の昇進試験や日々の仕事を「依頼と締め切り」を意識してザクザクとこなしていくのもいい。
社会人になったって、自分で自分を鍛えるチャンスはたくさんあるのです。
もっと試験や受験を積極的に楽しむようにしたいですね。

2008年12月20日土曜日

有能・無能の分かれ目

こんにちは

職場の広報室の方からこんな連絡が。

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> お世話になっております。
> 理研の所外HPで現在、所内HPに掲載しているトリビアを
> ピックアップして掲載しています。
> 次回の掲載分ですが、「No111 これぞ機能美!横浜研NMR棟」を
> 掲載しようと思います(トリビア編集委員の方々の了承は得ています)。
> 掲載させていただいてもよろしいでしょうか。
> 掲載する際は多少編集させていただく予定です。
> ご検討ください。
> よろしくお願いします。
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もちろんokですよー。
所外向けのホームページに掲載されるものは、理研として世の中に広くアピールしたいものです。
そこにぼくの書いたものが掲載されるなんて、とても名誉なことです。
嬉しいですねー。

さて、ぼくもこれまで何人かの部下を持ちました。
その中には有能な奴もいましたし、無能な奴もいました。
なぜ有能なのか、なぜ無能なのか、その分かれ目は何なのか考えました。
実を言うと、有能な部下でも無能な部下でも、ほぼ同じ職位、年齢であれば、やっている仕事はほぼ同じです。
仕事のレベルも同じだし、仕事量もそんなに変わらない。
特にルーチンの仕事は、ほとんど変わりはないものです。

決して無能な奴は、仕事をしないというわけではないのです。
ちゃんと決められた量の仕事を、決められた品質でこなしている。
完成品だけ見たら、有能な部下がやった仕事なのか、無能な部下がやった仕事なのか、どっちも見分けがつなかいはずです。
だから、能力自体の差はそれほどないんだと思います。

では、どこが違うのか。
有能な奴は、期日通り、あるいは期日よりちょっと前に仕事を終わらせて提出してくる。
無能な奴は、期日に微妙に遅れる。
しかも黙っている。催促するまで黙っていたりするのです。

また、有能な奴は、仕事の途中で不明点があれば質問しに来る。
無能な奴は期日が来ても悩んでいる。
あるいは間違ったやり方でやり続けてしまう。

こういうことが続けば、やっぱり有能な奴、無能な奴というレッテルが貼られてしまう。
要するに、アピールの違いなんじゃないかって思うのです。
同じ労力を使っていても、有能な奴は「ほら、オレって有能でしょ!」とでも言いたげな仕事の仕方をする。
アピールの仕方が上手い。
無能な奴は、せっかく同じだけ労力を使っているのに「オレって無能です」とでも言うようなやり方をしてしまう。
ちっともアピールしないんです。

ということが分かってきたので、部下にはそういう自分のアピールの仕方も教えるようにしています。
だって、上手くアピールして、有能と思われたり、信頼をされたりした方が、仕事がやりやすくなりますから。
それに気分もいいです。
気分よく仕事ができれば、絶対に今より向上すると思いますしね。

もちろんぼくも、ぼくの上司の部下ですから、いやらしくならない程度にアピールするよう心がけていたりするのです(いやらしいかも??)。

ストレスをやっつけろ!

こんにちは

ストレスを感じたことがありますか。
部長が嫌なヤツで、とか、女房がうるさくて、とか、子どもの受験が気になって、とか。
ストレスにはいろいろあります。
ストレスによって、体調が悪くなったり、病気になっちゃったり。

でも、多くの人は「ストレス」を誤解しているんですよ。
嫌な部長、うるさい女房、出来の悪い子どもがストレスなのではありません。
確かにこれらはストレスの原因ではある。
ところが、嫌な部長の部下でも、うるさい女房の亭主でも、出来の悪い子どもの親でも、ストレスを感じないでぴんぴんしている人もいます。
この違いは何なのでしょうか。

ストレスの原因は「ストレッサー」と呼びます。
それに対して「ストレス」は、その人自身の<ひずみ・ゆがみ>なのです。
元々ストレスという言葉は、物理学からのアナロジーでした。
ある物体に一定の力を加えます。
その時、物体の性質によってひずみ方、ゆがみ方は違います。
スポンジのように柔らかい物体だと、大きく変形します。
鉄のような固い物体ならほとんど変形しない。
ところが鉄も内部の状態を計測してみると、けっこうひずんでいたりします。

同じように人間も、同じ強さのストレッサーを受けても、人によってストレスの受け方が違うのです。
それはストレッサーの強さよりも、その人自身の体や心の違いによるものだと言っていい。

文春PR誌『本の話』'05.09横尾忠則「やまいの神様」にこんなことが書いてありました。

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最近は原因不明の病気に悩まされている人が多い。
ぼくも原因不明の熱が何ヶ月も続くことがある。
結果があるわけだから原因はあるに決まっているはずだ。
それなのに病名がない。
わからん病気はストレスといって、片付けられてしまう。
ストレスだって原因がないということはない。
ストレスを作る原因はたいていが自分の想いに反した思考や行動を起こしている場合だ。
自分が思っている「自分」が本当の自分だと思っているところに、まず問題がありそうだ。
ストレスを作っている要因はだいたい自我というやっかいな存在である。
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そうなんです。
ストレスを感じる時というのは、たいていが「自分の思うとおりにならないとき」なんです。
仕事でがんばっていてもっと認めてもらいたいと思っているのに、部長からがみがみ言われるから、ストレスを感じる。
家庭でリラックスしたいのに、女房にぐちぐち言われるから、ストレスを感じる。
息子に一流大学に合格して欲しいのに、遊んでばっかりいてちっとも勉強しないので、ストレスを感じる。

つまり、自分の欲するところと周りの状況が違うわけです。
しかしそれは、周りの状況の方が悪いのでしょうか。
もしかしたら、部長が求める仕事を自分がしていないのかもしれません。
もしかしたら、女房がして欲しいことを自分はちっともしていないのかもしれません。
もしかしたら、子どもは親とは違う夢を持っているのかもしれません。

つまり、悪いのは周りの方ではなくて、ゆがんでいるのは自分なのかもしれないと考えてみる。
それなのに勝手にストレスを感じていたように考えてみるんです。
すると、ゆがんでいたのは自分の方だったと分かるかもしれません。
自分のゆがみだと気づいてしまえれば、ストレスもすーっと軽くなってしまう。

確かに周りの方が悪いこともありますよ。
その場合は闘わなくちゃならないときもある。
そもそもストレスは、本当に闘わなくちゃならないときに、精神と肉体を緊張状態に持っていくために自然に備わった機能なんです。そ
れをのべつ幕なし必要もないことにも感じちゃうから、ストレスにやられちゃうんです。
でも本当に闘わなくちゃならない時なんて、めったにないんですよね。
大事なストレス、本当に闘わなくちゃならないときのために温存しておいた方がいいんです。

ところで、ストレスに打ち勝つためにどんな訓練をすればいいか。
ぼくはやっぱり「勉強する」ことだと思っているし、実践しています。
勉強すると、何が正しくて何が間違っているのかがよく「みえる」ようになるんです。
自分が正しいのか悪いのかどうかも判断できる理性が身に付く。
理不尽な目にあっても、それが理不尽だと分かるだけでもストレスは軽くなります。
自分が間違っていたら、変に我を張らずに素直に直すことができる。
感情に振り回されることがなくなるんですよ。
そうすると、ストレスを適切にコントロールできるようになり、穏やかに生きられます。

まー、ぼくもまだ道半ばなんで、えらそうなことは言えないんですけどねー。

2008年12月17日水曜日

忙しいと言うべからず

こんにちは

師走です。
忙しいですか?

先日、社員食堂で他部署の人から声をかけられました。
「○○さんに△△について調べてくれるように頼んでいるんだけど、全然返事をくれないんだ」
調べて欲しいことの内容を聞いてみたら、ぼくでも調べられそうなことでした。
いえ、ぼくの専門に大きく関わる事項でした。
「それならぼくが調べておくよ」と返事をしました。
手帳を見て調査に必要な時間がとれる日を見つけ、期日の約束をしました。

当然約束通り期日に回答。
そして「仕事を頼むときは忙しい人に頼むといいよ」と言いました。
その人は「だって関口君はいつ電話してもつかまらないからさ」だって。
確かにぼくはいつもあっちこっちうろうろしていて、電話じゃめったにつかまらないのは事実でだけどね。。。

外山滋比古『子どもを育てる絶対勉強力』幻冬社文庫\495-にこんなことが書いてありました。

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ヨーロッパに、”忙しい人ほどヒマがある”ということわざがある。
忙しい人は集中して手早く仕事をしてしまうから、そのあとに、自由な時間ができる。
それにひきかえ、ありあまるほどの時間をもっている人は、ちょっとしたことでもダラダラしている。
いつまでも終わらないから、かえってヒマがなくなり忙しい思いをする。
そういう逆説を述べたものである。
『パーキンソンの法則』という有名な本に、こんなエピソードが出てくる。
有閑、富裕なあるおばあさんが、姪のところにはがきを書こうと思い立つ。
姪は避暑先にいる。
アドレスをさがして20分。
文面を考えて45分。
書き上げた手紙を投函しにポストまで行くのに、洋傘をもっていくかどうかを考えて20分。
しめて1時間半近くかかる。
時間がいくらでもあるからで、忙しい人ならすべてが3分で終わる。
時間は必要だが、ありすぎると、よろしくない。
すくなくとも、あると思うのがいけないのである。(25p)
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確かにぼくの周りの人たちを見ても、それほどの仕事量を抱えているわけじゃない人ほど「忙しい、忙しい」と言っている。
残業も多いように思います。
それはただ単に、スタートが遅かったり、段取りが悪かったり、集中力が悪かったりして、締め切りぎりぎりになっても必要な仕事が終わらないだけ。
そんな仕事がいくつも重なってしまうので、忙しさが累積するという悪循環に陥ってしまっているのです。
忙しいと言っている割に、アウトプットが少ないのが特徴ですよね。
まー、アウトプットが少ないから、せいぜい「忙しい、忙しい」と言いながら残業してがんばっている姿をアピールしているつもりなのかも。
見る人が見れば、ばかばかしいことをしているって分かります。

それに対して、大量の仕事をバリバリこなしている人の方が、暇そうに見えたりします。
やはり、集中力と段取り力なんでしょう。
段取りよく集中してやれば、時間を合理的、有効的に使えますから、余裕が生まれます。
余裕ができれば、プライベートなことにその時間を振り向けることもできますし、新たな仕事にもチャレンジすることができます。
そうすればさらに能力が上がって余裕が生まれる、という好循環となるというわけです。
きちんとアウトプットを出しているので、定時退勤だって堂々とできるのです。
「忙しい」なんて言う必要がない。

時間は有限な「資源」なんです。
無軌道、無節制に浪費してはいけないものなのです。
時間にも省エネが必要なんです。
外山さんの言うように、時間はあると思ってはいけない。
ないと思っておく方がいいのです。

よく「この仕事が終わるまでがんばろう」と言って仕事をしている人がいます。
これはダメです。
時間を無制限に使ってしまう恐れが強い。
時間というのはあればあるだけ使ってしまうものだからです。
まして仕事という大義名分があれがなおさらです。
残業して仕事をしてもいいと思えば、必ず残業してしまうものなのです。
段取りもなく仕事に着手し、だらだらとやりがちなもの。
残業代も稼げるし、なんてせこい考えもあったりしてね。それでは時間という資源をどんどんと浪費してしまいます。

だから「何時までに終わらせよう」と言って仕事をするのがよいのです。
終える時刻を決め、そのための段取りを整える。
そうすると、与えられた時間でできうる品質も決まります。
完成品のイメージも明確になっていきます。

2008年12月16日火曜日

ともかくやっつけろ!

こんにちは

どこの家庭でもありがちかとは思いますが、我が家の冷蔵庫に結構死蔵品が貯えられていたりします。
ぼくが冷蔵庫を開けて「こんなのあるよ。今晩野菜炒めか何かにしちゃって、やっつけちゃおうよ」と言うと、妻はムッとします。
「高級な食材を野菜炒めなどという低級な料理にするとは何事か。それに食べ物に対して”やっつける”なんて言うとは不届き者じゃ!」
でも、腐って捨てられちゃうよりマシでは。。。

仕事でもそうですね。
雑件が溜まってくるとイライラしてきます。
じっくり取り組みたい仕事があるんだけどそれをやる時間が取れなくて手つかずになっていることもあります。
とってもイライラします。

じっくり取り組みたい仕事って、言ってみれば高級食材です。
本来なら高級料理に仕立て上げたいもの。
でも、手間暇かけている時間がない。
腐らすのももったいない。
それなら野菜炒めでもいいや、やっつけちゃおう!ぼくはそうやっています。

じっくり取り組みたい仕事であっても、忙しくてじっくりできない時だってあるのが当然です。
そんなときは、今回はあきらめてどうにかこうにか食えるものにすればいいやって。
まあある意味妥協なんですが、やってみると意外とスッキリします。

松永真理『シゴトのココロ』小学館\1365-にこんなことが書いてありました。

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朝、やることリストを書きだすときが、工夫のしどころとなる。
打ち合わせの場所を決める。
地図をファックスする。
銀行に振り込みに行く。
こういう事務的にしっかりやることと、企画書を書く、レポートを提出するといった中身を問われるものとを区別し、階層を分けて書きだすようにする。
それぞれにかかる時間を見積もることで、やるべきことの分類ができ、気分は少しすっきりしてくる。
銀行での振り込みと、将来のキャリア設計を同じ項目に書きだすから、ごちゃごちゃ混乱してしまうのだ。
自分の得意、不得意で分類するという手もある。
得意なことはさっさと片付けられるが、苦手なことはつい先延ばしにして、それがストレスの素になることも多い。
そういう場合は、気合いを入れる時間を決めて、よーし、ここで片づけるぞ、と早く終えることの一点に集中するのである。
そして、苦手なことはすべて片づかなくても、ひとつでも片づいたらよしとする。
この手のことは誰も誉めてはくれないのだから、せめて、自分くらいは高らかに言ってあげよう。
「よくやった。やったじゃない!」
多少、大袈裟に自分を肯定してあげないと、自分がこれほどまでに心のなかで葛藤しながらやっていることなんて、他人にはわかりっこないのである。
やることリストの項目をひとつ終えたら、赤い太めのサインペンで線を引いていく。
項目のなかでやり残したことがあったとしても、半分の線を引くことで、少しでも多くの達成感を味わうようにする。
そうでもしないと、やるべきことは無限に出てきて、やり残したことばかりに気をもんで過ごすことになるからだ。(15-17p)
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ともかく朝出勤したら手帳を見て、今日やることをリストアップする。
紙に書きだしてみるのが大事ですね。
そしてイライラの元をはっきりさせ、一つずつつぶしていく。
一つ終わったら、終わったことがはっきり分かるように、赤の太マジックでバツをつける。
まさに「やっつける」んです!

年末、師走です。
ザクザクとやっつけていきましょー。
そして、気分すっきりのお正月を迎えましょう!

好きなこととことん

こんにちは

先日の出張授業では、科学者(研究者や技術者)になるためには何をどう勉強していったらいいか、なんて話もしました。
ポイントは、 

好きなことはとことん 
嫌いなことはほどほどに

です。
ホントは、嫌いなことはやらなくてもいい、と言いたかったんですが、さすがに学校で話すことなので、「お父さんお母さんや先生に叱られない程度」なんて言って、お茶を濁しちゃいましたけど。

ノーベル物理学賞の益川先生のエピソードなんかも交えながら、好きな勉強、勉強に限らず好きなことは、学年の枠にこだわらずにどんどんやっていくのがいいと話しました。
小学生だって、好きなら中学生レベル、高校生レベルのことだって理解できるんです。理解できるようになっちゃうんです。
好きなことに関しては、テストで100点とって満足するんじゃなく、200点、500点、1000点・・・とどんどん上を目指して、担任の先生なんか超えちゃえ!って話しました。
そんな話をしたら、生徒さん、特に男の子の目がランランと輝いていましたね。

子どもに限らず大人でも、弱点補強と称して嫌いなことを無理にやったりするでしょ。
それは脳と心にダメージを与えますよ。
そもそも効率が悪い。
嫌いなことを無理してやると、好きなことをやる時間と余裕までもがなくなってしまうのです。
その結果、好きなことさえなくなってしまうんです。

好きなことをやれば楽しいし、効率もよくなります。
心と時間に余裕も生まれます。
すると、どうしても必要なら、嫌いなことにもちょっとは取り組んでみようという気も起こります。
だから好きなことをやっていった方が、反って嫌いなこともなくなっていくんです。
ぼくの経験からもそう言えますよ。

押井守『凡人として生きるということ』幻冬舎新書\760-から引用します。

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自由とは状態のことではない、と述べたが、自由とは常に「動機」とセットになっている言葉なのである。ある人間が何かをしたいと望む。
それがどのくらい自在にできるかどうかが、自由と不自由の分かれ目なのである。
何もしたくない人間や社会とのつながりを放棄した人間に、そもそも自由はない。(57p)
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好きなことをとことんやることは、自由への道なんですね。
やりたいことがいつも心の中にある。
そしてそれをやれる条件を整えていく。
その過程こそが、自由なんです。

やりたいことをやるためには、社会とのつながりも重要です。
自由とは自分勝手とは違います。
好きなことをやることと好き勝手は違います。
家族、周りの人、会社、社会が認めてくれるから、好きなこともできるわけです。

好きなことができないからと引きこもってしまうのは、実は好きなことができないのではなく、好き勝手ができないだけなんです。
よく「自由をはき違えるな」と言われるけど、それはそういう意味なんだと思います。

好きなことをとことんやるために、それを社会が認めてくれるためにはどうすればいいのか。
嫌いなこと、嫌なこともほどほどにやることも必要かもしれない。
それより、自分の好きなことが周りの人たちもハッピーにしていくなら最高です。
そこまで考えて実践してこそ、自由を得ることができるんだとぼくは思います。

2008年12月10日水曜日

スペシャリストになろう!

こんにちは

ぼくは養老さんが好きです。岸田秀さんも好き。
最近は内田樹さんも好きですね。
このお三方はご自分の専門にかかわらず、どんなジャンルのことでも分析ができる。
それも切れ味鋭い。

なんでそんなことができるのか、不思議だったし真似したかった。
養老孟司/牧野圭一『マンガをもっと読みなさい』晃洋書房\1500-を読んだら、その秘密が書いてあったんです。

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ところで、日本の大学の学科分類の最大の欠点は、対象で学科を切ることです。
法律を扱う学問と経済を扱う学問とは違うというんですよ。でも、違わないでしょう。
料理を習うときに、和食、中華、フランス料理というように分けて、皆さん納得している。
僕はそういうふうには分けない。
包丁の使い方、材料の選び方というように、方法で分けます。
包丁の使い方をちゃんと心得れば、中華だろうが和食だろうが使えるでしょう。
それをやらないから日本の学校は役に立たないんです。
ですから、法律について一応知ったような顔をしているけれど、応用はまったくきかないんです。
解剖というと、皆さんは人間をばらしているんだ、人間についてなにか知るんだと思っているでしょうが、僕はまったくそう思っていないんです。
解剖の方法論はなんにでも使える。
よく比喩的に使うじゃないですか、社会を解剖するとか。
僕はあちことに余計な口を出すようですが、根本は解剖で覚えた方法論を使っているだけです。
まさにメスの使い方です。(162-164p)
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なるほど。
ひとつでも方法論を徹底的に身に着ければ、それは他のことにも応用可能となる。
一つの方法論をあらゆることに適用してみることによって、さらに切れ味がよくなってくるんですね。
養老さんは解剖学を極め、岸田さんはフロイトを、内田さんはレヴィナスを極めた。
だからなんにでも鋭い切れ味で批評できるんですね。
それもわかりやすい言葉で。

昔から「一芸に秀でる」って言いますよね。
どんな分野でも一つのことに秀でるまでやれば、人格も磨かれるってことでしょう。
人格というのは狭い世界だけじゃなく、広い世界で通用する、尊敬されるものです。
専門性も極めれば、その専門分野ではない人からもすごさが分かるんです。
それは、専門以外のことも理解し説明する能力が備わっているからです。
だから尊敬もされ、人格も優れていると誰からも評価されるわけです。

専門バカという言葉もありますが、まだまだ極め方が中途半端なんでしょう。
専門用語、カタカナ用語を得意そうに使って、ちっとも要領の得ない話を得々とする人もいますが、そういう人は未だ専門バカにとどまっている人と言えると思います。
仲間内なら通じるのかもしれませんが、端から見るとバカに見えたりもします。
それは、たいして専門性もないことが、素人目には分かってしまうからです。
むしろ、素人の方がわかっちゃうんですよね、専門バカかどうか。

ぼくは若い頃(40歳前)までは、自分の専門に没頭すべきだと思っています。
スペシャリスト目指して、意図的に経験を積み、それを支えるだけの知識を学ぶ。
ぼくもそうしてきたつもりです。
そうすると、周りがよく見えるようになるんですね。
専門外のことも理解できるだけの「備え」が、自分の中に存在するようになる。

そうすると、たとえ諸事情で専門外のことをせざるを得ない状況になっても、あたふたしないですむ。
難なくこなせるからです。
ちょっと頑張れば、できちゃうのです。
その意味で、ゼネラリストになっているのです。

よく配置転換で自分の意に沿わない仕事をさせられて、無能化してしまうおじさんとかいます。
そういう人は、専門性が身に付いてなかったってことだと思うのです。
専門性があれば、どんなことだってまずまずこなしていけるはず。
そうでないなら、スペシャリストでもなかったということです。

養老さんも岸田さんも内田さんも、世に出たのは50歳過ぎ。
ぼくの50代も楽しみですぞー。
あはははは。

2008年12月8日月曜日

愛と努力と忍耐と

こんにちは

先週末、教え子の結婚式に呼ばれて家族で北海道に行ってきました。
式場は千歳空港から近いホテルニドム。
朝からの雪で雪化粧されていて、式場内からも景色が見られるすてきな会場。
北海道の結婚式にはめずらしく、出席者数十人のアットホームな披露宴でした。
披露宴でぼくは、乾杯のスピーチをさせてもらいました。
その内容はこんなの。

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ぼく「和朝君、ともかさん、ご結婚おめでとう!
   今日初めてともかさんにお会いしましたが、和朝君、いい嫁さんもらったなー。
   よかったよかった。
   ここで、お互いどんなところが好きになったのか、インタビューしてみましょう。
   ともかさん、和朝君のどこが好きですか?」

ともかさん「う~ん、メガネがすてきです~」

ぼく「なるほどー。
   じゃ、和朝君は?」

和朝君「やっぱり、笑顔ですねー!」

ぼく「スバラシイ!
   お二人とも、愛は確実にあると思いました!
   でも、愛だけじゃいい家庭は作れません。
   あと何が必要か、うちの奥さんに聞いてみましょう」

晶ちゃん「えーと、努力と忍耐が必要ですねー(笑)」

ぼく「なるほど!
   愛と努力と忍耐があってこそ、いい家庭が築けるんですね!
   それでは、お二人とここにいらっしゃるみなさんの愛と努力と忍耐のために、
   カンパーイ!!」
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ね、おもしろいスピーチでしょ。
席に戻ると、晶ちゃんの隣に座っていた教え子の朝和君がこう言いました。
「先生のスピーチ、うちのヨメさんにも聞かせてやりたかったよ。努力と忍耐が足りないからなー」
すかさず晶ちゃんが反撃してました。

「朝和君、それは違うよ。
 努力と忍耐は他人に強要するもんじゃない。
 自分がやるもんだよ。
 それができるってことが愛なんだよ」

さすが我が嫁さん、スバラシイですねー。
そうなんです。
自らが相手のために、家族のために、どれだけ努力と忍耐ができるか。
それが愛情を表すバロメーターなんですよ。
たとえ夫から、女房からであっても、他人から強要される努力と忍耐は「奴隷扱い」に堕します。

夫婦として、家族として最適なパフォーマンスを得るためにはどうすればいいか。
それぞれが自分の思うとおり、やりたいようにしていたら、全体のパフォーマンスは悪くなり、反って居心地の悪い家庭になってしまいます。
お互い譲り合うところは譲り、我慢するところは我慢する必要もある。
そうすると逆にハッピーになれるんだってことです。

それができずに自分を主張するだけになったとき、愛は終わるんです。
誰が言ったか忘れちゃいましたが、その意味で「愛は妥協」でもある。
妥協できなくなったとしたら、愛もなくなったという証拠なんです。

披露宴が終わったあと、苫小牧に住む別の教え子の家に寄りました。
まだ子どもが小さくて式には出られなかったんです。
最近、家を建てたというので見せてもらったんです。
式場まで亭主に迎えに来てもらいました。

この亭主が若いのによくできた亭主で、とても子煩悩。
3人の子どもの面倒をよく見てくれていました。
教え子も幸せそうでした。
教え子がハッピーであることを見るってことも、教師冥利に尽きますね。

宿に帰って、晶ちゃんにこう言いました。
「ぼくの教え子たちって離婚率低いよね。やっぱり離婚ってのも知性に関係してるんじゃないかな」
すかさず晶ちゃんに反撃されました。
「育ちゃん(ぼくの妹)がバツイチだって忘れてない?」
ありゃりゃ~~~~~。

2008年12月4日木曜日

記憶力を鍛えよ!

こんにちは

ぼくの仕事のメインは、新しい研究施設や実験施設を造ることです。その施設ごとにだいたい1年から3年のプロジェクトとなります。プロジェクトごとに違う人たちとタッグを組んで仕事を進めます。違った会社、違った経験を持つ人たちです。その人たちとぼくは、1年から3年つきあうことになるわけです。

まもなくX線自由電子レーザー施設の建物が完成します。電気設備を作ってもらった若い(と言っても中堅かな)担当者とも3年近いつきあいになります。ようやくプロらしい仕事をしてくれるようになりました。それはぼくにとって嬉しいことです。

ぼくは「仕事の半分は教育である」と考えています。同様なことが斎藤孝さんの本にも書いてありました。仕事をする中で、誰かを教えることもあるでしょうし、誰かから自分が学ぶことも必要。ぼく自身、いまの仕事を始めたばかりの頃は年長の人たちとの仕事でしたから、学べることは存分に学んできました。いまはもう、メンバーの中ではぼくの方が年齢が高くなることが多いので、せっかくある期間一緒に仕事をするのだから、ぼくの知識と経験を若い人たちに伝えていきたいと思っています。もちろん、若い人たちから学ぶことも忘れずに。

仕事は雑多な要素の組み合わせですが、その中に必ず教育はあるべきだと思っています。教育という視点のない人の仕事は、面白いものになりません。仕事における教育とは何かを、一言でいうと

 仕事は積み上げるものである

ということです。今までの経験や知識を総動員して、現在の仕事に生かすこと。「ああ、これはあの時のあれと同じ考えですね」と相手が言ってくれると、積み上がってるなーって思います。こういうときは、忙しい時期でも元気が出ます。逆にぼくの方が「おいおい、あの時のあれと同じにやってくれればいいんだよ」とケチをつけなくちゃならないと、積み上がった気がしなくてがっかりします。疲れがドッと出ちゃいます。

さて、では仕事を積み上げるためにはどうすればいいか。ぼくの尊敬する国語教師、野口芳宏さんは

 経験は意図的に積まねばならない

と言います。つまり、ただのんべんだらりと時間を過ごしたのでは、本当の経験にはならないのです。技術者の実力を示す公式があります。

 実力=知識×(経験)^2

もちろんこの式の経験は、意図的な経験のことです。意図的な経験は、実力に二乗で効いてくるわけです。知識が0というのも困りものですが、意図的な経験は知識も増強してくれます。
知識に裏打ちされていない経験は、やはり脆弱なものでしかないからです。同じく、経験に裏打ちされた知識は、強力なものになります。

経験を意図的に積むためには何をすればいいでしょうか。それは「反省する」ことだと思います。失敗したらその原因をとことん考え、次に生かす。成功してもその原因を分析し、自分の技になるまで高める。

反省するためには、失敗したときでも成功したときでも、その経緯、個々の要素をこと細かく記憶しておく必要がある。物事を厳しく視てそれを脳にインプットしていく。インプットされた記憶と結果を照合させることなしに、分析はできません。そしてその分析結果を元にして、次に経験することをデザインするんです。その意味で、意図的な経験とは人為的なものなんだと思うのです。待っているだけじゃダメなんです。それが、経験を意図的に積む方法なんです。

さて、このコラムでぼくの一番言いたいこと。経験を意図的に積み、仕事を積み上げていっていい仕事をするためには、

 記憶力を鍛えておけ

です。いい仕事をする人はすべからく記憶力が抜群です。これは間違いないです。ビルゲイツの記憶力のすごさは有名です。ぼくも仕事でたまに高級官僚の人と打ち合わせる機会がありますが、その記憶力は尊敬に値します。彼らはその記憶力を活用してバリバリ仕事を進めているわけです。

最近の学校教育の風潮では、記憶力は軽視されているように思います。暗記して何になる、暗記しても役に立たない。確かに学校で習うことを暗記しただけじゃ、役に立ちません。暗記したものを応用することができないと意味がない。でも、応用は学校で教育しづらい、不可能なものです。それはやっぱり社会に出て、現実に仕事をしてみないと磨かれない能力です。だから、学校ではその前段となる部分を鍛えているのだ、と考えるといい。

入試でも暗記問題が出題されます。青色LEDの発明者中村修二さんは「入試はちょーウルトラクイズだ」なんて言っています。でも中村さんにしても、あの膨大な著作を次々と出版しているのを読めば、ものすごい記憶力の持ち主だと分かります。
日亜であったことを事細かに記憶しているから、ねちねちとあれだけのものが書き続けられる。もちろん、青色LEDを発明するのだって中村さんの全くの独創ではなく、過去のいろいろな研究者たちの研究結果の上に成し遂げられたものでしょう。また、毎日の実験で失敗したこと、成功したことを反省して、次の実験をデザインする。つまり、ちゃんと必要なものは記憶して、その上に自分の研究を積み上げることができたから、青色LEDを発明することができたんだと思います。
それはきっと、大学入試のためのクイズでも鍛えられたんだと思うのです。

入試で記憶力が試されるのはなぜか。記憶力に長けた学生を入学させたい、記憶する回路を脳に持った学生を入学させたい、という趣旨で暗記問題が出題されるのだと思うのです。記憶力は学問を積み上げていくのに必要な能力と認めていたのだと思います。それが、暗記学習の<立法事実>だったのだと、ぼくは思うのです。

学生諸君、暗記をバカにせず、記憶力を鍛えておきなさい!

関口

2008年12月3日水曜日

天職を見つけよう

こんにちは
今年ノーベル物理学賞をとった益川先生、なかなかの変人です。
益川先生は常々奥さんにこう言っているそうです。

「ぼくが交通事故に遭ったとしたら、運転手を責めてはいけない。
 考え事しながら歩いているぼくが悪い。」

おもしろいですねー。
そのくらいいつも物理のことを考え続けているんですね。

ぼくも先日、新宿の街を歩いているとき、電柱にぶつかってしまいました。
人通りの多い時間だったので、周りの人にくすくす笑われちゃいました。
なぜ電柱にぶつかったかというと、上を向いて歩いていたからです。

ぼくの仕事は電気設備技術者です。
電気設備は上の方に設置されていることが多いわけです。電線とか照明器具とか。
そういうものに興味があるもんだから、どうしても上を見る。
見るだけじゃなく、見たものを元にあれこれ考えたりするわけです。
それも歩きながら。。。
だから、電柱にぶつかってしまったというわけです。

横田濱夫『そんな会社、辞めてしまえ!』講談社+α文庫\680-にこんな話が書いてありました。

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職業病は夢の代償?
たまたま物書きという職業は、代償が腰にくるけれど、他の職業だって、みんなそれぞれ犠牲を払っている。
あしたのジョーを夢見た若者を待っている職業病と言えば、網膜剥離だ。
目の上を切って出血するのも痛いけど、それにもまして網膜剥離は、目が見えなくなるという一生のダメージを背負ってしまう。
その危険を冒してまでも、ボクサーがリングの上で殴り合うのは、本人にとって「ボクシングが好きだから」だろう。
どんな世界でも、リスクを負わなかったら、富も名声も掴めない。
ボクサーの場合、たまたまそのリスクが目にある、ということだ。
オペラ歌手にも、やっぱり職業病はある。
常にでかい声で、声帯をめいっぱい共鳴させて歌うことにより、過剰な刺激が脳に伝わる。
特に高音域帯を歌う、女性ならソプラノ、男声ならテノールの場合はそうだ。
するとしだいに、刺激で脳味噌の組織がやられてしまう。
実際、音楽業界には、「ソプラノXX」とか「テノールXX」なる言葉さえあるそうな。
その危険をわかっていてなお、オペラ歌手たちが大声で歌うのをやめようとしないのは、それが自分の天職と信じているからだ。
これってほんと、すごいことだと思う。
自分の脳味噌の破壊もいとわないで、好きな道に邁進するんだから・・・。(35-36p)
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オペラ歌手の話はホントカナーって眉に唾着けてしまいますが、天職として仕事を楽しんでいる人は、どうしても犠牲になることもあるんでしょうね。
犠牲になることがわかっていてもやめられないんです。
そのくらいにならなくちゃ、天職とは言えないのかもしれません。
ぼくも電柱にぶつかって周りの人から笑われるくらいは、電気屋として仕方ないということでしょう。
なんちゃって!

仕事が天職化してくると、だんだん仕事時間とプライベート時間との区別がつかなくなってきます。
公私混同状態になっちゃう。
仕事中でも遊んでいるように興味の赴くまま調べたり、計算したり。
遊びに行っているときでも仕事に関係する面白いものを見つけると、そっちに目が釘付け。
飯食っているときでも方程式解いていたりして。
そうして嫁さんに叱られたりするのも、犠牲のひとつでしょうか。
わははははは。

2008年12月2日火曜日

感謝は実力の証

こんにちは

以前、ぼくの所属していた部署であったことです。
他の係のある若い(中年?)同僚が、仕事をかかえて滞っている。
このままでは他の部署にも迷惑かけそう。
ちょっと余裕があったので、ぼくが手伝ってやることにしました。
「それ、ぼくがやっつけてやるよ」
書類一式とデータファイルを受け取って、ざくざくやり始めました。

ちょっと休憩しようと、お茶を入れに行きました。
そいつの机の脇を通ったんです。
え?ネットサーフィンしている??

ま、いいか、と気を取り直して、仕事継続。
小一時間で仕上げて、「はい、できたよ」と彼に渡しました。
すると「あ、どうも」という返事。
ちょっとカチンと来ました。
「どうも、じゃないでしょ。ありがとうございました、でしょ」年下だからきちんと礼儀も教えてやらなくちゃ、なーんて思ったのが間違いでした。

「なんでお礼を言わなくちゃいけないんですか」
「こっちから頼んだわけじゃないですよ」
「今まで私もこの仕事をずっとしてきましたが、誰からもお礼なんか言われたことはありません」
「もうやってもらわなくて結構です!!」

さてさて、実力のある人は「ありがとう」と言われる人、実力のない人は「ありがとう」と言う人、というのが常識かと思ったら、違いますね。
実力のある人ほど「ありがとう」と言うし、実力のない人ほど言わない。
これは一つの人間の法則のようです。

実力のない人は、らかじめ誰かに手伝ってもらったり助けてもらうことを予定しているんです。
だから、手伝ってもらって当たり前、助けてもらって当たり前という意識があるようです。
なので「ありがとう」と言わないことになる。
何らかの事情で手伝ってもらえない、助けてもらえない場合、その人を逆恨みしたりするんです。
なんで手伝ってくれないのよーーー!!ってね。

実力のある人は違います。
もともとどんな仕事でも一人でこなせるだけの力がある。
でもできれば自分の専門性を生かした仕事、自分しかできない仕事に集中したいわけです。
自分じゃなくてもできる部分を他の人が手伝ってくれたら、とても嬉しいわけです。
人は自分しかできないことをバリバリやるときほど、幸せを感じることはないんですから。
だから誰かが手伝ってくれたとき、素直に「ありがとう」と言えるのです。

生産性、効率性も全く違ってきます。
実力のない人は誰かに手伝ってもらっているとき、自分は仕事をしていない場合が多い。
できあがるのをただただ待っているだけんですね。
ひどい人になると、手伝ってもらっておいて「遅いよ!」なんて文句言ったりする。このとき、仕事をしているのは手伝っている人だけでご本人は何もしていないので、本来2人分の労働力は半減しています。

実力のある人は、手伝ってもらっているときでも、自分の専門性を生かした仕事をざくざくとこなしている。
もちろん手伝っている人も一生懸命仕事をしているし、手伝う人も自分の専門性を生かした部分を手伝うわけです。
それぞれが自分の専門性を生かした仕事をすれば、2人分以上の仕事ができ、生産性、効率性も向上します。
これが本来の「分業」ってものだと思います。

辞書を調べていたら、おもしろい発見をしました。
「感謝」の反対語は「怠惰」なんですね。
つまり、ありがとうをたくさん言えない、言わない人は怠惰な人なんです。
逆に、ありがとうをたくさん言える人は、勤勉で感謝に満ちた人ってことです。
ぼくも感謝に満ちた人でありたいなって思っています。

2008年12月1日月曜日

出張授業の感想

こんにちは

播磨高原東小学校から、出張授業の感想文が送られてきました。
どの子も授業を楽しんでくれたのが伝わってきます。
嬉しいですねー。
いくつか紹介したいと思います。

3年生担任 二井先生
先日は大変お世話になりまして、誠にありがとうございました。
児童は大変興味をもって楽しんで学習することができました。
授業後も工作したもので遊んだり、授業の感想を喜んで話したり、大満足の様子でした。
児童のお礼の手紙を添えております。
なお、親しみ深い名前を使わせていただいておりますが、どうぞお許しくださいませ。

3年生 下條美季さん
こないだのSASで、いろんなことを教えてくださってありがとうございました。
おかげでいろいろな事を知ることができました。
私は「電子」というのをはじめて知りました。
こんど助手をしてみたいです。

3年生 時政侑香さん
こないだのSAS、ありがとうございました。
とてもたのしかったです。
少しこわかったです。
一番よかったのは工作。
コップが一番うれしかったです。
その「キラキラコップ」とても大事にしています。
「電子」など、いろいろなことをおしえてくれてありがとうございます。

3年生 谷口せいや君
100Vでえんぴつがばくはつすることが、はじめて知りました。
電気の中はにじ色というのも、はじめて知りました。
これから、もっと高い温度をやってみて、どうなるか知りたいです。

3年生 てる岡七海さん
せき口おじさん、まつ岡お姉さま、まづかお姉ちゃん、11月17日はありがとうございました。
えんぴつをもやすのが楽しかったです。
それにコンセントは100Vあるのは初めて知りました。
これを見て理科がすきになりました。

3年生 籠島瑶さん
前のSASのじゅぎょうの時は、どうもありがとうございました。
とても楽しいじゅぎょうでした。
まつおかお姉さまやまづかお姉ちゃんにもおせわになりました。
おどろいたのは100ボルトでえん筆とえん筆をつける実けんです。
ばくはつしたように見えて、どうなるかと思ったぐらいでした。
「ぶんこうき」は今も家で楽しんでいます。
またぜひ学校に来て楽しいじゅぎょうをしてください。

4年生 藤阪希海さん
11月18日は、私たちのSASのために来て下さってありがとうございました。
私は工作(キラキラめ鏡、コップ)や、えんぴつの実験を見たりするのがとても楽しかったです。
でもこの実験は「バン!」といった時、ドキッとしました。
め鏡はきれいでびっくりしました。
私は「V」(ボルトのV)を知りませんでした。
あまり使わなそうだと思ったけど、おもしろそうなので、ずーっとおぼえておきたいです。
ふつうの理科よりずーっと楽しかったです。
また来て下さい。

4年生 中田凌輔君
月よう日はありがとうございました。
ぼくは電気はねつが高いほどき色やオレンジになることがわかりました。
もしもぼくが大人の時、関口おじさんと松おかおねえ様と馬づかおねえちゃんといっしょに、けんきゅうしてみたいです。

4年生 大島奈津子さん
わざわざ来て下さって、ありがとうございました。
おかげでおもしろく勉強になりました。
例えば、電子がはげしく動くと光が出たり、シャーペンのしんも電気をとおすことやら・・・びっくりすることもありました。
にじ色のあのかみみたいなものもありがとうございました。
科学者は本当にすごい、ということも分かりました。
楽しかったです。

4年生 北野寛晶君
SASの教科が楽しかったです。
えんぴつに100Vを通すとしんだけになったことが予想外でした。
ぼくはびっくりしました。
光の色々なことが分かってうれしいです。
これまで「電子」という言葉はきいたことがあったけど、「電子」は「光」ということが分かってすっきりしました。
本当にありがとうございました。

4年生 谷口統弥君
わざわざおいそがしい中ありがとうございました。
えんぴつに100V通したり、すごいじしゃくをしたりして、すごくおもしろく楽しいじゅぎょうでした。
光はよくそこらでみているけど、まだまだ知らない事がありました。
ありがとうございました。

4年生 恵郷美紀さん
SASの時はありがとうございました。「電子」のことが少し分かりました。
電子が何こか集まると光になる事が分かりました。
わたしは、少し科学者になったような気がしました。
とっても楽しいSASでした。

エクスキューズは後でしろ

こんにちは

XFEL電気設備工事を担当している現場代理人から連絡がありました。
電気の配管と制御ラック架台が干渉しているとのこと。
この電気配管はマシン制御線を配線するためのもの。
それが使えなくなってしまったら大変です。
しかしこの配管はコンクリート埋設配管。
やり直しとなると大事です。困った。

制御ラック架台は建築工事。
この不具合が、電気工事のせいなのか建築工事のせいなのか、ちょっとトラブルにもなっているらしい。

何はなくとも現地確認です。
いつもより朝早く現地に行き、不具合現場を見に行きました。
もちろん、総合図、施工図も持って。
図面通りに施工されているかどうかで、誰のミスか判断できますからね。

現場と図面を照合したら、ほんの数cm配管位置がずれていました。
現場施工者に確認すると、建築の型枠金具があって図面通りの位置に配管することができず、ちょっとずらしても大丈夫だろうと思ったとのこと。
そのためラック架台と干渉し、配管断面積の1/4程度が架台でふさがれてしまったのです。

これは明らかに電気工事でのミスです。
ミスは認めちゃった方がいい。
すぐ現地の担当の方に「電気のミスです。申し訳ありません。どう対処すればいいか指示願います。研究者との調整もします」と伝えました。
施工者にも、施工定例という公の場で謝らせ、今後は同様のミスをしないよう対策を指示しました。
現地の担当の方から「わかりました。当方で研究者と調整します」と言っていただきました。

後日その方から「この程度の干渉なら問題なし。このままでよい」と連絡をいただきました。
ホッとしました。

藤巻幸夫『藤巻幸夫のつかみ』実業之日本社¥1400-から引用します。

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順序が大切だから、もう一度確認しておく、まず、結果の良し悪しだけを報告して謝る。
「失敗しました」->「全部、自分が悪い」の順。
その上で「上司の許可を求める」->「経過を報告」->「多少のエクスキューズ」の順番。決して最初からエクスキューズはしないこと。
上司は絶対聞いてくれない。
それどころか、エクスキューズをすればするほど、怒りの火に油を注ぐことになる。
なにより、あなたの人格が疑われる。(55-56p)
###

自分が悪いと判断したら、素直に謝った方がいいとぼくは思っています。
その方が信用を得られる。
プラグマティック(実利主義的)に考えても、その方がお得なんです。
変に言い訳したり、誰かのせいにする方が、話がこじれますからね。

たとえミスに対する合理的な理由があったり、他の人のミスがあったとしても、最初に言い訳や誰かのせいにするのは得策ではありません。
そういう場合でも、自分が当事者であれば何らかの責任があるからです。
その部分は謝るべきなんです。
藤巻さんの言うように、最初にエクスキューズする人を多くの人は信用しないからです。

ぼくも社会経験を積んできて分かってきたことですが、最初から言い訳したり誰かのせいにする人は、たいていその人が悪い。
自分が悪いことが分かっているから、言い訳したり誰かのせいにしたりしないではいられない。
自信がないからです。
もうこれ以上失敗することはできないという思いが、言い訳や責任転嫁を生むのです。

自信があるから素直に謝れる。
多少のミスがあっても、それを上回るいい仕事をしているだけの自信がある。
ミスをリカバーするだけの技術も持っている。
だから謝ることに躊躇がないんです。

これはひとつの「人間の法則」だと思います。子どもの頃よく親から「言い訳するんじゃありません!」と言われたものです。
これは正しい躾けだったんですね。

2008年11月29日土曜日

いい顔になろう!

こんにちは

誰にだって挫折経験はありますよね。
失敗してしまった、思うとおりにはいかなかった。
自分の非力さを思い知らされて、がっくり来ることが。
そこから立ち直るとき、人は二種類に分かれるようです。

どうやって敗者復活戦を闘っていくか。
一つは、自分の至らないところ、不足する力を補おうと、努力を始める人。
あるいは、自分の長所をさらに伸ばし、アドバンテージを確保していこうという人。
要するに、自分を変えていくことで人生の再挑戦していこうとする人ですね。

もう一つは、自分のことはさておき、それより他人のアラを探し出す人。
確かに、他人の弱点を掴めばその分自分にアドバンテージが生まれます。
他人を引きずり下ろすことで、自分を勝者にしようという考えです。

前者が「絶対基準」による戦略、後者が「相対基準」による戦略と言えそうです。
果たしてどっちが楽に闘っていけ、最終的にハッピーになれるのか。
ぼくは前者を選びたいですね。
だって他人のアラを探すのって、疲れるもん。

いつも他人を気にして、自分より上にいるヤツ、上に行こうとするヤツの行動を見張っていなくちゃいけない。
何人も何人も見張り続けて、誰かがミスをしないか、落ち度はないか探し続ける。
これは並大抵な努力ではできませんよ。

それで何回かは誰かを引きずり下ろすことに成功するかも知れません。
でも、それだけ自分の努力と労力を傾けたとしても、自分の実力はちっとも上がっていないのです。
追いついてくるヤツ、突き上げてくるヤツは後から後からやってくるんです。
その数はどんどん増えていくわけですよ。
だって、自分はずっと同じ場所にいて、それを迎え撃っているだけなんだから。

そうなると、いつも不安の中で生きなくちゃならない。
自分に実力がないから、いつまでたっても自信を持てない。
それって非常に疲れることだと思うんですよ。

それならもっと自分を安全確実な場所へ移動させちゃう方が楽でしょ。
他のヤツらはおいそれとはやってこれない場所、追いつけない場所まで行ってしまえばいい。
安全地帯にまで行ってしまえれば、心安らかになれるはずです。
もちろん、安全地帯に行くまでにはそれなりの努力は必要ですよ。
でも少なくともしばらくはのんびりハッピーに生きることができます。

そして自分の実力が上がったという自信が生まれ、心に余裕が生まれます。
余裕が生まれれば、さらに上を目指すパワーが生まれてくるんです。
またがんばろう、努力しようという気力が生まれる。

だからぼくは自分を鍛える方を選ぶ。
同じ努力をするなら、こっちがいいとぼくは思っています。
それにねー、他人のアラばっかり探していると、人相悪くなりますからね。
健康にも悪そうです。

林道義『母性の復権』中公新書\660-から引用します。

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表情というものは、長い人生のあいだに、その人が体験してきた感情生活の現れである。
感情生活が豊かで、しかもいつも洗練されたよい感情を抱いている人は、顔の表情が豊かで穏やかで、笑顔が基本になった表情になる。(36p)
###

自分の弱さを自覚して自らを鍛えていけた人は、自信が生まれいい顔になれるんだと思います。
リンカーンが「40歳を過ぎたら顔に責任を持たねばならない」と言ったのは、40歳過ぎたら自分の生き方、生きる姿勢を確立していなくてはいけない、という意味だったんでしょうね。
他人を蹴落とすような生き方ではなく、自分を鍛えてきた人間は美醜はともかくとして、いい顔になっているはずなんです。

40歳を過ぎた頃から、顔を見ればどんな生き方をしてきたか、それが一目瞭然になってしまうわけです。
それが「顔に責任を持て」ということなんだと思います。
脳科学的にも、脳が正しく働き、喜びに満ちた生き方をしていると、顔にもそれが顕れることがわかっています。
顔は脳の反映なんですね。

もう5年くらい前でしょうか、藤原和博さんに泰明小学校で開催されたイベントの時にご挨拶したことがありました。
それ以前から藤原さんの講演を聴いたり、ホームページの掲示板に書き込んだり、何度かメールのやりとりはしていたんですが、直接お会いするのは初めてでした。
その晩藤原さんからメールをもらいました。「よっちゃんも晶ちゃんも、思った通りいい顔してました!」とっても嬉しかったです。
嬉しさと共に、背筋もシャンとしました。
これからもいい顔であり続けたいな、って。

2008年11月26日水曜日

何割かの人に嫌われる戦略

こんにちは

出張授業を担当してくれた播磨研広報担当の方からこんなお手紙をもらいました。

 先日は楽しい授業をありがとうございました!
 私もとても勉強になりました。
 関口さんに教えてもらったら、私ももっと
 理科が好きになっていたかも?と思います。

うれしいですねー。
ぼくは、本質的な授業は子どもはもちろん、大人も楽しいと思っています。
それが伝わってうれしいです。

ところでぼくは、職場の労働者代表のひとりに選ばれました。
我が理研も労働組合の組織率が落ちて、代表権がなくなってしまった。
そこで選挙によって労働者代表を選ぶことになったのです。
ぼくは出張などが多く、満足に労働者代表としての務めを果たせないかもしれませんが、やれることを誠実にやっていこうと思っています。

ぼくが今職場の労働環境で気になっていることは、30代前半の係長レベルの若い女性職員に辞めてしまうことが多いこと。
今の若い女性は優秀ですからね、もったいないですよ。
本当に自分の意志で辞めているのならそれもいいんですが、働き方が合わない、残業が多くて家事育児と両立しないから、仕方なく辞めるということなら、改善していかなくちゃって思うのです。
ぼくの最重要課題として取り組んでいきたいと思っています。

さて労働者代表選挙はぼくに対する信任投票によって行われました。
結果は、全員が信任してくれたとか。
え?って思っちゃいました。
ぼくは確実に2割くらいの人には嫌われているはずなんです。
はっきりものを言うからね。
その2割の人も信任したってわけ?

選挙管理委員の人に質問してみました。
そうしたら、投票した人は全員信任だけど、投票しなかった人もいた、とのこと。
なるほど。
ぼくを嫌いな人は、積極的に不信任にはせず、消極的不信任として投票しなかったってわけですね。
逆に考えれば、積極的には不信任できなかったってことです。

おかげでますます自信がつきました。
オレのやっていることは間違っていないと。
わはははは。

『徒然草』第188段も、いいこと書いてありますよ。

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一つの事をかならずし遂げようと思うなら、他の事がだめになるのを残念がってはならない。
人の嘲(あざけ)りを気にしてもならない。
万事を犠牲にしないかぎり、一つの大事が成るはずはない。
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ぼくは、全員と仲良くやることはあきらめちゃったんです。
世の中には、会社をよくしよう、社会をよくしよう、みんなをハッピーにしよう、とちっとも考えず、自分の思い通りにしよう、誰かを引きずり下ろそうとばかり考える人が確実にいます。悪魔です。
こういう人とまで仲良くしようとすると、自分の時間と労力と心を吸い取られてしまいます。
そうすると本来仲良くすべき人たちへの時間と労力と心をなくしてしまうのです。
だから悪魔とはなるべく関わらず、嫌われてもいいことにしちゃったんです。

そうすると、悪魔たちは陰で悪口を言ったりしてきたりしますよ。
でも兼行先生の言うように、人のあざけりなんか気にしないんです。
くだらないことに関わらず、自分のやるべきことを着実に誠実にこなしていく。
その方が自分も周りの人たちもハッピーになれ、ちょっとずつでも会社や社会をよくしていくことができると、思っているのです。

2008年11月25日火曜日

プロは慎重

こんにちは

今建設中の次世代スーパーコンピュータに電源を供給する、関西電力の新変電所が完成したというので、さっそく見学させてもらいました。
ついでに、そのまた大元の変電所や給電司令所も見学。
楽しかった~。

給電司令所とは、神戸管内の配電用変電所の状態監視、操作が遠隔でできるところです。
こちらも完成したばかりとのこと。
監視、操作を遠隔でできるようにしたため、各配電用変電所は完全に無人化されたそうです。

給電司令所には、監視設備とまったく同じシミュレーターが置いてありました。
そこで、関西電力の技術者さんが、保守点検のための制御プログラムを作成していました。

ぼくは疑問に思いました。
せっかく全部自動化したのに、制御プログラムをいちいち作成するのはなぜ?
その答えはというと。

 ・電気事故の場合は、安全に遮断するための手順が確立されているので
  制御プログラムは完全に自動化している。
  また、制御装置が完成するときに念入りに試験をしているので、
  事故対応は完璧になっている。
 ・保守点検のための制御は、その保守内容によって異なるので定型がない。
  定型がないので、すべての場合を想定したプログラムをあらかじめ作成
  するのは困難である。
  その都度プログラムを作成する方が合理的。  
 ・さらに、制御プログラムを作成する技術者の育成も継続させる必要がある。

作成した制御プログラムをシミュレーターで確認し、実際の作業に支障がないことを十分確かめるわけです。定型のない制御なので、いきなり実機で制御することは危険です。
ある制御をしたために、思いもしなかった事故対応の自動制御が働く可能性があるからです。
監視制御装置はあくまで事故対応を優先して作られているからです。
そういう思いこみ操作を防ぐために、シミュレーターで確認するわけですね。

今『徒然草』なんて読んでいます。
ぼくは古典の素養がないので、もちろん現代語訳。
第187段にこんなことが書いてありました。

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どのような道であれ、専門家というものは、たとえ下手でも、上手な素人と比べれば、かならずまさるものだ。
それは、専門家がたゆみなく用心して、軽率に事を行なわないのに対し、素人はただ気ままにふるまうという点で差がつくのである。
###

プロとはどんな人かというと、ぼくは次のように考えています。

 戦略は大胆に 戦術は細心に

戦略とは目標、目的です。
目標、目的は夢をでっかく持って、オレには実現できるはずだと確信する。
戦略はあくまでポジティブなんです。
でもそれだけじゃだめ。
戦略を実現するための戦術も持っている。
戦術こそ、夢を実現させるための技術、方策なんです。

そして戦術を選び、実行するときは、慎重に行う。
戦術はネガティブに考える。
決して軽率に気ままに行動しない。
失敗しないように慎重に慎重に進めるわけです。
それが戦略を実現する王道なんですね。

関西電力さんの給電司令所を見学させてもらって、プロの仕事の仕方を再認識しましたよ。
楽しかったなー。

2008年11月24日月曜日

餅がのどに詰まる

こんにちは

家族中で風邪を引いていましたが、ようやく脱してきました。
風邪の治りかけ、痰がよく出ます。
ねっとりした痰なので、咳をしてもなかなか出てきません。
昨日など、痰を出そうと咳をし始めたら、途中で痰がのどの奥でからまって、咳が止まらなくなってしまいました。
これは苦しい。
息ができないんですから。

お正月になるとお餅をのどに詰まらせて亡くなってしまうお年寄りのニュースが毎年のように流れます。お年寄りが餅をのどに詰まらせる原因は「嚥下(えんか)反射」が老人になると上手くできなくなるから、と説明されます。

人間ののどは奥の方で、空気の通り道である気管と、食べ物の通り道である食道とに分かれています。その分かれ道には、食べ物が気管の方に行かないように蓋をする「喉頭蓋(こうとうがい)軟骨」が付いています。嚥下反射とは、食べ物を飲み込むとき気管の方に食べ物が行かないように、反射的に喉頭蓋軟骨を動かして気管に蓋をする反射のことです。

この嚥下反射は、口からのどにかけての筋肉群が微妙に調整しながら行われるので、お年寄りになるとタイミングが上手く合わなくなってきてしまうのです。それでのどに餅が詰まってしまうというわけです。

でも考えてみると不思議です。お年寄りになれば正月だけじゃなく年中嚥下反射が上手くいかなくなっているはず。餅以外の普段の食事でものどに詰まらせることが多いはず。でも、日常的にお年寄りがのどに食べ物を詰まらせて亡くなったというニュースはありません。なせ正月なのか?なぜ餅なのか?

さっそく調べてみました。

お年寄りだけじゃなく子どもでも大人でも、誤って気管に食べ物が入りそうになった場合、それを取り除くために猛烈に咳き込んでしまいます。そういうときによく「気管に食べ物が入った」と言いますが、実際には気管にまで食べ物は入ってはいません。食べ物がのどの奥の気管の先端に触れるやいなや、強烈な吐気反射が起こって激しく咳き込み、肺からの空気の圧力で食べ物を追い出してしまうのです。そういうときよく食べ物が鼻の方へと入ってしまいますが、鼻は息の通り道ですから肺からの強い吐気は鼻に抜けるのは当然です。この吐気反射があるために、嚥下反射が上手くいかずに気管側に食べ物が入りそうになっても、それを取り除いてくれるのです。

このありがたい吐気反射ですが、もし気管の先端に触れた食べ物がベタベタと粘り着く餅のようなものだったらどうでしょうか。咳き込んでもちょっとやそっとじゃ吹き飛ばされずに、気管に付着したままになってしまうことが想像されます。

痰が絡んで咳が止まらなくなるのも同じ原理です。
粘っこい痰が、気管の入り口あたりに張り付いてしまうと、意志とは関係なく反射が起こり、それが除去されるまで咳をし続けることになるのです。

話を戻して。
若い人の場合、餅を食ってもよく咀嚼してから飲み込みます。咀嚼中には唾液とよく混ぜ合わされますから、餅の粘性も弱くなります。唾液の量は、30歳代では一日に約1500cc、歳をとると分泌量が減り、50歳代では約800ccにも減ってしまいます。また、お年寄りは歯が抜けてしまっていたり、入れ歯だったりするので、咀嚼力も若い人のように強くはありません。顎の筋肉も弱ってきています。お年寄りになると、唾液の量が減り咀嚼力が弱くなるので、餅の粘性もねばっこいまま飲み込んでしまう恐れが高くなります。

さらに、お年寄りになると肺活量が低下するので、気管に入ろうとする食べ物を吹き飛ばす威力が劣ってきてしまいます。こうした複合要因で、餅をよく食べるお正月に、お年寄りが餅をのどに詰まらせて亡くなってしまうというわけです。

餅がのどに詰まって死ぬと言っても、餅が気管を全部ふさいでしまって窒息死してしまうという場合は少ないそうです。実際は、気管が完全に閉塞することはめったにありません。餅のかけらが気管の先端にくっついてしまい、吐気反射が起こりますが、いくら咳き込んでも粘っこい餅は取れずに、果てしなく連続的に咳込みが続いてしまうことになります。咳き込んでいる間は、十分な息ができなくなってしまいますから、結局は窒息状態に陥ってしまい亡くなってしまうというわけです。ぼくは子どもの頃ぜんそくでしたので、ずっと咳込みが続くのを想像しただけで、息が詰まりそうです。

餅がのどに詰まる事故を防ぐには、唾液が少なく咀嚼力の弱いお年寄りでも食べやすく調理することが大事です。つまり、餅は最初から小片にする、最初から柔らかくなるまで煮ておくといい。でも、そんな風に調理した餅を食べて、餅を食った気がしないというお年寄りもいるでしょうね。

赤ちゃん、幼児も全く同じです。
咀嚼力が弱く、肺活量も少ない赤ちゃん、幼児に餅などねばねばしたものを与えるのは危険。
こんにゃく製品での事故も、餅と同じ原理で起こったのです。
気をつけましょう。

餅がのどに詰まる原理は、正高信男『0歳児がことばを獲得するとき』中公新書\680-の63pあたりに書いてありました。

2008年11月22日土曜日

深呼吸のススメ

こんにちは

出張授業の様子がさっそくXFELのホームページでも紹介されました。
http://www.riken.jp/XFEL/jpn/news/20081117/index.html
職場の男女共同参画事業でも、次世代育成の事例としても採り上げてくれるそうです。
ぼくの仕事の幅もさらに広がりそうで嬉しいです!

さて、ぼくも江戸っ子の端くれ、気が短い。気が弱いくせにね。
でも最近はすぐにカッとならないようにコントロールできるようになってきました。
それは、

 カッと来たら深呼吸

です。
やり方は、

 鼻から勢いよく3秒間くらいで息を吸う
 2秒くらい止める
 口をすぼめて10秒くらいかけてゆっくり吐く
 可能な限り息を出し切る

むかむかしたときや緊張したときは深呼吸3~5回するだけで、気分がスーッと軽やかになります。

数年前、朝日カルチャーセンターで野口整体の実習を受講しました。
野口整体でも深呼吸は重要視されていて、これを

 邪気を出す

と言っていました。
人間は、怒ったとき、怨みや妬みを持つとき、悩んだときなどネガティブな感情に囚われたとき、体の中に「邪気」がたまるんですね。
深呼吸をすると、その邪気を排泄することができるんです。

安岡正篤『人生の大則』プレジデント社¥1553-にこう書いてありました。

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精神と肉体との間には、非物質的な相互作用が行われており、その肉体に対する情緒の反応を物質化して証明することもできる。
汗と呼吸がそれをよく表し、アメリカの心理学者エルマー・ゲイツは発汗の科学的分析から情緒の表を作ることに成功した。
各精神状態はそれぞれ腺や内臓の活動に化学的変化を生じ、これによって造り出された異物を呼吸や発汗によって体外に排出する。
液体空気(圧力をゆるめて蒸発させると零下217度まで下がる)で冷却したガラス管の中に息を吹き込むと、平常の心理状態の時は、息の中の揮発性物質が液化して無色に近いが、その人が怒っていると数分後に管の中に栗色の滓が残る。
苦痛や悲哀のときは灰色、後悔のときは淡虹色となる。
この栗色の物質を鼠に注射するとたちまち興奮し、その人の憎悪や憤怒の激しいときは、その息の滓は数分で鼠を殺してしまう。
1時間の怒りの息の滓は80人を殺すに足る毒素を出し、この毒素は従来の科学の知る最強の毒素だそうである。
故に悪感情を抱くことは、結局その人の肉体に毒気が鬱積して、その人を自殺に導くものである。
人間の長い長い歴史的経験から生まれた言葉の中には、新しい科学的研究が感を深くするような真理の含まれているものが多い。
「毒気を吐く」とか「彼奴の毒気に当てられた」というようなことは、そのまま真実なのである。(14-15p)
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昔の刑務所は、換気の悪いところに受刑者を詰め込んでいました。
すると、受刑者同士の争いが増えたり、病気になる人が多かった。
それは受刑者の邪気が充満しちゃうからなんですね。
換気設備を付けるだけで、それが軽減したっていうことです。

犯罪者ほどじゃなくても、普通の人でも、自分が怒ると相手も怒る、相手が怒ると自分にも怒りの気持ちが沸き上がってくるってことがよくあります。
相乗作用で怒りがエスカレートしてケンカになることも、誰もが経験していると思います。
それも邪気のせいだったんです。

屋外などきれいな空気の場所で深呼吸することは、理にかなっている。
邪気を体から抜き、他の人に影響を与えない。
ネガティブな感情を感じたら、ちょっと休憩をとって、外に出て深呼吸。
これ、いいですよー。

2008年11月18日火曜日

子どもだからって手を抜かない

こんにちは
 
昨日、SPring8の近所にある播磨高原東小学校で出張授業をしてきました。
相手は3,4年生。3時間目、4時間目と2コマ続きの授業でした。
授業の内容は以前お伝えしたとおり、光が出る仕組みを実験を交えながら話し、簡単な分光器を工作するというもの。
とても盛り上がりました。
ぼくの授業の腕も、それほど落ちてないかも!
なーんちゃって。
 
『致知』'08.10に文の京こども論語塾講師溝本定子さんの講演録「優しい心を育む」が載っていました。
 
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(祖父安岡正篤氏から言われて)印象に残っているのは、
 
 「年齢がいかないからといって、幼い子の中身を幼稚だと思うのは、大人の驕りだ」
 
という言葉です。

 「小さな子は持っている言葉や経験の数が少ないだけで、中身は豊かである。
  だから大人が子どもに対して”どうせ分からないだろう”と思って手を抜くのは
  もってのほかだ」
 
と。
小さな子ほど丁寧に接し、上質なものを与えないといけない、大人同士で通じる難しい言葉ではなしに、その質をいかに落とさずに子どもに伝えられるかが大切で、それができるのがよい教師であると話していました。
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ぼくの授業の内容も小学3,4年生レベルをはるかに超えたものです。
でも手を抜きませんでした。
必ず分かる、と思って、授業を組み立てたつもりです。
脳は「メモリーベイスドアーキテクチャ(記憶に基づいた思考機関)」ですから、相手の持っていない知識や論理の型を与えれば、必ず理解できるものだからです。
もちろん一人ひとりの理解度は異なるでしょうが、どの子もわかった、おもしろい、という気分になってもらえたんじゃないかって自負しています。
 
このことはぼくの普段の仕事、工事の監督員でも意識していることです。
分野の違う科学者、技術者とのコネクトを上手くスムーズにすることに心を配っています。
それは、それぞれが意思疎通をするために必要な知識、論理の型を定義する。
同じ定義に乗っかって議論する。
簡単に言えば、専門用語が通じるようにするわけです。
ローカルにしか通じない専門用語を、互いに理解し、使えるようにする。
そうすれば、議論は上手く咬み合うようになります。
話しが通じないと相手をバカだと思ったりする人がいますが、そういう人の方がバカ。
通じるように工夫しないからね。
 
さてさて、授業の腕はそれほど衰えてはいないとはいえ、たった2時間授業しただけでグッタリしました。
体力は確実に衰えていることが分かりました。。。

2008年11月16日日曜日

判断は0.2秒

こんにちは

季節の変わり目、ちょっと風邪気味です。
頭がボーッとして身体の節々が怠い。
もー、仕事なんてしてられないよーって気分。
なので、先週末のXFEL工程会議も早く終わらせて、早く帰宅したかったわけです。

そういうとき、ぼくは普段よりガンガンしゃべりまくります。
そこがぼくが「変人」なところです。
怠いとき普通の人ならダラダラするんですが、ぼくは全速力。
早く終わらせてゆっくりしたいからね。
人生、メリハリですから!

先週末の会議でも9割はぼくがしゃべってましたねー。
その結果、いつもより30分早く終わらせることができ、早めに帰ることができました。
じゃー、いつもそれやれよ、ってか?
あはははは。

最新の脳科学で、人間の脳の判断時間の測定がされています。
その時間は、たったの0.2秒。
人間は、0.2秒あれば判断できるものなんです。
だから、時間をかけたからっていい判断ができるわけじゃない。
判断は瞬時にできるように、脳はできているんです。

そのための前提はありますよ。
0.2秒で正しい判断をするためには、2つの前提条件が必要です。

1.必要十分な正しい知識や情報
2.論理的思考法

なかなか判断できない、決断できない場合、上の二つのどちらか、あるいは両方が不十分なんです。
不十分であれば、それを補えばいい。
1は、不勉強のためであれば、判断に必要な分野の基礎的な本を読み込んでみる、
情報が不足しているなら、インターネットで調べてみる、現場をよく観察してみるなどなど。

2の論理的思考法は、いわゆるロジカルシンキングです。
これはしっかりと訓練しなければ身に付きません。
以前書いたように、学生の頃ロクに数学を勉強しなかった人をぼくは信用しません。
それは、そういう人はロジカルシンキングができず、論理より感情を優先しがちだからです。
感情優先の人は始末におえません。そして必ず大失敗を起こすんです。

学生の頃数学を勉強しなかった場合でも、再訓練することは可能です。
ロジカルシンキングは、資格試験の勉強をすることによっても可能です。
それもちょっと上級資格ですね。
下級資格は暗記だけでも合格できます。
上級資格は、その分野のロジックが理解できないと合格できないように、ちゃんと問題が作られています。
下級資格者はルーチンワークをすることが主な仕事ですから、記憶したことをそのままやっていればよい、下手に考えるな、ということなんだと思います。
上級資格者には、ルーチンワーク以外の問題解決能力も求められます。
そのためには、暗記よりもロジックなんです。
ぼくが資格試験に挑戦し続けている一つの理由も、ロジカルシンキングの訓練のため。
部下や同僚にも資格試験を受けるよう勧めているのも、ロジカルシンキングができるようになってほしいからなんです。
 
もちろん、数学や資格試験の勉強だけじゃないですよ。
普段の仕事の中でも、どうしてこうやるのか、どうしてこういう判断になるのか、そのロジックを意識していると、ロジカルシンキングのいい訓練になりますね。
仕事の裏側にある「考え方」を意識することです。
上司の言うとおり、マニュアル通りに何も考えずにただただ単純労働だけしていたら、いつまでたっても判断力は身に付きません。
たとえ雑用、下働きのような仕事にもロジックはあって、そのロジックが分かると、合理的にテキパキとこなせるようになるし、仕事も楽しくなる。
 
要するに、しっかり勉強しておくことですね。
必要な知識を常にインプットし、考え方の訓練をしておく。
そうすれば0.2秒で判断ができるようになるんです。
なかなか決められないって人は、不勉強なだけなんですよ。
 
必要十分な正しい知識や情報と論理的思考法があれば、0.2秒で判断できるのは、脳の構造に合致しています。
人間の脳は「メモリーベイスドアーキテクチャ(記憶に基づいた思考機関)」だからです。
脳に蓄えられた知識から、問題解決に必要な記憶を読み込んで、パッとあてはめるわけです。
論理、ロジックだって「型」にすぎません。
この型をどれだけ持っているかで、判断の精度が決まるのです。
今考えている問題に最適な型をパッとあてはめているだけなんです。
 
吉越浩一郎『2分以内で仕事は決断しなさい』かんき出版\1400-にこうありました。

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フランスでは、バカロレアという大学入学のための資格試験があり、たとえば、

「対話は真理への道か?」
というような問題が出題されます。
まるで禅問答のような入試問題です。
はたして、この質問に正解はあるのでしょうか?
疑問に思って、フランスの大学を出た息子に尋ねると、あっさり「正解はあるよ」と言う。
私にはさっぱりわかりませんでしたが、哲学の理論を組み合わせてロジックを構成していけば、きちんと答えが出るんだそうです。(59p)
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これはおもしろい!
哲学の問題だって、知識とロジックで正解は得られるんですね。
 
でも考えてみれば、そりゃそーだ。
正解とは、誰もが納得できる答えです。
誰もがトレースできるということです。
そうじゃないと、学問として成り立ちません。
ただのおっさんの戯言で終わってしまう。
 
吉越さんは、経営者です。
判断を誤ると会社はつぶれます。
間違いは許されない立場です。
でも一つの案件は2分で処理できると言っています。
なぜなら、自分の中にロジックが既にあり、あとは必要な情報さえあれば、正しい判断ができるからなんです。
判断に必要な情報は何か分かっているから、何を調べればいいか部下に指示しておけばいい。
部下がその情報を報告する時間が2分間なんです。2分間で報告するようにさせるんですね。
それを聞けば、あとは0.2秒で、間違いのない決断できるってわけです。
 
ぼくもその境地に行きたくて、今日もコツコツと勉強を続けているのです。
そして実践の場(仕事の会議)で応用して、技として身に着くよう訓練しているのです。

2008年11月9日日曜日

ガソリンの適正価格

こんにちは
 
一時は1リットル200円にもなろうかと思っていたガソリンも、今日近所のガソリンスタンドで見たら1リットル130円になっていました。
原油価格も1年半前と同程度1バレル60ドル程度まで下がったようで、やっぱりバブルだったんでしょうね。
 
ところで、モノの値段はだいたい以下のようになっています。
 
 販売価格の
  1/3が原価
  1/3が直接経費
  1/3が間接経費と利益
 
たとえば300円の商品があったら、その材料原価は100円、その商品を製造する人の人件費などに100円、商品を流通させたり管理したり利益に100円かかるってわけです。
この原理はかなり普遍的なもので、ここから外れたモノはあまりありません。
 
この原理を使えば、原価から販売価格を逆算することもできます。
材料原価が100円だったら、販売価格は300円くらいになるはずなんです。
 
この原理を使って、ガソリンは実際いくらくらいが適性価なのか、ちょっと計算してみましょう。
原油の採掘コストは、1バレルあたり3ドル程度だそうです。
1バレルは約160リットル、1ドル100円とすれば、原油1リットルの原価は2円くらい。
これに産油国の直接経費、間接経費、利益が上乗せされると、原油1リットルの輸出価格は6円くらいと見積もられます。
これが消費国に輸入され、ガソリン製造メーカーで原油をガソリンに精製するための直接経費や間接経費、利益が上乗せされて、6円×3=18円になります。
そしてまたガソリン販売会社の直接経費、間接経費、利益が乗って、18円×3=54円となります。
そしてここにガソリン税が加算されます。
ガソリン税は1リットルあたり53.8円もします。
これを加えると、1リットル110円くらいが適性価格だと見積もれます。
今現在リッター130円ですから、もうちょっと値下がりしてもいいでしょうね。
 
それにしてもガソリン税って高いですねー。
ガソリン価格の半分近くが税金だったんですね。

子どもの脳を壊すな

こんにちは
 
最新の脳科学で子どもの脳についても研究が進んでいます。
人間の脳はメモリーベイスドアーキテクチャ(記憶を基にした構造)であることが分かってきました。
記憶したことを複数組み合わせたり、操作したりして思考している。
組み合わせたり操作したりする場所は、脳の前頭前野にあるワーキングメモリ。
ワーキングメモリに記憶したことを呼び出して、考えているんです。

ところがこのワーキングメモリはとても容量が少ない。
大人でも7つくらいしかないことが、研究の結果分かっています。
この7つのメモリを使い切ってしまうと、何も考えられなくなってしまうのです。

子どもの脳にも当然ながらワーキングメモリがありますが、その数は大人より少ないことが研究の結果分かりました。
幼児など、2つ、3つしかないのです。
ワーキングメモリの数が少ないから、子どもは複雑な思考ができないのです。

複雑な思考ができないだけではありません。
子どもの嘘はすぐばれますが、これもワーキングメモリが少ないためです。
嘘をメモリに常に保持していることができないのです。
常に保持させると、残りのメモリがなくなって何も考えられなくなってしまうからです。
だから、子どもは嘘をついてはいけないのです。
子どもに嘘をつかせるような状況を大人が作ると、子どもの思考は停止してしまうのです。
だから、子どもの嘘は脳へのダメージが大きいのです。

悩みも同じです。
子どもが悩むと、それがすぐワーキングメモリを満杯にしてしまいます。
メモリに空きがなければ考えることができません。
考えない、すなわち脳を使わなくなるので、脳の発達を阻害します。
脳は使わなければ萎縮してしまいます。
だから子どもの悩みは、回復不能なほど脳にダメージを与えてしまうのです。
子どもの頃の激しいいじめがよくないのは、このことでも分かります。

昔から、子どもは明るく正直に育てよ、と言われてきました。
これにはちゃんと意味があるんです。
明るく正直に育てば、脳はスクスクと発達するのです。
ワーキングメモリの空きが確保されれば、好奇心も発揮され、子どもらしい知性を磨くことができるのです。
子どもが明るく正直に育つよう、大人は環境を整えていかなくちゃいけないんです。

習い事やお稽古ごとをあれこれたくさんやらせるのも、子どもの脳の発達を阻害します。
同時期に多くのことをやらせることは、ワーキングメモリを使い切ってしまう恐れが大きいのです。
それも子どもが好きでもないことを、今日はピアノ、明日はスイミング、その次はくもん、なんてやらせると、すぐに脳のワーキングメモリは満杯になり、子どもの脳は破壊されてしまうのです。
こういう子どもは、暗い顔になり、嫌なことから逃れようと嘘をつくようにもなってしまいます。
親は子どもによかれと思ってあれこれやらせるのだとは思いますが、お金を使ってわざわざ子どもの脳をダメにしているなんて、損ですよね。
 
やらせるなら、子どもが本当に好きな一つのことだけにするべきです。
好きなこと、一つだけなら、ワーキングメモリに常駐しても害はありませんし、むしろ常駐させるべきでしょう。
好きなことをいつも考え続けるのは、幸せなことだからです。
 
もちろん子どもは何が本当に好きなのか自分では分からないこともあります。
お金を出したんだから指導は先生にお任せというのではなく、習っている時の子どもの様子を親も見て、子どもが喜んでいるのか、適性はありそうなのか見極める。
行けそうならそれに集中する。ダメそうならスッパリ止める。
 
そしてコレと決めたなら、容易にあきらめないことです。
この間ピアニストの中村紘子さんの講演を聴きましたが、幼少の頃から厳しい練習を積んできたそうです。
お母さんも紘子さんが嫌がったときでも、毎日一定時間ピアノの練習をさせた。
泣いても許してはくれなかった。
それが今の自分を作ってくれたんだ、とおっしゃっていました。
 
やるなら一つだけ。
コレが原則なんです。

偽プロをやっつけろ!

こんにちは

ぼくも技術者になってから、多くの「専門家」に会いました。
この世界も「偽プロ」がたくさん跋扈しているので驚くと共に、不安になりました。
こういう人に任せたら、ろくな研究棟は建たないぞって。

偽プロの人って、相手が誰であってもやたら専門用語を振り回しますよね。
特に頭に来ちゃうのが、素人の客相手に専門用語を連発するセールスエンジニア。
まるで客が素人であることにつけ込んで、煙に巻いているようにも思えちゃいます。
そういうヤツを見つけると、ぼくはわざと素人っぽい質問をしてみたりします。
その用語の定義を質問してみたり、例えばどういうことかの例示を求めてみます。
偽プロの人って中途半端な専門家だから、そういう根元的な質問に弱いんですよ。
つまり本質的に理解してないってことがばれる。
あー、いー気味だ!
うひひひひ。

それに偽プロの人って、素人に対して高圧的、威圧的なんですよね。
ここはどうなっているんでしょうか、と質問しても、専門家に任せておけ、専門家でもない奴がつべこべ言うな、といった雰囲気を醸し出して、自分の周りにバリアを張ってしまいます。
こういう人と一緒に仕事をしてみると、たいていはたいした技術力もないことが分かったりします。
つまり、専門性に凝り固まっている人は実はその専門性に自信がないのではないかと思うのです。
自信がないから逆に専門用語を振り回し、ことさらに自分は専門家であるがごとく振る舞い、自分の周りにバリアを張って閉じこもってしまうんでしょう。

ぼくはこういう偽プロが大嫌いなんです。
偽プロにだまされると散々な目に遭ってしまいます。
ペラペラと専門用語を並べ立て、分かったような口を効いているので、任せてしまうとたいてい失敗します。
そしてこういう偽プロに限って、失敗しても人のせいにしたりするんですよ。

だからといって偽プロを排除するのは難しい。
どういうわけかプロジェクトメンバーに入っていて、一緒にやらざるを得ない。
何とか偽プロにヘンテコなことはさせないようにしなくちゃならないんです。
けれども、偽プロとは言ってもある程度の専門性は持っているので、使い方さえ間違えなければ結構活躍してくれるものなんです。
つまり、偽プロの言いなりにならずに、こっちでコントロールできればいいのです。

ぼくは自他共に認める資格マニアです。
でも自分では自分の仕事に役立てることを主軸において、どんな資格を取るか戦略的に考えながらやっているつもり。
ぼくの主たる仕事は、新しい研究棟や実験施設の設計や施工を監督する仕事です。
だから資格そのものが役に立つわけではないのです。
でも間接的に大いに役立でていると思っています。

資格は偽プロを見抜き、偽プロに変なことをさせないための「葵の御紋」にもなるからです。
資格を持っているだけで、偽プロたちは一目置いてくれる場合が多いんです。
いい加減なことを言ってもダメだ、半端なことは通用しないんだと分かってくれるんですね。
資格にはこういう効用もあるんです。

放射線主任者1種に合格して次は何に挑戦しようかと考えていましたが、決まりました。
1級建築士にターゲットを絞りました。
1級建築士の人もピンキリであることをぼくは見てきました。
偽プロもいっぱいいる。構造偽装の姉歯設計士みたいなね。
これまでぼくも偽プロ1級建築士に嫌な目に遭わされたことも何度かあります。
勉強するに値する資格だと思います。
 
建築士試験は建築学科卒以外の人に対して敷居が高い。
学歴のないぼくはこれまで挑戦さえさせてもらえませんでした。
法律が変わって今年から建築設備士も受験できるようになったんです。
嬉しいことに、今ぼくが一緒に仕事をしている設備技術者の人に受験仲間が見つかりました。
勉強は孤独な作業ですから、仲間がいると張り合いが出て、合格までのモチベーションが維持しやすくなる。
さっそくテキストと過去問集を購入しました。
2年後には合格しようと決意しましたぞ!

2008年11月8日土曜日

命とは時間

こんにちは
 
今度SPring8の近所の小学校でやる出張授業の内容が決まってきました。
こんな授業にしようと思っています。
 
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「光が生まれるしくみ」

 

目的;実験やお話を通じて、光が発生するときには電子が関係していることを知り、光に興味を持つようになり、自分も理系の仕事がしたいと思ってくれると嬉しい。

 

準備;パソコン、プロジェクター、電源装置、

   理科室(暗くなる部屋)を希望

 

1時限目「光はどうして生まれるの?」

演示実験;シャープペンシルの芯やえんぴつに電気を流すとどうなるか

お話し;光はなぜ出るのか、Spring8から出る光、XFELから出る光

グループ実験;電子を触ってみよう・・・圧電素子による百人脅し

 

2時限目「きれいな光を見てみよう」

工作;回折格子フィルムを使った分光器を作ってみよう

お話し;研究者、技術者になろう

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ね、楽しそうでしょー。
今週のSPring8出張の時に、播磨研の広報担当の人たちと予備実験をしてきました。
実験を見て、広報の人たちも大人のくせに目がキラキラ。とても楽しそうでした。
よって、きっと小学生の生徒さんたちも喜んでくれる授業になることでしょう!

広報担当の女の子と雑談しているとき、こう言われました。
 
 「関口さんって毎朝ゴミメールを書いてるし、
  寺子屋もやっていて、資格試験の勉強もしている。
  その上出張授業のアイデアも抜群。
  いったいどういう時間の使い方をしているんですか」
 
すごいでしょー、エヘン!
 
まー、ぼくは出世をあきらめていますからねー。
仕事上の「つき合い」をまったくしません。
先月は所属部署の部長さんが交替しましたが、その歓送迎会でさえ出ない。
はっきり言って、自分勝手。
 
でもね、そうでもしないと自分の時間は生み出せませんよ。
人生、あれもこれもできません。時間は限られています。
何を捨てて、何を得るか。
その選択が人生そのものなんだと思うのです。

『致知』’08.12に、日野原重明/塩谷靖子「命ある限り歩み続ける」という対談が載っていました。
さすが人生100年の日野原先生の言うことには重みがあります。
日野原さんは子どもたちに講演するとき、命についてこう説明するんだそうです。

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それから僕が言うのは、
 
 「命はなぜ目に見えないか。
  それは命とは君たちが持っている時間だからなんだよ。
  死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまう。
  どうか一度しかない自分の時間、命をどのように使うか
  しっかり考えながら生きていってほしい。
  さらに言えば、その命を今度は自分以外の何かのために使うことを学んでほしい」
 
ということです。
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そう、命とは自分に与えられた「時間」なんですね。
自分で、自分の意志で、自由に使える時間がどれほどあるか。
それがあるほど、自分の命は輝くものなんです。
 
逆に言えば、自分の意志で自由に使える時間がない、少ないと言うことは、自分の命はないと言うことでもある。
人から命令されたり強制された時間は自分のものではなく、それでは命は輝くことはないのです。
 
だから、自分の意志で使える時間を意図的に確保する、増やしていくことは、よい人生を造っていくコツなんだと思います。
ぼくも日野原先生に少しでも近づけるように、明るく爽やかなワガママ男になっていきたいと思っています。

2008年11月4日火曜日

笑顔は実力の証

こんにちは

XFEL建設工事も終盤戦にかかってきました。
前半戦はどうしても建築工事、建物の躯体工事がメインになりますから、電気設備工事、機械設備工事は後半突貫工事みたいになってしまいます。
今回も残り4,5ヶ月で十数億円規模の電気、機械工事をこなさなくてはなりません。
かなりヘビーな状況なんです。

ところが、先週末の打ち合わせでも現場代理人のみなさんはニコニコしています。
打ち合わせ中にばか話して笑ったりしているんです。
って、ばか話しているのはぼくなんですが。。。
あはははは。

それはつまり、「余裕」がある。
なぜ余裕があるか。
検討すべきことは検討し終わり、決めるべきことは決め終わっているからです。

施工ができる状況になり次第、即工事に着手できる状態になっている。
待ちかまえているんですよ。
もう工事したくてしたくてたまらない、わくわく感がある。
そうなれば心に余裕が生まれ、笑顔にもなれます。

古川裕倫『バカ上司、その傾向と対策』集英社新書\680-にこう書いてありました。

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(上司が)暗いと部下の士気が下がります。
孫子の兵法に「善く戦うものは勢いにこれを求め、人に責めず」とあります。
戦上手な人は兵全体の勢いを最優先に考えるものであり、個々の兵士の能力や働きをいちいちあげつらったりしない、と言っているのですが、細かいことばかりに拘泥して思い悩むような暗い上司の下では、部下に元気(勢い)が出るわけがありません。
また、上司が暗いと部下は話しかけるのが億劫になります。
その結果、コミュニケーション不足に陥ります。(25p)
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人は、思い煩うことが多くなると、暗い顔になります。
悩みは脳のワーキングメモリを占拠してしまうからです。
笑えるのは、このワーキングメモリに空きがある証拠なんです。
空きがあるから、くだらないばか話も意識に乗せて笑える。
空きがないと、くだらないばか話が鬱陶しく思えてしまう。
余裕のなさです。

特にリーダーとなる人は余裕がないといけませんね。
余裕のなさは、部下にも伝わります。
ワーキングメモリが不足しているため、部下への指示命令もいいかげんになり、部下の仕事も雑になりがちです。
それが失敗を生み、ますます余裕がなくなり、笑うどころじゃなく、暗い顔になっていく。

そういうリーダーの言うことを部下が聞くわけがありません。
聞くと失敗しちゃうんですから。損しちゃいます。
そばに寄りつかなくなるのも当然です。
コミュニケーションどころではなくなってしまいます。

笑顔は余裕が生み出します。
余裕は実力が生み出すのです。
人は笑顔のあるところに集まってきます。
だってその方が楽しいし、得にもなるからね。
いつもへらへら笑っているはバカに見えるかもしれませんが、実は実力の証なんです!

2008年11月3日月曜日

ハッピーになる正しい道筋

こんにちは

久々に教え子から結婚式の招待状が来ました。
未だ売れ残りがいたのね、と思ったら男の子。
男の子と言ってもすでに33歳ですから、男盛りかな。
よかったよかった。
来月12/6、家族で北海道に行くことにしました。
楽しみ、楽しみ。

ぼくはある意味、教師としては「挫折」したんです。
挫折して教師を辞め、方向転換して技術者になった。
教師時代は嫌なことが多かったですよ。
教員という人たちはなぜにこんなに意地悪なんだろうと思い続けた数年間でした。
生まれて初めて「ぶっ殺してやりてえ」という思いをさせられた人もいましたよ。
怒り、憎みに満ちあふれた青春ですねー。
今思うとちょっと面白いけどね。
あはははは。

ところで最新の脳科学の研究で、人間の思考を司っている場所が特定されつつあります。
その場所は前頭前野にあるワーキングメモリ。
人間の脳は記憶を基礎として機能する計算機であることもわかってきました。
記憶したことをこのワーキングメモリに呼び出して、関連づけたり組み合わせたりしながら考えている。
ところがこのワーキングメモリの容量はとても限られていて、普通の大人で7つ程度しかない。
この少ないワーキングメモリをやりくりしながら、考えているんです。

人間が恨み辛み妬み怒りに囚われていると、それがワーキングメモリに常駐してしまいます。
常駐した分、ワーキングメモリの空きスペースが減り、まともな思考ができなくなります。
逆に言えば、まともな思考ができないがために、恨み辛み妬み怒りに囚われてしまうわけです。
怨み辛み妬み怒りに囚われ、それを自分に与えた人に復讐したい気持ちで頭はいっぱいになってしまう。
その他のことが考えられなくなるのです。
でも復讐の気持ちだけでいっぱいになってまともに思考できないわけですから、復讐を実行しようとしても上手く行くはずがないのです。
必ずや失敗する。
成功するとしても、自分自身も破滅するようなことしかできない。
なので、恨み辛み妬み怒りがあると、確実に脳にダメージを与えてしまい、不幸を呼び寄せます。

だから、ハッピーになるためには恨み辛み妬み怒りに囚われないように気をつけて、人生を造っていく必要があるのです。
要するに「脳出し」しちゃうんです。
恨み辛み妬み怒りがあっても、日記などに書き出したり、誰かに愚痴を聞いてもらったりして、いったん自分の脳から出してしまう。
そうすることによって脳のワーキングメモリの空きスペースを確保するんです。

誰が言ったか忘れましたが、「成功こそ最大の復讐である」のは、人生の法則だと思います。
恨み辛み妬み怒りを自分に与えた人より、自分が幸せになる。
それがいいんだとぼくも思うのです。
直接復讐することに努力するくらいなら、恨み辛み妬み怒りはいったん忘れて、自分がもっとハッピーになれることに努力を向ける。
そのほうが断然合理的だと思います。

ぼくは教師を辞めた後も、教え子に恥じない生き方をしていこうと思ってきました。
常に、おれは元気にやってるぜ、ハッピーだぜ、とメッセージを送り続けてきました。
そういうメッセージを送れるよう、努力を続けてきたと自負しています。
20年前ぼくに意地悪した人は今どうしているか分かりませんが、それが気にならない程度にはハッピーになれていると思います。
ま、ほぼ復讐成功!
あははははは。

2008年10月29日水曜日

大人も明るく正直に

こんにちは
 
昨日、この夏に受検した第1種放射線主任者国家試験の発表がありました。
見事合格!!やったー!!
官報に氏名まで記載されていました。
それほど価値のある資格だって事ですね。
何歳になっても合格は嬉しい。
努力が実るのは気分いいですよ。
 
自己採点ではギリギリの点数でした。
特に放射線物理学がボーダー。あと1問で合格か不合格か分かれるところ。
幸いなことに物理学の試験問題に1問不備があって、その問題は受験者全員を正解扱いにしてくれた。
そのおかげで合格ラインを乗り越えたって感じです。
運がいい!運も実力のうち!
 
昼休みに30分間、職場の友だちと勉強会を続けてきました。
一緒に勉強してくれた仲間に感謝です。
また職場の放射線主任者の仕事をしていて、RI協会の講師も務めている方から、アドバイスをもらったり、資料をもらったりもしました。
職場の放射線管理の仕事をしている方たちからも、おめでとうと言っていただきました。
感謝、感謝です。
 
これでぼくの実力も1段上がりましたかー。
ぼくの仕事でも放射線を取り扱う施設を造ることがあります。
その仕事にも役立てていけそうです。
この分野の専門家の人とも対等にハッタリかませるようになりたいですねー。
 
安保徹『疲れをためない生き方』幸福の科学出版¥1300-にこう書いてありました。
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子供にアレルギーが発生した場合の対処法は、2つあります。

1 まず、子供にかかる家庭のストレスを軽くしてあげてください。
2 次に、精神や体を鍛えたり、乾布摩擦をしたり、
  太陽の光を浴びたりするなどして、徐々に、子供の副交感神経が
  過剰優位になった体質を改めてあげることです。

こどものストレスを解消するには、親自身が仕事量を減らすか能力を上げて休息を取るなど、疲れをためないことも大切です。(65p)
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子どものストレス源の最たるものは、親の言動なんですよね。
親がイライラカリカリしていて余裕がなくなると、子どもに優しくできなくなります。
それが子どものストレスになり、アレルギーをより強くしたりするんですね。
だから親は常に余裕を持つようにしなくちゃいい子育てはできないんだと思います。
昨日のゴミメールで「子どもは明るく正直に」と書きました。
大人だって明るく正直に生きる方がいいです。
明るく正直に生きられれば、心と体に余裕が生まれ、子どもや家族、他の人たちに優しくなれます。
安保さんの言うように「能力を上げる」のも、そのための手段だと思います。
 
実力がないとやっぱり効率が悪いので、その分を時間でカバーするしかなくなります。
残業が多くなり、体は疲れていきます。
疲れれば心に余裕がなくなり、子どもにも優しく接することができなくなる。
それが子どものストレス源になってしまうのです。
 
実力がなく、時間にも追われるようになると、嘘やごまかしをする誘惑にもかられます。
嘘やごまかしをしてしまうと、それが脳のワーキングメモリを占拠するようにもなってしまいます。
まともに考えられなくなり、仕事はたまり、悩みは増え、安眠できなくなってしまいます。
それがまた子どもへと伝わるんです。
 
能力を上げ、仕事効率をよくし、成果も生み出しつつ早めに帰宅する。
家族との団らんも楽しめ、夜も心おきなくぐっすり眠る。
朝も目覚まし時計に強制的に起こされるのではなく、自然に目が覚める。
そして体調万全でまた出勤する。
そうありたいと思っています。
 
そのためにもっともっと実力を上げていかなくちゃって。
さて、次は何の勉強に挑戦しようかなー。

2008年10月28日火曜日

子どもは明るく正直に

こんにちは
 
昔、すぐごまかしたり嘘をついたりする部下がいました。
でもすぐばれる。
だって、嘘をついたことを忘れちゃってるんですから。
まるで子どもみたい。
その意味で、かわいげのある人でもありましたね。
 
その部下にぼくは「嘘は一つだけにしておきなさい」なんて言ったこともあります。
嘘もちゃんと覚えておかないと、ちょっとしたところでほころびが出ちゃいます。
一つくらいならちゃんと覚えておけるからね。
大人にもなれば「嘘も方便」ってこともありますけど。
 
最新の脳科学で、人間の脳はメモリーベイスドアーキテクチャ(記憶を基にした構造)であることが分かってきました。
記憶したことを複数組み合わせたり、操作したりして思考している。
組み合わせたり操作したりする場所は、脳の前頭前野にあるワーキングメモリ。
ワーキングメモリに記憶したことを呼び出して、考えているんです。
 
ところがこのワーキングメモリはとても容量が少ない。
大人でも7つくらいしかないことが、研究の結果分かっています。
この7つのメモリを使い切ってしまうと、何も考えられなくなってしまうのです。
ワーキングメモリに空きがあるほど、クリアな思考ができるのです。
 
で、嘘やごまかしをばれないようにするためには、常にそのことを意識しておかなくてはなりません。
常に意識に乗せておく場所が、このワーキングメモリなのです。
嘘やごまかしをすると、ワーキングメモリを消費してしまいます。
しかも最大7つまでしか記憶できない。
しかもしかも、ワーキングメモリが満杯になると、思考が停滞しますから、より嘘ごまかしはばれやすくなる。
なので、大人でも嘘はせいぜい一つまでというのが、理にかなっているわけなんです。
 
悩みや悲しみもこのワーキングメモリに常駐しがちです。
だから悩みが多いとまともに考えられなくなるのです。
悩みがたくさんあるときは、以前紹介したようにそれらを紙に書き出すなどして「脳出し」することによって、ワーキングメモリに空きをつくるといい。
一つずつでも悩みを解決していくことによって、脳はクリアになっていき、悩みから解放されるわけです。
 
さて、これも最新の脳科学で子どもの脳についても研究が進んでいます。
子どもの脳にも当然ながらワーキングメモリがありますが、その数は大人より少ないことが分かりました。
幼児など、2つ、3つしかないのです。
ワーキングメモリの数が少ないから、子どもは複雑な思考ができないのです。
 
複雑な思考ができないだけではありません。
子どもの嘘はすぐばれますが、これもワーキングメモリがすくないためです。
嘘をメモリに常に保持していることができないのです。
常に保持させると、残りのメモリがなくなって何も考えられなくなってしまうからです。
だから、子どもは嘘をついてはいけないのです。
子どもに嘘をつかせるような状況を大人が作ると、子どもの思考は停止してしまうのです。
だから、子どもの嘘は脳へのダメージが大きいのです。
 
悩みも同じです。
子どもが悩むと、それがすぐワーキングメモリを満杯にしてしまいます。
メモリに空きがなければ考えることができません。
考えない、すなわち脳を使わなくなるので、脳の発達を阻害します。
脳は使わなければ萎縮してしまいます。
だから子どもの悩みは、回復不能なほど脳にダメージを与えてしまうのです。
子どもの頃の激しいいじめがよくないのは、このことでも分かります。
 
昔から、子どもは明るく正直に育てよ、と言われてきました。
これにはちゃんと意味があるんです。
明るく正直に育てば、脳はスクスクと発達するのです。
子どもが明るく正直に育つよう、大人は環境を整えていかなくちゃいけないんですね。

2008年10月23日木曜日

やりたいことができる年齢

こんにちは
 
XFEL建屋建設工事もあと半年あまりで完成します。
若い代理人さんもプロとしての実力をつけてきて、段取りがよく、ヌケが少なくなってきました。
検討したり打ち合わせることもなくなり、あとは現場での取り合いの問題くらい。
工事費の精算もほぼ完了。
これからは工事現場をよく歩き回って、施工が確実になされているか確認するだけがぼくの仕事。
あーラクになったなー。
これもこれまでぼくがガミガミ言い続けてきた成果でしょうか。
なんちゃって。
 
スパコンの外観デザインも芸大の先生などにアドバイスをもらいながら、満足のいくものになってきました。
今週火曜日に文化担当理事へプレゼンしました。
理事にも誉められて、ホッとしました。
このデザインもそろそろきちんと決めないと、施工工程に追いつかなくなる時期でした。
多少まだ検討すべき宿題も理事から指示されましたが、大枠では了解をもらえたので、工程にも支障なく進めることができます。
あーラクになったなー。
これも設計者やスタッフの皆さんのおかげです。
よかったよかった。
 
こうしてぼくの「余裕」が増えました。
余裕があると安定運転ができます。
無理しないので、心も体も健康でいられる。
するといい仕事もできる。
好循環です。
そしてこの余裕を使って、新たな仕事にもチャレンジできます。
と思っていたら今週、他分所の課長さんからこんなメールが入りました。
 
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奥泉部長様

当研究所の特高受変電所の建設は、補正予算の成立待ちの
状態です。
和光の施設部と直接関わりを持って工事を行っていく必要は
なさそうですが、やはり当研究所の電気工事としては、大規模なもの
になりますので、関口さんの助言等は是非頂きたいという希望は
あります。
(関口さんは、播磨研などの特高受変電所の建設に携わって
こられたと聞いておりますので)
下記の「支援」とはそういうことですので、よろしくお願いいたします。

 > 当研究所も補正予算で、懸案の特高受変電所の建設が
 >スタートする予定です。こちらのご支援のほどもよろしくお願い
 >いたします。
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嬉しいですねー。
名指しでのご指名です。
がんばらなくちゃね。

山田咲道『バカ社長論』日経プレミア¥850-にこうありました。

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私のことを言えば、独立して10年以上経過しないと、責任のある大きな仕事は依頼されません。
実績や社会的ポジションなどがあって、はじめて大きな仕事を依頼されます。
50才から60才ぐらいにならないと、本当にやりたいこと(規模と夢の実現)はできないでしょう。
現在(若いうち)は、「やれること(目の前にある仕事)」と「やるべきこと(理念や体制づくり、社会貢献)」をきちんと行い、地盤固めをしていく時期だと考えています。(56p)
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ぼくも四捨五入で50歳という年齢になってしまいましたが、40代も後半になってから面白い仕事がガンガンやれるようになってきました。
もしかするとこれから50代になると、ますます大きな仕事ができるようになるのかもしれません。
ぼくがやりたいこと、主張することが通用するようにもなるのかも。
楽しみですねー。
大きな仕事がやってきたとき、それをドンと受け止められるように、先ずは今やっている目の前の仕事を一生懸命やり、自分の中の余裕率を大きくしていきたいと思っています。

2008年10月22日水曜日

子どもは偏食

こんにちは

我が子はっちゃんはとっても偏食。
野菜はもちろん、肉は食べないし、魚もダメ。
ご飯とウインナーと果物くらいしか食べないんです。
幼稚園の給食もご飯しか食べていないみたい。
ま、元気なんだからそれでもいいかって思っています。

友だちのお子さんが偏食で困っています。
いやなに、偏食自体に困っているわけじゃなくて、給食で食べられないものが出たとき、先生に食べるまで解放してもらえないので困っているのだそうです。
時には放課後まで残されることもあるとか。。。
確かに食わず嫌いということもあるでしょうが、嫌々食べて偏食って直るのでしょうか?
嫌々食べたら益々それが嫌いになるのが、ものの道理ってもんだと思います。

ちょっと免疫の話をします。
ぼくたち人間の体は免役によって病原菌やウイルスなどから守られています。
この免疫力はすべての動物にあるかというと、そうではありません。
魚(硬骨魚類)より高等に進化した動物にしか免疫力はないのです。
サメ(軟骨魚類)や軟体動物、昆虫などには免役はないのです。
なぜ魚以上に進化した動物には免疫力が備わったのでしょうか。

生物は魚に進化してから急速にその生活圏が広がり、またそれぞれの環境に適した形に進化していきました。
これを進化論では「適応放散」と言います。
適応放散するためには、いろいろなエサを食べる必要があります。
いろいろなものをたくさん食べてたくさん子孫を増やせるようになったから、適応放散ができるようになったのです。

魚以前の進化段階にいる生物は、非常に狭い範囲にしか住めず、いつもいつも同じエサを食べています。
たとえばナマコは浅い海の砂地にしか住んでおらず、一生砂に着いたバクテリアばかりを食べて生きています。

それに比べて魚はいろいろなの種類のエサを食べるように進化しました。
そのことによって、すぐ目の前にある食えそうな物はなんでも食べるようになった。
そこにあるエサを食べればいいので、どこにでも住むことができるようになりました。
ところが、何でも食べられると言うことにはリスクも伴います。
エサというのは基本的に他の生物です。
毒を持っているかもしれませんし、食べることを通じて寄生されてしまうかもしまいません。
そういったリスクに対抗するために、免疫も進化したのです。
どんなエサを食べても自分の栄養にできるように、免疫も進化してきたのです。

ところで赤ちゃんは母乳しか飲みません。
母乳ばかり飲んでいる赤ちゃんは、別に偏食でもないし、栄養不良になるわけでもありません。
母乳の代わりにミルクは飲めますが、母乳より吸収効率が悪いそうです。
母乳しか飲まない赤ちゃんは、究極の偏食ですね。

赤ちゃんが少し成長し、1歳を過ぎる頃から離乳食を食べはじめます。
大人は野菜もたくさん食べないと体の調子が悪くなります。
だからといって赤ちゃんにも野菜を食べさせようとしたりします。
すりつぶしたりして、スプーンで口の中につっこむ。
でもあまり早い時期に植物性のもの、たとえばほうれん草やニンジンを与えても、赤ちゃんの体の側に植物性のものを消化吸収できる準備ができていないのです。
たとえすりつぶしてあったものでも、下痢してしまってそのまま出てきてしまいます。
赤ちゃんの離乳食としては、あまり消化が必要ない炭水化物や動物性のものの方が適しているのです。

生物学者エルンストヘッケルは「個体発生は系統発生をくり返す」と言いました。
赤ちゃんが胎児から育ってくる時には進化の道筋をもう一度なぞってくる、という意味です。
確かに妊娠初期の赤ちゃんは、最初魚のようであり、動物のようになってだんだん人間らしくなってきます。
姿形と同様に、免疫など体のシステムも進化をなぞるように徐々に完成していきます。
だから赤ちゃんが食べられるものは、母乳->炭水化物や動物性の離乳食->植物性の離乳食というぐあいに、だんだんとバリエーションが広くなってきます。

そう考えると、子どもの偏食も理解できるのではないでしょうか。
子どもがあるものが食べられないのは、まだそのものを消化できるだけの準備が体に出来上がっていないから。
それを食べないと栄養不良になるというなら無理にでも食べさせる意義はあるでしょうが、そうではないなら別に食べなくても困ることはありません。
もしそれを食べないと栄養不良になってしまうとしたら、それは偏食の問題ではなく、医療の問題になると思います。
赤ちゃんに母乳ばっかり飲んでちゃダメ、とは言わないのと同じに、子どもの多少の偏食はもっと大らかに考えていいんじゃないでしょうか。

ぼく自身の経験でも、小学3年生くらいまではトマトとかキュウリとかは苦手でした。
給食で出ても絶対に残していました。
ところが4年生になる頃、急に食べられるようになったんです。
給食の他の食べ物を食べてもまだお腹が空いていた。
じゃあトマトも食べようかなと思って食べたら、美味かったんです。
あんなに嫌いだったのに美味いと感じるのはどうしてなのか不思議でした。
きっとそれは、ぼくの体がトマトやキュウリも十分消化できるだけ成長したからなんだと思います。

そんな経験をしていたので、ぼくが教員だった時には偏食の子に給食を無理強いはしませんでした。
まだ進化の途中なんだと思っていました。
そのうち食べるようになるだろう、と思っていました。
元気なら問題なし、なんです。

でもちょっとは食べてみて欲しいという気持ちもありました。
食わず嫌いならちょっと挑戦して欲しい。
なので、ほんのちょっと、小さじ1ハイくらいよそってあげました。
嫌いなものがたくさんあったら「うげ~」ですが、ちょびっとだったら一口食べてみようという気になるかもしれません。
ちょびっとでも食べられれば自信にもなります。
あんがい美味しいことが分かるかもしれません。
それに、たくさん残して残飯にするのも心理的負担になりますよね。
ちょびっと残すだけなら、罪悪感も少ない。
その子が食べない分は、もっと食べたい子が食べればいい。

というわけで、我が子はっちゃんも順調に元気にスクスク育っているので、偏食はあまり気にしていません。
食べられないおかずは「食べてみる?」と聞いてみることは必ずしますけどね。
でもたいてい「いらなーい」なんですけど。。。
 
免疫の進化については、谷口克『免疫、その驚異のメカニズム』ウエッジ選書\1200-にありました。

2008年10月21日火曜日

長男はひ弱?

こんにちは

ぼくは「長男(長子)」なのですが、いまひとつ丈夫ではありません。
ぼくが教員をやっていた頃の観察でも、長男、長子はひ弱な子が多かったように思います。
どうしてなんでしょうか。

生物というものは、ある面<物質の濃縮機関>です。
たとえば、ふぐの毒。
この毒はふぐ自身が作っているわけではなく、ふぐが食べ物にしているものの中にほんのわずかに含まれている物質(テトロドトキシン)を体内に貯めていくのです。
つまりそれは、ふぐがテトロドドキシンの濃縮を行っているということです。
植物は、空気中の二酸化炭素を光合成によって炭素だけ取り出して、糖分として蓄えます。
つまりそれは、植物は炭素の濃縮機関だということです。

いいことばかりではありません。
水俣病は、工場から排水されたメチル水銀が魚介類で濃縮され、それを食べた人間の神経を侵す病気です。
魚介類が海水に混ざり込んだメチル水銀を、毒性を示すまで濃縮したのです。

イルカは、お母さんイルカが最初に産む子どもはたいてい早く死んでしまうそうです。
それは、お母さんイルカが育ってきた期間に体内に蓄積された<毒>を、胎児を通じて排出するという意味もあるからだそうです。
そのため、最初に産まれたイルカの赤ちゃんはあまり丈夫ではなく、早死にしてしまう。
でも、毒の抜けたお母さんイルカはより健康になることができ、2番目からは丈夫な赤ちゃんを産むことができるというわけです。
イルカに限らず、自然界に住むほ乳類は、最初の赤ちゃんは流産、死産だったり、生まれてもすぐ死んでしまうことが多いそうです。

イルカの場合と同じようなメカニズムが、人間にも働いているのではないでしょうか。
たしかに、赤ちゃんを産んだお母さんはものすごく健康になるように思います。
その分、長男、長子はひ弱になってしまう、というわけです。

実は我が家も長男はっちゃんが生まれる前、流産しています。
結婚して長く子どもに恵まれなくてようやく授かった子だったので、流産したときは悲しかったです。
でも今考えると、ちゃんとその役割をしてくれたのかなーって思っています。
その後生まれた長男には、元気溌剌に育ってほしいと願って「溌貴」と名づけました。
おかげさまではっちゃんは元気元気に育っていますよ!


イルカの第1子が早く死んでしまうということは、いつ誰に聞いたか忘れちゃったのですが、渋谷電力館での科学ゼミナールで聞いた話です。

2008年10月20日月曜日

当たり前のことをバカにしないでちゃんとやる

こんにちは
 
今年も職場で開催された「電気取扱安全講習」の講師を務めさせてもらいました。
この講習は労働安全衛生法で定められた講習で、研究者自らが実験盤に電線を接続する場合など、安全確実に作業できるようにするためのもの。
労働災害の防止ですね。
 
毎年の講習でぼくが必ず話すことは、
 
 安全のABC理論
 
というものです。
ABCとは、
 
 A 当たり前のことを
 B バカにしないで
 C ちゃんとやる
 
ということです。
 
事故は、自己流、無手勝流から発生するものです。
こうした方が合理的、という自己流が事故を招きます。
人間というのは自分にうぬぼれていますから、決められた作業よりちょっといい考えを思いつくと、そっちをやってみたくなっちゃうんですよね。
決められた作業方法が面倒くさく、馬鹿馬鹿しいやり方に思えてしまう。
 
ところが、たいていの場合それが仇となって事故を生み出すのです。
決められた作業方法には、ちょっと不合理に思えても、そのやり方はこれまでの失敗、事故から得られた教訓が盛り込まれている。
急がば回れ、ではありませんが、その方が安全なんです。
ちょびっと作業方法を合理化して事故になるより、手間がかかっても安全に作業を進めた方が、長い目で見ると仕事は早く終わり、合理的なんです。
 
労働安全衛生法施行規則という法令には、こうした安全に関するマニュアルが詰まっています。
たとえば、脚立の天板には乗るな、なんてことまでこの法令には書いてあります。
脚立の一番上に乗ると確かに危険。
人間は仕事で必要なら、あるいは上司、先輩から命令されれば、危険な作業もしてしまうものなんです。
労働安全衛生法という法令は、労働者自らが危険作業をしないようにするためだけでなく、上司、先輩など使用者側が危険作業を労働者にさせないためのものでもあるのです。
それを防ぐ。
マニュアルを遵守すれば、まず事故は起きないのです。
 
電気取扱安全講習も、こうした安全のためのマニュアルを「知らせる」目的で行うものだと思っています。
マニュアルがあることを知っていれば、自己流、自己判断をしなくてすみます。
ある作業をするとき、何となく危ないなと思ったら、マニュアルを確認する。
そうしてもらえれば、確実に安全は担保されるんだと思うのです。
知らなきゃ、やっちゃいますからね。
 
ぼくのメインの仕事、工事監督にもマニュアルが存在します。
国土交通省でまとめた、「共通仕様書」や「施工監理指針」です。
分厚い本なので、全体を通読したことはありませんが、必要な都度その部分を読むようにしています。
たとえば、工場出荷前検査に立ち会うときは、出荷前にはどんな検査があるのか調べます。
これらの本にはちゃんとそれが書いてあるからです。
 
ぼくは意外とマニュアル主義者なんです。
マニュアルには過去の経験と知恵が詰まっています。
それは失敗の歴史です。
それを学んでおくことは、失敗を防ぎ、未来の確実性をより高めます。
あまりにマニュアルに拘泥するのもいけませんが、無視するのはもっとよくない。
無知と無視は紙一重で、不勉強による無知は無視と同じです。
マニュアルを知っていて、それを現実に合わせてアレンジできるのが、技術者の実力だと思うのです。

2008年10月15日水曜日

小役人攻略法

こんにちは

こんなタイトルで書くと、関口は役人をバカにしているのか、と思われるかもしれませんが違います。
ぼく自身、独立行政法人職員です。
独立行政法人とは、政府とは独立して行政を行う機関です。
行政とは、法律を執行すること。
法律を執行する担当者、イコール役人です。
ですから、ぼくも役人のひとり、ということになります。
だから、役人の気持ちも分かります。

スパコンの建設状況をホームページで知らせるため、ライブカメラを設置することになりました。
建設する建物の高さから考えて、20m以上のポールの上にカメラを乗せたい。
なるべくコストをかけないですむように、既製品の電柱を使うことにしました。

ところが、高さ14mを超えるコンクリート柱は建築基準法では「工作物」となってしまい、これを立てるためには一般の建物と同じく建築確認申請をし、許可をもらわないとなりません。
そんなことになったら、申請図を作成したり、構造計算をしたり、手続きをとったりして、いったいいつになったら柱を立てられるかわからなくなってしまいます。
こりゃ困った。

でも、既製品の電柱です。
既製品ですから、電柱として立てるには何ら問題のない製品です。
電線を支持する電柱は、建築基準法ではなく電気事業法に従って立てます。
もちろん今回の20m電柱も、電気事業法で定められた施工法で立てるわけですから、絶対に倒れる心配はない。
なので、この電柱は建築基準法のコンクリート柱ではなく、電気事業法の電柱だと認めてくれれば、建築確認申請は不要になります。

また、建築基準法にも緩和規定があります。
工事用の仮説物であれば、建築確認申請は不要という条文を見つけました。
なので、この電柱も工事用の仮説物だと認めてくれれば、建築確認なしに立てることができるわけです。

施工者さんに、万が一倒れても近隣住民や一般の通行人に被害は及ばない場所であることを示すために、どこに立てるのか配置図を作ってもらいました。
また、万が一でも倒れないことを示すために、電気事業法で定められた施工法も図面にしてもらいました。

ここまで予習をして、市役所建築安全課に相談に行きました。
安全課の技官の方に、なぜ20mもの電柱を立てたいのか、その目的を説明しました。
これをやる意義を伝えたんです。
その上で、図面を示し、電気事業法の電柱として、あるいは建築基準法の緩和規定として見なせるか、判断を仰ぎました。
その結果、電線が張っていないので電柱としては認められないが、工事用の仮説物としては認めていただくことができたんです。
やったー!

行政マンの役割は、法令を守ることです。
法令に違反することは絶対にできません。
でも、法令にも解釈や裁量の部分もあって、それは担当技官の判断に任されています。
行政との交渉は、この解釈や裁量を認めてもらうことなんです。
そのために、担当行政官がその解釈や裁量を認めやすい状況を作ることです。
 
どんな仕事でもそうですが、要は
 
 相手に安心してもらう
 
ことです。
行政官だってすべての法令に精通しているわけでもありません。
だから、こんな法令もありますよ、と知らせることも大切。
こんな事例もありますよと、前例も知らせることができれば、より万全ですね。
行政的な規制はすべて公共の安全のためにありますから、安全であることを示すことも大切です。
そうやって、行政官が安心して解釈や裁量を認められる状況を作るのが、行政との交渉を上手く進めるコツだとぼくは思っているわけです。

2008年10月14日火曜日

自分というリソースを活かせ!

こんにちは
 
ぼくの仕事は、大規模研究施設の建設の監督員です。
数億、数十億円の規模の建物を造っています。
値段は高いけど、大規模施設の監督員はある意味ラクチンなんです。
だって、値段の高い施設の施工は一流会社の一流社員がやってくれるんですから。
なので、あまり細々したことまでやらなくても、原則的なルール決めだけすれば、工事はきちんと進んでいきます。
 
大規模施設が完成した後、研究が始まるときに、小さな工事の必要が発生します。
研究者がここにコンセントが欲しい、とか、実験装置を置いたらここが暗くなっちゃったので照明を追加したい、とか。
そういう小工事も担当するんです。
小工事だから工事費も小額です。
 
ところが、こういう小工事の監督をするときにこそ、実力が露呈してしまうものなんです。
細々したところまできちんと指示してやる必要があるからです。
段取りをしっかりしてやらないと、いい工事をしてもらえないのです。
 
以下は数年前にぼくの部下に送ったメールです。
小工事を担当してもらったんですが、何度も何度も現場に足を運んだり、施工業者を呼びつけたりしていた。
それを注意したものです。
 
###
○○さん!
 
安い工事に何度も手間をとる意義がぼくには分かりません。
誰も彼も無責任だから、何度も業者さんを呼ぶことになってしまうのだと思います。
こういう仕事の仕方は止めてください。

施工に伴う発注者側の事務手間は、通常工事費の10%程度です。
本件で言えば、15万円の工事だとして、15000円。
○○さんの時給を2500円とすれば、6時間。
だから6時間程度で、施工前の現地調査、施工の立ち会い、完了の検査、支払い処理までやらなくちゃいけません。
 
同様に、施工者さんの事務手間も諸経費率が20%くらいなんですから、やっぱり10%くらいにしてあげないと、利益が出ません。
打ち合わせなどで経費をたくさん使ってしまうと、施工費の方で節約することになってしまいがちです。
それは悪い結果を導きます。
打ち合わせも必要なことですが、やりすぎるのはよくないことなんです。
いい仕事をしてもらうためには、きちんと利益の出るような段取りにしてやる必要があると思います。

つまり、発注者も施工者もその仕事に見合った労力(質と時間)でやらないと、ペイしないわけです。
安い簡単な仕事に長時間かけてしまうと、時間当たりの賃金は安くせざるを得ません。
その人は質の悪い人ということになってしまい、どんどん安くなってしまうわけです。
自分を安売りしないように。
もっとコスト意識を持っていただきたい。
たぶん「いい仕事をしたい」という意識が強くて、このような段取りになってしまうのかと思います。
いい仕事をしたいという気持ちは大切です。その点は、感謝します。
しかし、いい仕事をするために無限に時間とコストを使えるわけではありません。
コストパフォーマンスが最適になるように仕事をするのが「技術」なんだと思います。
###
 
仕事が増えたとき、慣れない仕事をするとき、たいていの人はそれを「時間」でカバーしようとします。残業してやっつける。
つまり手間暇時間をかけることによって、解決しようとするわけです。
確かにそういうことも必要です。
でも常に時間で解決しようとすると破綻します。
だって、人間が働ける時間は限られているからです。
集中して最適なパフォーマンスで仕事ができる時間は、せいぜい一日12時間くらいじゃないでしょうか。8時間労働の50%増しが限界です。
それ以上の時間は、効率よく働けず、健康にも悪い。
時間による解決法は、5割り増しくらいまでしか効果がないのです。
 
ではどうするか。
自分の「能力」を上げるのが一番いい。
限られた時間で、より多くの仕事をこなすためには、能力を上げるしかありません。
で、能力は限られた時間でこなすから上がるものなんです。
残業でやっつければいいや、と思っていると、能力は上がらないんです。
なるべく残業しないでやっつけるぞ、と思ってやると、能力は上がっていく。
結果として残業したとしても、頑張った分だけ能力は確実に上がる。
 
で、能力には限界がありません。
もちろん、一足飛びに能力は上がりませんが、時間のように5割り増しで限界になることはない。
10割り増し、20割り増しだって可能です。
特に若い人なら、意識して努力すればガンガン能力は上がっていきます(元々が能力低いからね^^;)。
残業代を稼ぐ、なんてちんけな考えで仕事をしていると、能力は上がっていきません。
 
そしてその差は40代ではっきりと顕れるものだと、ぼくは思っています。
40代にもなって、役職も着いているのに、残業が多く、つまり手間暇時間で仕事をしている人は、能力が低いまま歳だけとってしまった人だと言えます。

2008年10月13日月曜日

誰のためにそれをするのか

こんにちは

今年のノーベル賞は日本人が4人も受賞しました。
4人とも、対象となった研究は1970年代になされたもの。
ノーベル賞に値すると評価が固まるまで、30年くらいはかかるものなんですね。
それを考えると、ぼくが今やっている仕事の中からノーベル賞が生まれる可能性だってあるわけです。
30年後が楽しみですねー。

今のぼくのもくろみは、施設担当者として最大限研究に貢献し、論文の共著者にしてもらうこと。
その論文でノーベル賞をとったら、共著者としてスウェーデンでの授賞式に列席させてもらう。
いいでしょー!あはははは。
 
XFEL木村研究員が加速器学会で発表した論文が出来上がってきました。
ぼくも設備関連のところをちょこっと書きましたが、共著者にしてくれました。
しかも、ラストオーサー。
論文の最初に記載される著者は、ファーストオーサーと言って、その研究をメインに行った実働者。
最後に記載される著者は、ラストオーサーと言って、その研究を指導的立場で実行した人。
ぼくがラストオーサーにふさわしいとはまるで思いませんが、木村研究員に感謝です。

以前、戦略と戦術を区別する技術を書きました。
今やっている仕事が戦略なのか戦術なのか意識的に区別すると、いい仕事ができる。
その時のフォーマットは、

 ○○のために、△△する
 
です。
○○には戦略、つまり目的、目標となることが入ります。
このとき、○○に人や組織の名前を入れてみるのもいいです。
だって仕事の戦略、目的、目標は、究極的には誰か人のためにするものだからです。
 
○○に入る人や組織が、自分や自分に近い場合には、その仕事は間違っているか意義が低い可能性が高いと判断できます。
たとえば、自分のためにする仕事、自分の属する組織のためにする仕事です。
そういうときは、不正が入り込みやすい。
事故米転売なんて、自分や自分の会社のことしか考えなかったから起こった事件だと思います。
逆に○○に入る人や組織が、自分と離れれば離れるほど、その仕事は正しく意義あることだと言える。

『WEDGE』'08.7清水克衛「稼ぐのが勝ち組、そんなモノサシ壊してしまえ」にこうありました。

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人のためにおせっかいを焼いて、感謝して助け合ってきたのが日本人のアイデンティティーです。江戸時代は「稼ぎ3割、仕事7割」と言いました。
「稼ぎ」とは今のウチで言えば本を売ることで、「仕事」とは壊れた橋や埋まった溝を直したり、お年寄りの具合を見に行ったりと、誰かのために何かすることでした。
1日の7割は「仕事」をしていたんです。
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昔は自分の能力の7割は他人のため、公共のために使っていたんですね。
それを「仕事」と定義していた。
たしかに仕事は「仕える」「事」と書きます。
向かっているベクトルは、自分以外の人なんですね。
自分のためのものはそれとは別に「稼ぎ」として区別していたんです。
稼ぎは3割。
そのくらいの割合がベストな人間関係をを作っていけたんでしょうね。

ぼくは上のことをさらに、誰かのために一生懸命やっていると、そのうち3割くらいは自分に返ってくるものだ、とも解釈できるんじゃないかと思います。
自分の能力すべてを仕事に注ぎ込むと、その3割くらいが自分のところへ返ってきて、それが自分を生かしてくれる。
仕事とはそういうもんなんだと思うのです。
もし稼ぎばっかりに自分の能力を注いでしまうと、事故米転売会社のように生きながらえることができなくなってしまうのだと思います。
 
だから、時々自分のやっている仕事を「○○のために、△△する」というフォーマットにあてはめてみて、○○に何が入るのか確かめてみるといい。
○○に自分や、自分の所属する組織が入ってしまうようだったら、その仕事はもしかしたら間違っているのかもしれないと考える。
そうやって軌道修正できると、事故米転売みたいな変なことはしなくてすむようになる。

高橋鍵彌『12歳からの人づくり』致知出版\1300-にはこう書いてありました。

  自分で自分を不自由にすることが我欲なのです。(103p)
 
我欲、つまり自分や自分の組織ばかりしか考えないと、結局は自分で自分を不自由にし、不幸になってしまうものだと思います。
 
ぼくもノーベル賞授賞式列席は夢として、職場の日本の、いや世界の科学技術に貢献していきたいと思っています。
それがいつか自分に帰ってくる日が来ると信じています。

2008年10月11日土曜日

ついで主義のススメ

こんにちは

ぼくは飽きっぽい性格で、一つのことを連続して根を詰めるってことができません。
だから、二つか三つのことを平行してやったりします。
本も3冊くらいをいつも手元に置いて、ある本に飽きると別の本を読むって感じです。
資格試験などの勉強も、二つは平行してやっていて、片方に飽きるともう片方を勉強する。
こうすると飽きずに本を読み続けられたり、長時間勉強をすることができます。

飽きっぽい性格でも、他のことをついでにやったりすると、根気が続くようになります。

観光や出張でどこかに行くときも、ついでにあそこに行ってみよう、とか、ちょっと足を伸ばしてあの店で食べてこよう、とかしています。
ちょっと貧乏くさいやり方ですが、ついでに他のこともやることによって、旅行や出張も楽しさ倍増します。

竹村健一×和田秀樹『第二の人生を10倍充実させる習慣』PHP\1200-に、竹村さんの<ついで主義>について書かれていました。

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金持ちであっても貧乏人でも、有名人も無名の人も、1時間は60分だし一日が24時間であることに変わりはありません。けれども、使い方次第で2倍にも3倍にもなります。
たとえば三つのことを同時にやれば、それぞれについては3倍のスピードでこなしたのと同じです。
つまり時間が3倍になったのと同じです。
私はできるだけ「ついでに」やる、同時にいくつかのことをやることをいつも心がけてきました。
下っ端の駆け出しサラリーマンだったときも「ついでにやる」「できるだけ一緒にやる」を心がけました。
社会人として駆け出しの頃の私は、大阪の『英文毎日』編集部にいました。そこでこころがけていたことは、まず、出張はなるべく週末にかかるようにセットすることでした。
仕事で東京に行くときは、最も早く行ける東海道本線で行く。
当時は新幹線がなかったので、午前中からの予定なら夜行に乗りました。
けれども、帰りは日曜日とか土曜日が入るので北陸本線で帰ったり、その次の出張では中央本線に乗って帰る。
そうやって「ついでに見て歩く」ことで見聞を広めたのです。(竹村、23p)
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先日も、X線自由電子レーザー用の特別高圧変圧器を設置するため、工事計画書を近畿経済産業局へ提出に行きました。
経済産業局の場所を地図で調べたら、大阪城のすぐそば。
よし、ついでに大阪城を見てこよう、と思いました。
予定の時刻より1時間ほど早く着くように行って、ちょこっと大阪城公園を散策しました。
楽しいー。

個性を発揮する

こんにちは

出張中、こんなメールが舞い込みました。

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理化学研究所では、顕著な業績を挙げた職員や研究所のために献身的な業務を行った職員に対して、その功績を称えるために、理事長より感謝状の授与を行っております。
昨年末に感謝状授与候補者の推薦を募ったところ、貴殿の功績について推薦があり、理事長により感謝状授与の対象として決定されました。
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おやまあ、また表彰です。
ありがたいですねー。
表彰理由は、所内ホームページにある「理研の四季」欄に、ぼくが度々四季折々の写真を投稿していて、所員の方たちを楽しませているから、とのこと。
それが「本来の職務を超え自主的に研究所の環境改善、文化向上及び活性化に貢献した」と認められたんですね。

ぼくは仕事柄、理研のあちこちの事業所に行きます。
そこできれいな景色を発見すると写真にとって、それを所内ホームページに投稿します。
ぼくの写真の特徴は、やっぱり仕事柄、建物をメインに撮っているのです。
理研もこの10年あまりで拡大して、全国にキャンパスが広がりました。
新しく所員になった人は、他のキャンパスを見たことがないってことも増えました。
そういう人たちがぼくの写真を見て、他のキャンパスの様子を知ることができる。
それによって、理研に愛着が湧いたり、一体感を持つようになってくれるといいなと思っているのです。

それにしても、ぼくの写真を楽しんでくれ、推薦してくれた人がいるというのが嬉しいです。
糸川英夫『女性人生読本』角川文庫\260-から引用します。

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どういう場合に個性が発揮された、というのでしょう。
自分の好きな歌を歌い、自分の好きな服を着て、自分の好きなバッグを持つことでしょうか。
それもありましょう。
しかし、もっと大きな前提があるのではないでしょうか。
好きな歌を歌ったときに、聞いて共感してくれる人の存在、自分の好きな服を着たときに、その趣味の良さをたたえてくれる人の存在。
鍵はここにあると思います。
つまり、「個性の発揮」とは、それを認め、拍手をしてくれる存在があるか、ないか、によるのでしょう。
絶海の孤島にたった一人で住んでいる人に「個性」が存在するでしょうか。
「個性」がある、というのは、それとくらべるおおぜいの他人があって成り立つのでしょう。
そうすれば、その個性を認め、ほめ、たたえてくれる人の数が大きいほど、そういう人が多いほど、「個性が発揮」された、ということになるのでしょう。(79-80p)
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ぼくもここ数年、今の職場に勤めてから10年がすぎる頃から、いろんなプロジェクトに誘われたり、提案が認められたりするようになりました。
つまり、個性を発揮できるようになってきたと思っています。
それはぼくの仕事が多くの人に認めてもらえるようになってきたからなんですね。

個性とは自分だけでは存在しないものなんです。
それを認め、共感し、褒め称えてくれる人がいるから、発揮できる。
人に嫌がられる個性は個性じゃないんですね。
そこを間違えてはいけないと思います。

ぼくも今回感謝状をいただいたこと、推薦してくれた方がいたことに感謝し、そのご恩に報いて行かなくちゃと思いました。
多くの人に喜んでもらえる仕事をしていきたいと、背筋をピンと伸ばしました。

そしてますます個性的なぼくになれるように、楽しくがんばっていきたいです! 

ありがとうは二度言おう

こんにちは

若い技術者君たちを理研の一般公開日に案内した話をしました。
その後日、彼らと一緒の打ち合わせがあったとき、その技術者君のひとりがぼくのところへやって来て「先日はありがとうございました」って言ったんですね。
おー、こいつはなかなか人間ができておる、信頼するに足る人物じゃ、こいつとならいい仕事ができるぞ、と思いましたよ。
ぼくも休日返上で案内した甲斐がありました。

彼からは既に電子メールでもお礼が来ていたんです。
それに加えて、会ったときにもひと言お礼を言う。
ここがポイントですね。

電子メールには速報性があるから、すぐにお礼を伝えることができます。
でも所詮機械での伝達、ちょっと暖かみに欠けます。
それを補うために、次に会ったときにも礼を言う。
これが効果的なんですね。
ぼくも真似したいと思いました。

藤尾秀昭『小さな人生論2』致知出版\1000-に「不幸の三定義」というのが書いてありました。

 一、決して素直に「ありがとう」と言わない人
 一、「ありがとう」と言っても、恩返しをしない人
 一、「ありがとう」と唱えただけで恩返しはできたと思っている人

なるほどです。
不幸にならないためには、この逆を心がけていればいいってわけです。
ありがとうと言わないのは以ての外ですが、一度言ったらそれでOKだと思っちゃいけないんです。
だめ押しのようにもう一度言う。
そしてさらに行動でも示す、つまり一寸した心遣いをするのもハッピーへの道ですね。

オーケストラは工業製品

こんにちは

ピアノはクラッシック音楽に欠かせない楽器です。
この楽器、かなり昔から存在すると思っていたら、意外と新しい楽器なのです。

ピアノは、以前はピアノフォルテと呼ばれていましたが、小さい音(ピアノ)から大きい音(フォルテ)まで幅広く表現できるのが特徴です。
ピアノには、ピアノ線が張ってあります。
このピアノ線をハンマーで叩いて、ピアノは音を出します。
鍵盤を強く叩くと、とても大きな音がします。

大きな音を出すためには、ピアノ線をピンと強く張らなくてはなりません。
ピンと張る力のことを張力といいますが、ピアノ全体では20トンもの力で引っ張っているのです。
この大きな力を支えているのは、鉄でできたフレームです。
鉄製のがっしりとしたフレームが作れないと、ピアノは作れないのです。

そもそもピアノ線自体、鋼鉄製です。
いったん調律したら、そう簡単に音が狂っては困ります。
大きな張力にも耐えて、延びたり切れたりしてはいけません。

ピンと張ると、音は高くなってしまいますから、低い音を出すためには太いピアノ線を張る必要があります。
ピアノのふたを開けて低い音のピアノ線を見ると、一本のピアノ線の周りに太いピアノ線がぐるぐると密に巻き付けてあります。
こんな精密な加工もできないとなりません。

つまり、ピアノは「工業製品」なのです。
鉄工業が発展し、安定な鉄製品が製造できるようになったのは、産業革命以降です。
産業革命は西暦1800年頃に起こりました。
この頃になってようやく、安定した鋼鉄が製造できるようになったのです。
ピアノもこの頃できた楽器だったのです。
ですから、せいぜいまだ200年程度しか経っていない楽器なのです。

ではなぜピアノは大きな音を出す必要があったのでしょうか。

産業革命以前、音楽は貴族が室内楽として楽しむものでした。
少人数で聞くわけですから、それほど大きな音を出す必要がありません。
ピアノの原型となる楽器はチェンバロですが、弱い張力で張った弦を鳥の羽ではじくだけの楽器です。とても小さな音量しか出ませんが、室内楽なら十分でした。

産業革命によって、ブルジョア階級という市民が生み出されました。
ちょっとお金を持っていて、余暇も楽しめる人々ですね。
そういう人が音楽を楽しみたくなったわけです。
この頃初めて、貴族以外にも音楽を楽しみたいという需要が生まれたのです。

ブルジョアの人たちはちょっとお金を持っていても、貴族ほど豪勢なことはできません。
なので大きなホールに集まって、みんなで音楽を楽しむようになったわけです。
すると、室内楽程度の音量では小さすぎて聞こえません。
大きな音量を出す仕組みが必要になりました。

そこで発明されたのが「オーケストラ」。
バイオリン、チェロなどそれ自体で大きな音が出ない楽器は、演奏者数を増やすことによって大音量にしたんですね。
ピアノは鉄工業のおかげで、大きな音を出す楽器へと変身できたわけです。

オーケストラもずっと昔からあると思っていたら、これも産業革命以降に発明された200年程度しか経っていないものだったんです。
コンサートホールでオーケストラの音楽を聴くなんて、お金持ちの趣味みたいに思っていましたが、小金持ち程度の趣味だってことです。
その意味で、オーケストラも近代が生み出した工業製品のひとつと言ってもいいかもしれませんね。


ピアニストの中村紘子さんの講演会を聴いて、それをヒントに、ちょっと調べて書いてみました。

日本人の研究力はすごい!

こんにちは
 
今年のノーベル賞は日本人受賞者が4人も出ましたねー。
日本人の研究力が世界的に認められて嬉しいです。
これでまた日本の科学技術界も自信を持てましたね。
政府の科学技術予算、民間の研究開発費も増えるかもしれませんね。
またぼくの職場でも新たなプロジェクトが立ち上がるかも。
ぼくは今取り組んでいるスパコンとXFELプロジェクトが大成功したら、理研を辞めて教育業界に戻るつもりですが、面白い仕事があったら辞められなくなっちゃいますよー。
あはははは。
 
『たのしい理科授業』'03.9に書いた原稿をお読み下さい。
ノーベル賞が増えることをちゃんと予想してますよー。
なんちゃって!

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ノーベル賞・日本人受賞者はもっと増える!

昨年のノーベル賞は、小柴先生の物理学賞、田中先生の化学賞のダブル受賞で、日本は沸き立ちました。
特に化学賞は3年連続の受賞で、日本の研究レベルの高さを世界に知らしめました。

日本の研究環境は、既に世界のトップレベルとなっています。
平成14年版『科学技術白書』から数字を拾ってみましょう。

はじめに研究者数をアメリカ、EUと比べてみましょう。
科学者全体の数ではアメリカが111.4万人、EUが93.2万人、日本が72.8万人ですが、人口1万人あたりで比べるとアメリカ41.6人、EU24.7人、日本57.2人となっています。
人口あたりの研究者数では、日本は世界一となっているのです。

次に研究費を見てみましょう。
アメリカ28.6兆円、EU20.6兆円、日本16.3兆円となっています。
これを研究者数で割ると、研究者ひとりあたりの研究費では、ほぼ互角です。

それでは研究成果である特許数はどうでしょうか。
出願数では、アメリカ221万件、EU203万件、日本79万件ですが、特許として認められた登録数は、アメリカ19万件、EU23万件、日本21万件とこれも互角です。
特許数は応用研究の充実度を示しています。
 
では、基礎研究の分野ではどうでしょうか。
マスコミなどでも、日本は基礎研究が弱い、外国から基礎研究を輸入して応用することだけが上手い、などと言われています。
これは事実なのでしょうか。

実は、基礎中の基礎である理論科学の分野でもトップを走っているのです。
これは、日本のコンピューター環境の充実が大きく効いています。
近年の理論研究においては、コンピューターによるシミュレーションや数値計算は欠かせません。

日本の大型コンピューターは世界最高水準の性能を持っています。
これが日本の大学、研究所のそれぞれに配備され、研究者の共同利用が可能になっています。
基礎研究を学ぶ大学院生でさえも、かなり自由に使えるようになっています。

アメリカにも大型コンピューターはたくさんありますが、軍事、産業目的の使用が優先され、基礎科学の研究者はあまり自由に使えないのです。
その上、アメリカはコンピューターに関して大変厳しい貿易障壁を設けているため、日本製の安くて性能の良いコンピューターを輸入することができないのです。

だから、アメリカに留学している日本の研究者は、インターネットで日本のコンピューターにつないで計算をしていたりするのです。
アメリカの研究者も、日本のコンピューターを使いたいがために日本人研究者との共同研究をもちかけてきたりもしているそうです。
おかげで、素粒子論や宇宙物理学のような基礎科学の分野でも日本はトップを走っているのです。

それではなぜ今まで、日本人研究者のノーベル賞受賞は少なかったのでしょうか。
ひとつにはノーベル賞の受賞対象分野が限られているということがあります。
日本人研究者は、工学分野、農学分野を専攻する研究者が多いのですが、ノーベル賞に工学賞、農学賞はありません。

もうひとつは、ノーベル賞は基本的に個人の業績に対して贈られる賞であるということ。
ところが日本人の研究は、グループで行われる場合が非常に多いのです。
日本の伝統的な研究スタイルと言っていいかもしれません。
強いリーダーシップを取れる教授の元に優秀な若手研究者が集まり、切磋琢磨をしながら協同で研究を進めていく。
まさに、小柴先生のグループの研究スタイルです。
日本の集団による研究スタイルと、個人に与えられるものというノーベル賞のコンセプトが、今まではあまりなじまなかったのです。

しかし、ノーベル賞の選考基準も個人の業績に限らないようになってきました。
それが小柴先生の受賞につながったのでしょう。
今後、日本人受賞者は絶対増えます!
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2008年10月9日木曜日

理想を掲げよ

こんにちは
 
ぼくは出勤するとまず、手帳を確認して、今日やらねばならない仕事、やりたい仕事を反故紙の裏に書いてリストアップします。
そしてそれらをがむしゃらにやっつけていく。
やっつけるごとに、×をつけていくんです。
 
だいたい一日8~10項目くらいリストアップしますが、たいていの場合その6割から8割しか終わりません。
優先順位、重要度の高い仕事から片付けていくので、それでも問題はないわけです。
6割から8割しか終わらなかったからといって、計画性がないなーとか、悲観したりはしない。
おー今日も60点、合格だ!と思って、気分よく退勤します。
 
予定していたこと全部ができちゃうっていうことは、実は自分に甘いんじゃないかって思うんです。
100点とる人は、確実に100点取れるだけの課題しか自分に与えていない。
それじゃあ自分を伸ばすことができません。
自分に負荷をかけるためにちょっときつめの課題を自らに課す。
そうするからがんばるし、伸びることができるって思うのです。

藤巻幸夫『自分ブランドで勝負しろ!』インデックスコミュニケーションズ¥1300-にこう書いてありました。

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私は、やりたいことを10個ドカンと打ち上げて、3つは達成するも、あとの7つは成しえないようなスタイルでいいと思っている。
もちろん、そんなスタイルでは、「大きなことを言っておいて、結局できたのはこれだけじゃないか」と周りからの失笑を買うこともあるだろう。
だがそれが何だというのだ?
きっちりと結果を残せなくたって、別にどうってことないじゃないか。
自分の中にやりたいことが常にあふれていたら、それだけで一生涯楽しくないだろうか?(229p)
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まったく同感です。
ぼくは「理想主義は怠惰の隠れ蓑」だと思っていますから、完璧にやろうとはちーっとも思っていません。
やりたいことを山盛りにして、ガシガシとそれを片付けていく方を選びます。
そしてギリギリ合格点までもっていく。
その方が気持ちいい。
つまり、理想は大きく掲げるようにしているんです。
理想を高く持ち、少しでもそこに近づこうとする。
 
100点とるような人は、理想が低すぎるんです。
理想主義者は理想通りにできないと、それを失敗と捉えてしまいます。
その結果、理想を達成できないならそれをやる必要はない、ということにしてしまう。
「それは理想とほど遠いよ」なんて言うだけで、自らは何もしない。
理想主義者はこうして現状に甘んじてしまうのです。
 
ぼくは自分のことを「実務者」であると規定しています。
実務者とは、一歩でも二歩でも前に進む人のことです。
完璧にはできなくても、たとえ1%でも10%でも理想に向かって近づこうとする人です。
少しでもいいから現実を変えていく人のことです。
そのために「行動」し「努力」する人のことです。
そして、理想を決して手放すことがない人のことです。
そうすれば、自分の中にやりたいことがなくならない。
やりたいことが自分の中に常にある人生の方が楽しいと思っているのです。