2008年9月29日月曜日

湯たんぽのススメ

こんにちは
 
ぼくの持病はアトピーです。
子どもの頃は、肘や膝の裏が痒くてかき傷が耐えませんでした。
大人になっても全身的に乾燥肌で、いつもかゆい。
 
ぼくは赤ら顔をしていますが、これはアトピーのせいで、決して酔っぱらっているわけではありません。
まー確かにいつも上機嫌で酔っぱらっているみたいですけどねー。
渥美清さんが言っていたそうですが「人生、ほろ酔い加減がちょうどいい」ので、ほろ酔いくらいの上機嫌でいるわけです。
 
アトピー体質は遺伝するというので、我が子が生まれるときはアトピーにしないためにどうしたらいいか、一所懸命に勉強しました。
そのおかげで、西原克成さん、安保徹さん、石原結實さんなどの本に出会い、書かれていることを実践してきました。
そのおかげで今は、鼻呼吸と食生活の改善でだいぶん良くなりました。
もちろん我が子たちも、若干乾燥肌気味ですがアトピーにはなっていません。
ありがたいことです。
 
だいぶん良くなったとはいえ、今でもちょっと疲れたり風邪を引いたりすると、顔が真っ赤になったりします。
熱く火照ってしまうんですよ。
こういうとき、以前はアイスノンで冷やしていました。
でも冷やしているときは気持ちいいんですが、冷やすのをやめると元通り。
なかなか直りませんでした。
 
西原さん、安保さん、石原さんの本を読むと、炎症は悪いものではなく、体を治すために血液がその部分に集まってきているため、と書いてありました。
だから冷やすと返って体の治す働きを弱めてしまう。
逆に温めてやる方が、治す働きを強めるんです。
それを知ってから、火照ったときは温めるようにしました。
これは非情によいです。
気持ちいいし、治りも早くなります。
 
石原結實『「体を温める」と病気は必ず治る』三笠書房1300-にこうありました。

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赤ちゃんは体温が高いので肌も体も柔らかいが、年をとってくると肌はガサガサと硬くなるし、立ち振る舞いもぎこちなく、体全体が硬くなってくる。
これは体温が下がってくるからである。
皮膚や筋肉や骨が硬いのに、内臓だけが柔らかいということはあり得ず、動作が硬くなってくると内臓もだんだん硬くなり、動脈硬化、心筋梗塞・脳梗塞(私が医学生だった時代のテキストには、梗塞ではなく、硬塞と書いてあった)など、硬い病気が増えてくるのである。
ガンも例外ではない。
ガンは漢字で「癌」と書くが、嵒=岩という意味で、癌は「硬い病気」であることを表している。確かに乳ガン、皮膚ガンをはじめ、外からでも触診できるリンパ節のガンなどは、石のように硬い。
ということは、ガンもある面、「冷え」を原因とする病気ということができる。(19-20p)
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ナルホドです。
冷える->硬くなる->機能不全、病気、なんですね。
炎症を起こしたり、火照ったりするのは、その部分を温めようとして血流が集まってくる。
そういう自然治癒力の一種だったんです。

ぼくも顔が火照ったときは温めるようにしました。
最初はお湯を絞ったタオルを使っていましたが、すぐに冷えてしまうのと、お湯が肌のセラミドを溶かしてしまって、肌荒れも起こす。
湯たんぽを使おうとしても、顔は鼻などデコボコが多く温めにくい。
いいものはないかと思っていたら、安保さんの本にこういうものが紹介されていました。
http://swh-d.shop-pro.jp/?mode=cate&cbid=218459&csid=0
 
さっそく購入。
ウェットスーツの素材でできているので、顔のデコボコにfitします。
また、素材の厚さが適切なので、表面温度が45℃くらいになってすこぶる適温。
その温度も1時間くらい長持ちします。
 
これを使うと、顔の火照りだけじゃなく、鼻づまりも改善しました。
ぼくはアレルギー性鼻炎で、鼻づまりもしやすいのです。
鼻づまりも、鼻水が詰まっているのではなく、微粘膜が炎症して膨張しているのが原因。
だから温めるといいんです。
 
顔用湯たんぽですが、普通の湯たんぽとしても使えそうです。
お腹の上に乗せても気持ちいい。
足が冷たいときも、足の形にfitして温めやすい。
これから寒い季節に向かって、活躍してもらいましょう!

2008年9月28日日曜日

嫌な仕事、誰がやる?

こんにちは

時々、やったことのない仕事をやらなくちゃならないことがありますよね。
どの部署もやったことがない、だけど誰かがやらなくちゃならない仕事。
そういうとき、誰がやるかどうやって決めればいいでしょうか。

誰がやるべきか明確じゃない仕事は、誰もがやりたくない。
特にやったことがない仕事はリスクが大きいから、やりたくないのも当然です。
なので、うちの仕事じゃない、と押しつけ合ったりしてね。
こういうとき、声の大きい人がいる部署が勝ったりします。
気の小さい人がフロントにいる部署が押しつけられる。
怒鳴りつけた方が勝ち、言い負かされた方が負け。
でもそれが合理的な判断だとは思えません。
誰がやるべきか、どうやって判断すればいいのでしょうか。

ぼくは先ず、組織規定を見直してみます。
たいていの会社には、部署ごとの仕事の割り振りが明文化されているはずです。
ルーチンの仕事ばかりしている限り、そんな規定を読む必要はありません。
でも、めったにない仕事の場合、規定を見直してみると役に立ちます。
意外や意外、ちゃんと書かれていたりします。
初めての仕事だと思っていたら、過去にも同様な仕事があったってことです。
ここしばらくなかったので、忘れられていただけだったりして。
はっきり書いていなくても、規定を読み直してみるとヒントが得られたりするんです。

それでも明確にならない場合、どうするか。
その仕事と同様な仕事が再びやって来た場合、経験が生きるためにはどの部署がやっておく方がいいか、で判断するといいです。
今問題となっている仕事に関わる部署と、将来同様な仕事が発生した場合それに関わる部署を想定し、どちらにも含まれるであろう部署。
同様な仕事を何度もする可能性があるなら、今その部署でやっておいた方が経験が蓄積しますから、後々楽になります。

それでも誰がやるべきかわからない場合、どうすればいいでしょうか。
そういう時は、「じゃあ、ぼくがやってみましょうか」と言うようにしています。
それで、こっちじゃない、あっちだとか、不毛な押し付け合い会議を終えることができます。
何よりぼくの中に、誰もやったことのない初めての仕事をやる、という経験が蓄積されます。
おまけに、その他のつまらないルーチンワークを免除してもらえる可能性も高まる。
一石二鳥ですねー。

林望『新個人主義のすすめ』集英社新書\700-から引用します。

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なにがなんでも、俺は自分の興味あることしかやらない、そういうのは単なる偏狭というものなので、個人主義、言い換えると非人情というのとは違います。
もっと大きな目標というものを、いつも見ていることがなくてはなりません。
遠くに目標となる高峰を仰ぎ見ながら、そこへ登るには、この坂道も上がらなくちゃいけないんだな、とそう思えば、イヤな仕事でもやるべきことは沢山あります。
高い峰に登るには、どうしても険しい道を通らなくては行かれません。
安易な道のみを歩こうと思ったら、せいぜいそこらの小山にしか登れない。
それが人生の実相なのです。
それどころか、チャンスというのは、たいていイヤな仕事という顔をしてやってくるものなのです。(113p)
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いやな仕事ほど、チャンスなのかもしれませんね!

脳から出せ!

こんにちは

以前ぼくと一緒に仕事をしたヤツが、仕事を抱えすぎて「沈没」しているとのこと。
彼にもゴミメールを送っているので、ここでエールを送りたいと思います。

確かに処理しきれない仕事を溜め込んでしまうと、どこから手を付けていいのか分からなくなって、パニック状態になってしまいますよね。
ぼくだって時々そうなることもあります。
でも「やり方」があるんです。
いっぺんに全部をこなさなくちゃいけないと思うから、頭の中がパンクするんです。

パニック状態になっていても、頭の働きが完全に機能不全になっているわけではありません。
頭が再び働き出すように持っていく「技術」があるんです。
以下はTBSラジオサイエンスサイトーク(http://www.tbs.co.jp/radio/xitalk/)で、お天気キャスター倉嶋厚さんに聴いたお話です。

***
倉嶋さんは子どもの頃(戦時中)、非常に気の弱い子どもだったそうです。
ある時、倉嶋さんのお父さんは倉嶋少年にこう言ったんだそうです。

  おまえは何を悩んでいるんだい。話をしてごらん。

倉嶋少年は<来週の学校の軍事教練が嫌><卒業して兵隊になるのは嫌>などたくさんの悩みを話し、お父さんはそれを紙に書き留めていった。

  じゃあ、この悩みを時間順に縦に並べ替えてごらん。
   縦に並べれば、今悩まなくちゃいけないことはたった一つになる。
    それを順番に、ひとつずつやっていけばいいんだよ。
***

たくさんの問題を抱えてパニックになったときは、問題となっていることをすべて紙に書き出してみるといいんです。
それをぼくは「脳出し」と呼んでいます。
 
人間の脳は同時に7つ程度のことしか処理できないことが、最近の脳科学で明らかにされています。
脳の前頭前野という場所にはワーキングメモリという場所があり、ここで諸問題を意識に乗せ、考えている。
ところがワーキングメモリのスペースはとても狭く、人によって多少の違いはありますが、せいぜい7つのことしか意識に乗せられない。
7つのスペースがあるからといって、そこに全部メモリしてしまうと、それらを操作して考えることができなくなってしまうのです。
ワーキングメモリのスペースをすべて使い切ってしまうから、パニックに陥ってしまうのです。
同時に頭に入れることは、せいぜい三つまでにしておくのです。
そうすると4つは空きメモリができ、考えることができるようになるのです。
考えるためには空きメモリが必要なんです。
考えるとは、知識と知識を関連づけたり比較したり操作することなんです。
有効に操作するためには、空きメモリがたくさんある方がクリアな思考ができるのです。

だからワーキングスペースに空きスペースを作ることが大事です。
具体的には、倉嶋さんのお話にあるとおり、やらねばならない仕事をすべて紙に書き出してみる。
これが「脳出し」。
脳に充満している問題をすべてを紙の上に出してしまう。
そうすることによって、脳の空き容量を増やすんです。

たくさんある仕事をとりあえず外に出し、その中のたった一つに集中する。
すると意外なほど早く片付きます。
脳に空きメモリができて、クリアに考えられるようになっているからです。
一つ解決したら、次のたった一つに集中する。
これを繰り返せば、すべての仕事をかなり早く片付けることができるんです。
紙に書き出した上から順に片付けていってもいい。
重要度の高いものからやっつけられれば、とても気分が晴れ晴れとします。
でも重要問題に着手するには、気力も必要です。
パニックに陥っているときは、気力も不足していることでしょう。
そういうときは簡単なものから手を付けるのもいい。
たくさんの案件の中には、簡単に片付くものもたくさんあるはずです。
簡単な案件を一気に片付けて、件数を減らすだけでかなりの心の余裕が生まれます。
すると難問にも取り組むだけの気力も湧いてくるんです。

ぜひ彼にも実行してもらって、再び浮上してきてもらいたいと思っています。
って、このメール読んでるかな?

2008年9月27日土曜日

笑いの効用

こんにちは

我が家の躾の大方針は、

 いつも笑顔でいられる人間になる

ってことです。
ぼくも妻も率先して笑っています。

笑うためには心に余裕がないといけません。
心に余裕を生むためには努力も欠かせません。
積極的に笑いを作り出していくことが大切だと思います。

精神的にも肉体的にも経済的にも健康、健全じゃないと笑顔は生まれないと思っています。
逆に、常に笑顔を心がけていれば、精神的にも肉体的にも経済的にも健康、健全になっていくんだと思います。

100年以上前に福沢諭吉先生もこう言っています。

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顔色や容貌を、いきいきと明るく見せることは、人間としての基本的なモラルである。
なぜなら人の顔色は、家の門口のようなものだからである。
広く人と交際して、自由につき合うには、門をひらき入口を清潔にし、客が入りやすくすることが大事である。
ところが、本心は人と交際を深めたいのに、顔色に意を用いず、ことさら渋い顔つきを示すのは、入り口にガイコツをぶら下げ、門前に棺桶を置いているようなものである。
これではだれが近づくか。(檜谷昭彦訳『学問のすすめ』三笠書房\1300-、204p)
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進化論の研究によると、笑いの起源は原始的なサルにおける「有害な物を吐き出す口の動き」にあるらしいことが分かっています(志水彰他『人はなぜ笑うのか』ブルーバックス\820-)。
知能の発達したサルはそれを逆手にとって、そういう口の動きをすることによって有害な物を吐き出したことにするようになったんじゃないでしょうか。
つまり、笑うことによって災いを体内から吐き出す。
笑いにはそういう意味と効果もありそうです。

 人生でもっとも無駄な日は、
  一度も笑わなかった日だ(シャムフォール)

人生山あり谷あり、晴れたり曇ったりです。
多少の嫌なことや大変なことはあるのが当然だし、嫌なこと大変なことを克服するから人格も磨かれ、楽しい人生になっていくのだと思います。
特に何か新しいことをやろうとすれば、最初は必ず周りからの妨害、軋轢があるものです。
そこで小さく縮こまって何もしなくなってしまったら、顔も頭も硬直してしまい、笑いのない乏しい表情のまま人生を終えることになってしまいます。

困難なことがあっても笑顔でいれば、多くの人が集まってきて協力もしてくれることでしょう。
我が子たちには、困難も笑顔で乗り越えられるような、そんな人に育っていってほしいと願っています。
ぼく自身も、いつも笑顔でいられるよう努力していきたいと思っています。

新幹線の架線はジグザグ

こんにちは

わが長男はっちゃん3歳は、電車マニアです。
パソコン操作にも習熟してきたので、YouTubeで好きな電車の画像を次々と検索しては見ています。
前はしょっちゅう「あれ見たい」「これ見せて」とリクエストされ、クリックしてやらなくちゃならなかったけど、今は楽。
はっちゃん一人で見続けています。
おかげでぼくは寝っ転がって本を読むことができます。
次男とっちゃんがじゃれついてきますけどね、たまに絵本を読んであげれば読書を継続することができます。

ふと気づくと、素敵なメロティーが。
はっちゃんがYouTubeで「電車」で検索しているうちに行き当たった、あるアーティストのプロモーションビデオでした。
寝っ転がって読んでいた本を投げ捨てて、パソコンのところへ行き、聞き入ってしまいました。
オレ好みのいい曲!
そのアーティストとは空気公団、曲名は「夕暮れ電車に飛び乗れ」。
はっちゃんに一時パソコンを貸してもらって、アマゾンでCDを注文しちゃいました。

子どもがいると、思わぬ情報が飛び込んできます。
それも楽しいことですねー。

はっちゃんが電車マニアなため、電車に関する本もよく買うようになりました。
子ども向けの本はほぼ買い尽くしてしまったので、徐々にレベルアップしています。
さすがにはっちゃんはまだ自力で読むことはできませんが、ぼくが楽しく読んでいます。
ぼくは技術者なので、特に新幹線に使われている技術には興味津々です。

先日読んだ本に、新幹線の架線はジグザグに張られている、と書いてありました。
なぜか。

架線とは、線路の上に延々と張られている電気を電車に供給するための電線です。
電車は電気を架線からパンタグラフを通して得ています。
パンタグラフは電車の屋根に着いているひし形やZガタのものですね。

新幹線は高速運転をしているために、パンタグラフが架線をすごい勢いでこすっていきます。
こすればすり減ります。
もし架線がまっすぐ張られているとすると、パンタグラフの同じ場所がいつもこすられることになります。
1ヶ所だけすり減っていったら、パンタグラフの寿命はとても短くなってしまいます。

なので架線をジグザグに張るわけです。
するとパンタグラフの上面は、全体がまんべんなくこすられるようになります。
まんべんなくこすられれば、まんべんなくすり減って、パンタグラフの寿命も伸びるというわけです。

さっそく本当に架線はジグザグに張られているかどうか、出張の時に見てきました。
でも肉眼ではジグザグには見えませんでした。
それでもしばらくホームを往復しながら架線をじーっと観察していたら、ようやく分かりました。

架線を固定しているアームがあります。
場所によってそのアームを固定している位置が微妙にずれているのです。
アームを固定する位置をずらしていくことによって、架線はジグザグになっているのです。
ナルホドー。

はっちゃんはまだまだマニア本は読めません。
それでも絵や写真を見たりして楽しんでいます。
そのうち、本文も読めるようになって、いろいろなことに興味を持ち、実際に自分で調べてみるようになってくれればいいなって、思っています。

連戦連敗は実力の証

こんにちは

今、X線自由電子レーザー施設の建設中です。
電子線加速器を収納する遮蔽トンネルの、厚さ2mの壁コンクリートを打設中。
ぼくは主に電気設備を担当しています。
このトンネルの中の照明をどうしようかと、考えている最中です。

既に完成した試験加速器用トンネルの照明も、ぼくがデザインしました。
幸い皆さんに好評で、「こんなに明るいマシントンネルは初めて」なんて褒めてもらいました。
調子に乗って今回もデザインしてみたんです。

電子を加速する加速器の中で、電子は1個1個飛んでいくのではなく、何万個、何億個と集団になって加速されます。
この集団を「バンチ」と呼びます。
で、バンチをイメージして照明デザインをしてみたんです。

リビングなどに設置する直径70cmの丸形の照明器具を、長さ400mのトンネルの壁に横付けする。
丸い照明器具が点線のように見えるように取り付けます。
きっと壮観だと思います。
それが加速器の中を飛んでいく電子バンチのように見えるといいなーと思いました。
これを見た人の8割は「とてもユニークでスバラシイ!」と言ってくれるはず。
2割の人は「何じゃこれ??」かもしれませんが。

ともかくこのデザインに自信がありました。
ところが提案してみると、不評。
照明ばかり目立ってしまう恐れがある、とのこと。
ガックリ。
勇気を持て、勇気を!なーんて思いましたが。

まーぼくの仕事は研究者が使いやすい、ほしいと思う設備を造ることです。
嫌だと言われりゃそれまでさ。
自信作も素直に引っ込めましたよ。

ひすいこうたろう+よっちゃん『Happy名語録』王様文庫\533-に建築家安藤忠雄さんの話が載っていました。。
安藤さんはコンペで設計を提案するときには、必ず「オマケ」を付けたそうです。

「こうするともっとおもしろいですよ」という+α。
もちろん建築として成り立つ基本的な条件は満たしつつ、オマケも付ける。
すると、どうなったか。

  連戦連敗(安藤さんの著書の書名ですね~)

安藤さんはついつい+αを付けてしまいたくなるんですね。
絶対こうした方がおもしろいって!という情熱があるんですよ。
でも、それが余計なことと見なされてコンペで負けてしまう。

コンペをやるくらいですから、大規模施設の設計なんだと思います。
国や地方自治体の発注する建築物ですから、結局は可もなく不可もなく、おとなしいものになりがちです。
個性的なものを選んで、それが失敗するのは嫌です。
コンペを選定する側にもそういう意識があるんですね。

けれども、そんなオマケを付け続けているうちに、安藤忠雄氏はどうなったか?
だんだんとオマケを受け入れてくれることが多くなった。
そして日本を代表する建築家、世界の安藤忠雄になってしまったんです。

ここで注意しなければならないのは、安藤さんはなぜ負け続けることができたのか、ということです。
普通、負ければ次がありません。
負けたものは実績にならないからです。
負け続けている設計家が、何度もコンペに参加できるわけがありません。
そもそも負け続けたら設計料を稼げなくて、設計家で居続けることもできないのです。

それは、安藤さんが別のところでは成功し続けたからなんだと思います。
小さな建築物かもしれませんが、賞を取ったり、たくさん依頼を受けたり。
そういう実績があったから、何度でもコンペに挑戦できたのだと思います。

内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』文藝春秋\1400-から引用します。

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お忘れの方が多いようなので、ここで繰り返し申し上げるのであるが、「強者」というのは「勝ち続けることができるもの」ではなくて「何度でも負けることができる余力を備えたもの」のことである。「弱者」というのは「一度も負けられない」という追いつめられた状況にある人間のことである。
人間の強弱は最終的には「勝率」ではなく、「負けしろ」(そんな言葉は存在しないけれど)で決まるのである。(239p)
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何度でも負け続けられる余力、負けても負けても挑戦し続ける勇気。
それを支えるためには、小さくてもいいからたくさんの成功と実績が必要なんですよ。
内田さんの言う「強者」は、<きょうしゃ>ではなく<つわもの>と読んだ方がいいですね。
ぼくもめげずにつわもの目指して、コツコツと小さな成功を積み重ねていきたいと思います。
また挑戦の場が用意されたとき、それに挑んでいけるように。

優しさは厳しさでもある

こんにちは

以前、NHKでETV特集「学校が変わる、子どもが変わる~民間人校長・4年目の挑戦」が放送されました。
杉並区和田中での藤原和博さんの「よのなか科」の授業を中心に、民間出身の校長がどう公立中学校を変えていったかというレポートです。
藤原さんはとにかくリソース(資源)の活用がうまいです。

地域本部という父母や和田中を応援してくれる地域の方々の組織を作る。
組織を作ったら活動してもらう。
図書館の運営、校庭の芝刈り、安全のための構内巡回などなど。
父母や地域の方々にお願いできる校内作業はお願いしてしまうわけです。
これらは普通の学校なら、みんな先生たちが行う作業です。
先生の仕事のうち地域の方たちが肩代わりできるものはやってもらおう、とうことです。
そうやって、先生の負担を減らすわけです。

藤原さんは、「先生たちにもっと生徒と向き合う時間を増やして欲しい」と言います。
本来、先生の主たる仕事は生徒と向き合い、いい授業をすることです。
たくさんの雑多な仕事のために、本来教師としてやるべきことができなくなっている現実があったわけなんですね。
それを解消するために、校長としてできる改革のひとつを実行したわけだったんですね。

また藤原校長は、年間授業時数を1200コマまで増やしました。
普通の学校では年間1000コマなんですが、カリキュラムを法令の範囲で組み直して、一こまあたりの時間を5分間減らすなどして、コマ数を増やしたんです。
授業って同じ内容を教えるにしても、5分間くらいなら短縮できるものです。
返って集中した授業ができるようになる。
その分コマ数を増やして、たとえば週3コマの英語を4コマにする。
初学者の場合、一度に長時間学ぶより、何度も学ぶ方が効果が上がります。

これも、1000コマでは教科書をこなすだけで精一杯であるという現実を打破するためです。
20%の余裕をもって授業をしてほしいという、校長としての願いからなんだと思います。
こうしてみると、藤原校長は部下の先生たちに大変優しい上司だと言えます。

しかし、逆から見ると非常に厳しい上司でもあることがわかります。

先生たちを雑用から解放する。
であれば、教師の本来業務である授業や生徒指導へ集中せざるを得ない。
授業コマ数を増やす。
となれば、教科書をただこなすだけではなく生徒の学力を向上させたり興味を引くような授業をせざるを得ない。
雑用が多くて忙しすぎる、授業時数が足らない、だからいい授業ができない、という「言い訳」をさせないのです。
部下である先生たちを、本来業務へと追い込み、その範囲ではしっかりと結果を出してもらう。
非常に厳しい上司であるわけなんです。

番組の中で藤原さんはこう言っていました(意訳です)。

 先生たちに大きく変わって欲しいとは思わない
  10%変わってもらう

上司として部下に無理な注文は出さない、無理させない。
そのために校長としてできるシステムを整える。
雑用などから先生たちを解放する手だてをこうじてやる。
でもその代わり、部下の先生たちにはしっかりやってもらうわけです。
10%は確実に変わってもらう。
一人ひとりの先生が10%ずつ変わってくれれば、学校は先生の数だけ累乗で変わるはずだ。

あれこれと小うるさくて雑用ばかりさせるような上司は、部下に言い訳を許してしまうんですよ。
結局本質的なところがおざなりになってしまう。
だから得策ではないんですね。
できる上司は、優しくてそして厳しいんです。

プチ断食のススメ

こんにちは

半年間くらいプチ断食を続行しています。
平日は朝昼の2食は抜いて、夜だけ普通に食べています。
朝昼抜くと言っても、野菜果物ジュースを飲みます。
半年で体重は7kg落ちました。
体調もいい感じです。

ぼくの持病はアトピーなので、悪化したときにはこれまでも1,2食抜いて早く治るようにしていました。
健康は消化力によって維持されるわけですから、体調の悪いときは消化力が衰えているときです。
そういうときは食事を抜いて、消化器官を休ませて体力の回復を促すのがいい。

石原結實さんの本にも断食の効用が書かれていて、

 現代人は食べ過ぎている
 成人になったら毎日3食食べることはない
 腹も減っていないのに時間になったから食べるという生活は
 健康を損ねる

なんだそうです。
で、毎日朝昼食べないってことを続けてみようと思ったわけです。

でも一番の効用は「お腹が空くこと」ですね。
夕方になるとお腹が空いて、早く家に帰ってご飯が食べたくなります。
そしてそのご飯が美味しい!
栄養が体に染み渡るようです。

養老孟司/太田光『人生の疑問に答えます』NHK出版\1200-の中で、養老先生もこう言っています。

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実は、僕もダイエットしているんですよ。
2ヶ月前に検査してもらったら糖尿の気があるという結果が出たんです。
これも一つの体からの答えです。
これは体重を減らせばいいので、2ヶ月で7キロ減らしました。
すると何が起こったかというと、それまで「最近うまいものがない」と食事に文句をいっていたのですが、何のことはない、今ではお腹が空いて何でもおいしいんですね。
それまでは「食べ物がおいしくない」と作った人のせいにしているんだけれど、実は自分が食べ過ぎていたから、おいしく感じなくなったということだったんですね。
この「おいしく感じない」ということも「食べ過ぎだ」という体から出された一つの信号だったわけです。(19p)
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3食食べていたときは、夕食を腹一杯食べると体に悪そうだから、遠慮して食べてました。
ご飯お代わりしようかなどうしようかな、なんて迷ったりしてね。
遠慮して食べると不味いですね。食事自体不味くなってしまいます。
でも朝昼抜いたんだからと思えば、夜は遠慮せずにたっぷり食べる。
ご飯も遠慮なく堂々とお代わりできる。
しかも腹が減っているので美味い。
満ち足りた気持ちで夜も眠れます。

元もと人間の新陳代謝(細胞の作り替え)は夜眠っているときに行われるものです。
ですから晩ご飯をたっぷりと、タンパク質の豊富な栄養のあるものを食べる方が体にはいいんだそうです。
昼間は活動に必要な糖分だけ補給すればいい。
だから果物が最適。野菜果物ジュースで補給できます。

どうですか、プチ断食いいですよー!

知識化する

こんにちは

来週、SPring8に建設中のX線自由電子レーザー( http://www.riken.jp/XFEL/jpn/index.html )専用の特別高圧変圧器の安全管理審査があります。
近畿経済局の技官の方が現地に来て、検査するのです。
高い電圧で使用する施設なので、設置者だけではなく国としてもきちんとチェックするということです。
電気の場合電線で発電所や他の需要施設とつながっていますから、事故が起こると自分の施設だけではなく、他の施設にまで波及する恐れがあります。
特に電圧が高い、つまり大電力を供給できる施設での事故は、他の施設へ波及する確率がとても高いのです。
だからしっかり検査するわけです。

既に準備万端、きっと合格すると思います。
なぜなら、検査のポイントが分かっているから。
ポイントを外さないようにすれば、間違いありません。

そのポイントはどこで学んだか。
数年前にも和光研でRIビームファクトリー( http://www.rarf.riken.go.jp/ )専用特別高圧設備を建設しました。
ぼくは当時和光研の電気主任技術者でしたから、フロントにたって審査を受検したんです。
その時に経験したことを、受検後メモにまとめておいたんです。
メモすることによって自分の血肉にするわけです。
こうして「知識化する」するんです。
自分の血肉になり、知識として頭に入ったことは、いつでも活用できるようになるんです。

経験はただ流されるだけでは蓄積されません。
経験は「意図的に積み上げる」必要があると思っています。
意図的に積み上げるためには、きちんと自分の言葉で書いておく。
それが有効なんです。

そういう積み上げがあったから、ポイントがどこにあるか分かり、事前チェックも素早くでき、安心して検査の日を迎えられるというわけです。

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電気担当のみなさま

第2特高、CGSと2回の安全管理審査を経験して、ポイントとなることが分かってき
ましたのでメモしておきます。

安全管理審査は、おおよそ以下のチェックをするものでした。

1.工事計画書通りに設置されているか
2.自主検査体制は万全か
3.自主検査に使用した機器は適切か


<1.工事計画書通りに設置されているか>ということは、工事計画書というものは
電気設備基準などの法令に従って計画されており、国への届出が受理されているので
すから、イコール「法令通りに設置されている」ということになります。
つまり、安全管理審査において工事計画書の記載事項の確認をすれば、法令通り設置
されていることを確認できるわけです。

ですから、自主検査要領・自主検査記録は工事計画書の内容を過不足なく含んでいれ
ばいい。
なおかつ、工事計画書の項目順通りにに自主検査要領・自主検査記録の項目も順番に
記載してあるべきです。
そうすれば、検査漏れも防げますし、審査もスムースに進められます。
もちろん、適否の判定がすぐ分かるように、検査要領・検査記録には判定基準を明確
に記載し、かつ、検査値とすぐ見比べられる場所に記載しておくのがいいです。

諸検査は法令に従って行うのが原則ですが、法令外であっても主任技術者が審査員に
適切であることを説明できるならば、それでも可でした。
今回のCGSの審査で、技術基準上「総合インターロック試験は軽負荷運転時に行
う」と記載がありますが、実際は無負荷で試験しました。
その説明をするのに、ひやひやしました。
めんどうを避けるなら、法令に準拠した試験をした方がいいと思います。

また、工事計画書、自主検査要領・自主検査記録には、法令で必要であると定められ
た項目だけを記載しておいた方がいいですね。
法令外のオプション機能もあるでしょうが、安全管理審査の場では必要ないものだと
思います。

設置した機器が計画書通りのものであることを示すために、検査記録書に機器名板の
コピーを添付しておくのがいいです。
工事計画書と名板の読み合わせをする審査員もいました。


<2.自主検査体制は万全か>は、自主検査を行う上でどんな能力の人に何をさせる
かです。
主任技術者は検査責任者となるわけですから、すべての自主検査に立ち会っているこ
とが前提です。
ですから、検査内容や検査方法について理解しているかどうかが問われます。
もちろん、主任技術者免許の確認をする審査員もいます。

また、主任技術者の指揮に従って配置する検査員の能力も問われますから、各人の資
格、経歴を記載した検査員名簿は用意しておくべきです。

主任技術者と各検査員の連携がとれているか、その検査に必要な人数が配置されてい
るかも問われます。


<3.自主検査に使用した機器は適切か>は、自主検査をしてもあてにならない計器
を使用していたのでは、正しい検査とはなりません。
各検査に使用した検査機器の機器表と、それらの校正記録は用意しておきましょう。


上記3点を、たとえば以下のように審査員から質問されます。

・工事計画書に記載のある<過電流リレー>についての検査記録を見せてください。
・・・すぐそのページを開くためには、工事計画書の順番に検査記録も並んでいた方
がいいですね。

・この試験の試験員は誰でしたか。それはどのように確認しましたか。
・・・主任技術者は現場にいて名簿と本人を照合し、資格者証も確認したかどうかを
問われているのです。

・過電流リレーを試験する方法を説明してください。
・・・試験方法について理解していないとしどろもどろになっちゃいますね。
   実機では試験できないので、模擬入力によると説明します。

・模擬入力に使用した機器は何ですか。
・・・使用した試験器一覧表と、それらの校正記録をさっと出せればok。


上記のように、1~3項目の審査がなされていくわけです。

以上、参考になれば幸いです。


お願い;ぼくへの連絡は、なるべく電子メールorFAXでお願いします。
    電話じゃ捕まりません(^^)/。
   <<<<<<<<<<<<<<>>>>>>>>>>>>>>
理化学研究所 施設企画課  情報基盤研究部情報環境室(兼)
          和光本所電気主任技術者 

       関口芳弘(Sekiguchi Yoshihiro)

       〒351-0198 埼玉県和光市広沢2-1 
         tel.048-462-1111(内線2586)
         fax.048-462-4612
         所内fax.2580
         E-mail;  sekiguchi@postman.riken.go.jp

2008年9月26日金曜日

疲れと怠さを峻別せよ

こんにちは

GW明けから何となく体調が優れず、そのため頭も今ひとつ冴えません。
ちょっと風邪気味。
GWにゆっくりしすぎたようです。
人間は、ラクしすぎても体調が悪くなるんですよね。
まーたまに風邪を引くのも体にとっていいことなんだそうですから、気にせずに徐々に治しつつ、エンジン再スタートです。

ところで「疲れ」と「だるさ」は、似たような状態ですよね。
どこがどう違うのでしょうか。

「だるい」をワープロで漢字に変換してみると、「怠い」です。
ああ、こういう漢字を当てるのか、と思いました。
ちょっとした発見。

<怠>という漢字を使った言葉を辞書で調べると、怠る(おこたる)、怠ける(なまける)、倦怠(けんたい)、怠業(たいぎょう)、怠状(たいじょう)、怠慢(たいまん)、倦怠感(けんたいかん)などがありました。
「怠ける」に代表されるようにどちらかというと何もしないでだらだらした状態を指しているようです。

これで分かりました。
「だるい」という状態は、何もせずだらだらすごして体と精神が鈍った状態なのです。GWをダラダラ過ごしたぼくのように。
それに対して「疲れる」は、自分のキャパシティを超えて体や精神を酷使た結果、不調になるということ。
どちらも肉体的にも精神的にも似たいような感覚をもたらしますが、原因は正反対なものなのです。

「だるい」は、体内のエネルギーが十分発散できずに体内に滞ってしまった状態。
「疲れる」は、体内のエネルギーを出しすぎて枯渇した状態。

エネルギーを出さなくても出しすぎても、人は不調になるようです。
体内のエネルギーを程良く出し切ったとき、疲れたとしても爽快な気分になるのはそういうわけなのでしょう。

斎藤孝『くんずほぐれつ』文芸春秋\1000-から引用します。

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自分の経験で言えば、中学三年の頃、急にだるさを感じるようになった。
いつも「かったるい」気がしていた。
「めんどくせー」、「カンケイねーだろ」が口癖のようになっていた。
現在の中高生にとっても、「かったるい」「たりぃ」は、ベーシックターム(基本用語)のままである。
ずっと一つの疑問が解けないままだった。
「最もエネルギーにあふれているはずの自分のからだが、なぜこんなにもだるく疲れているのだろうか」
二十代のある日、野口晴哉の本の一節を読んだとき、ひっかかっていたこの問題が氷解した。
私の記憶に残る一節の趣旨は、こういうことだ。
だるい状態とは、エネルギーがなくて疲れている状態ではなく、むしろ逆にエネルギーが過剰な状態である。
私たちは、しばしば、だるさと疲れを混同してしまっているが、両者は正反対の状態なのだ。
疲労しているならば休む必要があるが、だるいときは動く必要がある。
これを読んだときに、なぜ中学以来あれほど「かったるかった」かが理解できた。

あれは、疲労感ではなく、エネルギーを注ぐ場所を見いだすことができずに、エネルギーが滞留した不快感だったのだ。
いわば、きちんと疲労することができないでいる状態が、あのかったるい身体であった。
だるい身体は、心地好く疲れる場所を探していたのだ。(85-86p)
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確かに中学生くらいの子どものは、しばしば「だるい」と言います。
それは、自分の中に湧き出てくるエネルギーを、どこにどう発散していけばいいのか分からず、それが体の中に澱のように溜まってしまうからだったんですね。
エネルギーは小学生の頃よりも断然増えてきたにも関わらず、小学生の頃にやったようなことにエネルギーを注ぐのはあまりに幼稚すぎる。
かといって大人と同じことはできない。
そういうジレンマがあって、人間的にも社会的にも中途半端な自分をどう動かしたらいいのかが分からない時期なんでしょう。
中学生である自分にふさわしいエネルギーの注ぎ先が見つからないから、だるくなってしまうのだと思います。

適切にエネルギー収支を管理すること、すなわち「がんばりすぎず、ラクしすぎず」が、体と心に必要な生き方なんだと思いました。

余裕を創れ!

こんにちは

ぼくの仕事のひとつは工事の監督員です。
昨日は日帰りでSPring8へ出張してきました。
加速器の制御を行う研究者との打ち合わせです。
今や研究実験施設も、建物と実験装置を独立に造れることはなく、一体的に造っていかないとよい施設ができないのです。
だから、研究者との打ち合わせを綿密に行い、思想(コンセプト)を理解し、すりあわせておかなくてはなりません。
思想(コンセプト)が共有できれば、あとはお互いプロフェッショナルですから、それぞれの分担を地道かつ的確にすすめていくことができるのです。

よい施設を造るために、ぼくも監督員なりに心がけていることがあります。
それは

 施工する人が実力を発揮できる環境を提供する

ことです。
施工者が得意とする分野で力を発揮してくれれば、自ずと良い出来になるわけです。

そのために具体的には、「見通しをつけてやる」ことが大事だと思います。
リソースの分配を間違えない、と言ってもいい。
実際の工事があまりない段階では、じっくりと設計図や施工図の検討をする。
必要な打ち合わせはこの時期にすべて終わらせてしまうようにする。
あるいは、書類を作ったり役所への届出など事務的な仕事をやっつけてしまう。
そして工事が本格化したら、工事だけに専念できる状況にしてしまうわけです。

人はいくら有能であっても、二つも三つも同時に仕事をすることはできません。
やはり一つに集中するからいい仕事ができるのだと思います。
そういう状況を作ってやるのがぼくの大切な仕事だと心得ています。
でもこれは逆に考えれば、非常に厳しいことでもあります。
いっぺんにいろいろな仕事が重なったためにいい仕事ができなかった、という言い訳を許さないからです(昨日の藤原和博さんの話と通じるでしょ)。

いい仕事をして、そして最後には施工した人も自分の会社で評価されるようにする。
そしてぼくもいい実験施設を造って、職場やサイエンスに貢献する。
お互いwin-winの関係を築く。
よい結果へと上手く接続していきたいと、常に考えているのです。

永守重信『奇跡の人材育成法』PHP文庫\419-から引用します。

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何事もパーフェクトにできる人間はいない。
だが、わずかでも余裕があれば、行動を起こす前にもう一度考えてみることができる。
ところが、このゆとりがなく、いつもギリギリの状態で物事を進めていると、小さなミスもどんどんふくらんでいく。
そして、あらゆることがルーズになって、それが当たり前になってしまう。(102p)
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要は余裕を作ることなんですね。
直前になって、その場になってあたふたしないで済むような状況を作るんです。

昨日の研究者との打ち合わせで得られた方針を、建築技術の言葉に翻訳して、かつ施工上適切な時期に施工者に伝えていく。
そのことによって施工者も余裕を持って工事に邁進できる。
ゆとりがあれば、ミスも少なくなります。
それがぼくの監督員の仕事のやり方なんだと思っています。

心と体と食と

こんにちは

これまで何度か食と健康の関係について書いてきました。
人がものを食べる理由は二つある。

 ・腹が減ったとき=エネルギーを得るため
 ・必要な栄養が足らないとき=新陳代謝のため

特に成長期にある子どもの場合、後者を考えた食事が大切です。
必要な栄養を満たした食事をさせると共に、そのために食べ過ぎたエネルギーを消費させること。
バランスの悪い食事をしていると、過度に摂りすぎたエネルギーを発散させたい欲求が暴走してしまう。

荒れた学校を立ち直らせるために、食を変えていくことを実践した人がいます。
『致知』'08.5に上田市前教育委員長の大塚貢さんのお話が載っていました。
上田さんが荒れた中学校の校長になったとき、まずやったのは給食の改革。

子どもの成長のためには食の改善が必須であることは、多くの人が分かっていることです。
それをどう実現していくかですね。
普通は家庭に「バランスのいい食事を与えてください」と言ってお終いでしょう。

言うだけなら誰でもできますよね。
でも家庭だって、そう簡単に食事を改善できるものではありません。
朝食抜きなんてあたりまえ、夕食もコンビニ弁当、カップ麺ばかりという家庭だってあるんです。
親だってバランスのいい食事がいいとは思っているんですが、それを実行するためにはお金も時間もかかります。
そんなことどうしたってできない親だっているんです。

でも上田校長はあきらめなかった。
実務者ですからね。
実務者とは自分でできることはやっていこう、たとえ100%は無理でも、少しでも改善できることがあるならやる、自分だけでもやれることはやる、という人のことです。
ただ「バランスのいい食事を」と言うだけじゃなく、できる部分だけでも実行に移す。
人は一日に三食食べるわけです。
給食だけでも改善できれば、、30%も改善できる勘定です。

それまでパンや麺類や時に菓子パンなど子どもの好きなメニューばかりだった給食を、毎日米食に変えたんです。
米食も白米オンリーではなく、微量栄養素がたっぷり含まれ消化吸収のよい発芽玄米を10%雑ぜたもの。

余談ですが、ただの玄米は消化吸収があまりよくないので、消化力の弱い子ども向きではありません。
玄米というのは発芽する力を持っています。
翌春、適切な時期に発芽するように、発芽抑制因子が含まれています。
発芽抑制因子は、動物にとって毒性がある。
それによって動物に食べられにくくもしているんですね。
なので、玄米そのものは消化しにくいのです。
それをちょっと発芽させてやったのが発芽玄米。
発芽させることによって発芽抑制因子を分解させてしまうのです。
こう処理することによって、消化吸収のよい玄米に変えることができるわけです。

上田さんは校長の権限で給食を変えちゃったんですね。
主食をご飯にすると、副菜だってそれにあったものにしていく必要があります。
栄養士さんと何度も試食を重ね、子どもたちが喜んで食べてくれるメニューを作り出していった。

その結果はドラスティックに現れました。
給食を変えてたったの7ヶ月で、学校が落ち着きはじめたんです。
1年半から2年がたつ頃には、非行、犯罪はゼロになった。
同時に学習意欲も高まり、授業中寝たり、教室を抜け出したり、騒いだりする生徒もいなくなっていったんだそうです。
結果、県内でもトップクラスの学力をもつ学校になってしまった。

心と体は密接に関連しています。
心は体の健康に支えられている。
そして体は食によって作られているんです。

抜き書きは楽しい

こんにちは

ぼくはこうしてほぼ毎日のようにゴミメールを書いています。
その時々思ったこと、考えたことにからめて、本からも引用したりします。
まー、引用することが好きなんですよ。

本を読みながら面白かったこと、心にのこるようなことの書いてあるところに線を引いたり、ページの角を折ります。
読み終わったら、その部分を抜き書きします。
昔はノートや手帳に手書きで抜き書きしていましたが、今はパソコンに打ち込んでしまいます。

抜き書きはだいたい職場で昼休みにしています。
なかなか有意義な昼休みの使い方でしょ。
で、抜き書きが終わった本は同僚や仕事仲間にプレゼントしちゃいます。

抜き書きをする習慣は、ぼくの尊敬する小学校教師だった岸本裕史さんの真似なんです。
岸本さんの授業には、視写(教科書を見ながら書き写すこと)や聴写(先生が読む声を聴いて書き写すこと)が重要なものとなっています。
ぼくも教員時代によく試写や聴写の授業しました。
国語の授業ではもちろん、理科や社会科でもよくやりましたね。
単純な作業ながら子どもの集中力を育てるにはよい方法だと思っています。
 
そして意外とこれが頭に入るんですよ。
ただ書き写すだけで、その内容を記憶したり理解したりできる。
岸本さん自身、若い頃新聞の抜き書きをたくさんやったそうです。
そのおかげで、達意の文章を書けるようになったし、社会を見る目ができたとおっしゃっていました。

お寺では写経ということをやったりしますよね。お経をただ書き写すという修業。
写経も同じ原理なのかなと思います。
書き写すことによって、仏教思想の真髄に近づくことができるのではないでしょうか。

福田和也『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』PHP文庫\514-を読みました。
ここにも抜き書きの効用が書いてありました。

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抜き書きは、書き手の考えを理解する上で、とても役に立ちます。
もちろん、ただ写すのではなく、書き手になったつもりで、大袈裟に云えば憑依をして、書いていかなければなりません。
楽器を習ったことがある方はお分かりになると思いますが、ギターなどを練習する上で、好きなミュージッシャンののフレージングなり、手癖なりを真似た、つまりはコピーした体験があると思います。
そういう形でギターを真似ると、ただその曲を弾けるようになるだけではなく、元の演奏者の和音に対する解釈とか、分解の仕方が納得できるような気持ちになったことがあると思います。
文章もまったく同じです。(64-65p)
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ナルホド、書き手の考えを理解するために書き写すわけですね。
ギターのコピーの喩えはぼくの心にストンと落ちましたね。
なんたって、ぼくは元ロックンローラーですから。
確かに、コピーするとそのミュージシャンの心に近づけたような気になります。

コピーは技術だけのコピーじゃないんだって思いました。
その思想まで自分の中に取り込むことができるんだって。
抜き書きは楽しいですよ!

2008年9月24日水曜日

プロは記憶する

こんにちは

ぼくの仕事のメインは、新しい研究施設や実験施設を造ることです。
その施設ごとにだいたい1年から3年のプロジェクトとなります。
プロジェクトごとに違う人たちとタッグを組んで仕事を進めます。
違った会社、違った経験を持つ人たちです。
その人たちとぼくは、1年から3年つきあうことになるわけです。

X線自由電子レーザー施設の建屋建設も、残り6ヶ月あまりになりました。
この時期になって、研究者から「マシンを据え付けるトンネル壁に接地銅バーが欲しい」とリクエストがありました。
若い現場代理人にそれを伝えると、即座にこう答えました。

 トンネルの長さは280mくらい。
  銅バーは1mあたり1万円くらいでしょう。
   よって、トンネル南北に設置して500万円強でできると思いますよ。
    もちろん、あと半年あるからやれると思います。

おーーー、サスガです。
プロらしい仕事ぶりになってきましたねー。

その人がプロかどうか見わける方法があります。
それは次のような質問をしてみることです。

 ・この仕事、いつまでに完成する?
 ・この仕事、いくらでできる?

この質問に即答できる人はプロの腕前を持っている人です。
検討します、とか、社に戻って上司と相談してきます、なんて言う人は失格。
たとえ名刺に「課長」や「主任」の肩書きが書いてあっても、とてもその職位にふさわしいプロの仕事ができる人とは思えません。
プロの仕事ができる人は、上の質問に即答でき、さらにその仕事が完成してみると、ほぼ言ったとおりの期日に、言ったとおりの金額でできあがるのです。
つまり、プロの腕前とは、ひとことで言えば「概算ができること」なんです。

概算ができるためには、

1.どのような方法でやればよいかを知っている
2.それにいくらかかるか知っている
3.それがいつまでにできるか知っている

が必要です。
これらは互いに関連しています。
方法が決まらないと、コストと期日も決まりません。
また、コストが決まっているのなら、それによって適切な方法を選択する必要があり、コストと方法が決まれば期日も決まります。
期日が指定されているなら、そのためにかけられるコストを見込んで方法を選択しなければなりません。
おおよそプロの仕事とは、この三つについて知識と経験に裏打ちされているものだと思います。
そして、自分のやっている仕事の数値をきちんと記憶しているんです。
先の若い代理人の場合なら、マシントンネルの長さをきちんと記憶している。
銅バーの単価を記憶しているんです。
だから上のような質問にも即答できるわけなのです。

プロの仕事ができる人と一緒に仕事をすると、ホントに気分いい。
何が気分いいかというと、手もどりが少ないのです。
手戻りとは、あるやり方で仕事を進めているときに途中でにっちもさっちも立ちゆかなくなって、方針転換して最初からやり直すことです。
手戻りがあると、よけいなコストがかかってしまって、予算オーバーになりがちです。
そのうえ、よけいな時間もかかってしまって、期日に終わらない、他の工程に影響が出てしまう。

やり直しが多い仕事ほど消耗するものはありません。
お金や時間ももったいないですが、今までの努力を無にしてしまうほど精神的にダメージが大きいものはありません。

では、プロの仕事を身につけるにはどうしたらいいでしょうか。
ぼくはいつも、この仕事はどんな方法でやっつければいいか、いつまでに終わらせることができるか、いくらかかりそうか、を意図的に予想してきました。
そして、その予想を誰かに公言してしまう、約束してしまうようにしてきました。

時には予想が外れてしまうこともありました。
恥をかくこともなかったとは言えません。
失敗のリカバーに手間取ることもあった。
でも、だんだん言うとおりにできるようになってきたと思います。
それは、その経験から得たことをしっかりと記憶してきたからだと思っています。

大人になる過程

こんにちは

亭主が「今日は日曜日だからパチンコでも行ってくるか」と言ったとしましょう。
女房はそれにどう答えるか。
「たまの休みの日、気晴らしもいいでしょ。どうぞ行ってらっしゃい」でしょうか。
それとも「何バカなこと言ってんのよ!たまには庭掃除くらいやったらどう!」でしょうか。
同じ日曜日にパチンコに行くのに対して、女房から正反対の反応が返ってきてしまうのはなぜ?
 
たぶん、「行ってらっしゃい」と言われる亭主は、普段から仕事に精を出してまじめに働いている。
「何バカなこと言ってんのよ!」と言われる亭主は、ろくな仕事もしないのに、日曜に限らずパチンコ狂いなのかもしれません。

簡単にいえば、自由とは、「好きなことを」「好きなときに」できるということです。
でもそれができる人とできない人がいる。
それは、その前段が違うからです。
普段からまじめに働き、家族に貢献しているご主人なら、日曜日にパチンコに行くくらい笑顔で送り出してくれる。
普段からパチンコ狂いの亭主だと、日曜日だからって一日中パチンコ屋に入り浸ろうなんて言語道断!
つまり、普段から義務や責任を果たしている人にだけ、好きなことを好きなときにやれる権利、自由が与えられるんですね。

アニマル浜口/横峯良郎『俺たちの教育論』致知出版社\1143-で、プロゴルファー横峰さくらさんのお父さん良郎さんはこう言っています。
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極端なことを言うと、僕は子どもに自由なんかないと思っています。
自由の裏側には責任がなければならないわけで、自分のことも社会のことも、まだ十分には分かっていない子どもに、重い責任を背負わせるわけにはいきませんよ。(15p)
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自由の裏には必ず責任が伴う。
まだ責任を果たせない、重い責任を負わすことができない子どもには、本当の自由なんてないのが当たり前だ、ということです。
まったく同感です。
 
もちろん子どもにも権利があります。
その権利は誰にも侵すことができません。
でもその権利は、子どもがきちんと成長するために必要なだけの権利なんだと思うのです。
ちゃんとした大人になるため、社会人になるためだけに限定して認められた権利。
それを所与のものとして、天から与えられた自由と履き違えてはいけない。
期間限定なんですから、子どもが大人になったときにはその権利は失効します。
だから子どもは大人になったとたんに、不自由を感じるのだと思います。
やりたいことなんて、ちっともできないんですから。
 
でもそれは当然。
大人になったとはいえ大人になったばかりでは、まだ社会に対して義務、責任を果たしていないからです。
義務、責任を果たして行くにつれ、貢献していくにつれ、徐々に自分の権利を行使できるようになり、少しずつ自由度が増えていく。

会社だってそうです。
サラリーマンが自分のやりたい仕事、面白い仕事ができるかどうか。
それはその仕事が社会から歓迎され、また会社に利益をもたらすか、です。
そういう実績をこれまで積み上げてきたか、です。
それによって、やりたい仕事、面白い仕事ができるできないが決まるんだと思います。
 
だから、「大人になるとは自由を獲得していく過程である」とぼくは思っています。

2008年9月17日水曜日

ラクして損するな、再び

こんにちは
 
以前同じタイトルのゴミメールを書きました。
エレベータやエスカレータには極力乗らないで、階段を使う。
エレベータやエスカレータに乗るとその時はラクチンだけど、長期的に見ると自らの体力を衰えさせるので損。
そんな話でした。
 
先日、他の係の若い同僚の出張報告書が回覧されてきました。
読んでみると、以前行った出張の報告書をコピペ(コピー&ペースト)して作ってあるのが分かりました。
だって、前と同じ文面が書いてあったから。
しかも今回の出張とは無関係な記述まで残っていた。
いけませんねー。
すぐ突き返して書き直させました。
 
出張報告書はA4、1枚程度のもの。
しかも、具体的に出張内容を記載しないとならないのは数行にすぎません。
なぜコピペで済まそうとするのか、ぼくには分かりません。
 
確かにコピペで報告書を作れば、早くできラクチンです。。
でも、まあせいぜい10分とか20分とかの節約にしかなりません。
意義がある節約とは思えません。
しかも間違っていたんじゃあねぇ。。。
 
やっぱりせっかく出張に行かせてもらったんだから、それを有意義なものにした方がいい。
報告書を書くことは、自分が経験したことをまとめるいいチャンスでもあるんです。
ここをラクしちゃいけない。
ちょっと苦労してでも自分の言葉で書いてみる。
それが自分の血肉になっていくんです。
コピペでやっつけてきた人と、チョビットでも努力を重ねた人とでは、数年後には圧倒的な差になって自らに跳ね返ってくるんです。
 
最近、学生さんのレポートもコピペで済ませる、なんてことが多いそうです。
それって、損なのにね。
学力も上がらない、紙は無駄遣い、先生の怒りも買う。
ラクして損していないか、時々チェックしてみるといいですよ。

歩留まりを見込め

こんにちは

こういう思考実験をしてみましょう。

ある先生が子どもに漢字を覚えさせるために漢字テストをやってみました。
あらかじめ20文字の漢字を指定し、授業や家庭学習で十分練習させた。
テストをやってみたら、最低点の子は60点、12文字の正解だった。

どの子にも100点を取らせたいと思った先生は、今やったテストの結果から「問題数を10問にすれば全員が100点になるだろう」と予想しました。
だって20問のテストで最低点の子どもでも12問正解できたからです。
10問だけのテストなら、最低点しか取れなかった子どもも満点を取れるはずだと。
ところが実際に10問のテストを実施してみたら、全員が100点ということにはなりませんでした。
やっぱり最低点は60点、6問の正解でしかなかったのです。
それではと、極端に問題数を減らし、1問だけのテストにしてみました。
1問だけならどんな子でもしっかり覚えて来て100点取れるに違いないと。
1問だけのテストを何回か実施してみました。
すると全員が100点の日もあるけど、やはり間違える子どももいる。
つまり0点ですね。
テストを何回か繰り返してみて、最低点を取る子の点数を集計してみました。
10回のテストのうち、正解したのは6回、間違ったのは4回だったのです。
やっぱり60点くらいになっていたのです。

これはただの思考実験ではありません。
筑摩書房のPR誌『ちくま』03.09号の重松清さんと新井紀子(国立情報学研究所)さんとの対談「「わからない」からこそ、「わかる」が深くなる」から引用します。

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重松 新指導要領の発想では、考える過程を丁寧に見ていくことで点数を加算していくのではなく、教える内容を簡単にすることで0点をなくそうとしていますね。

新井 変な話なんですが、数学のレベルを下げても、やっぱりできない子の人数はあまり変わらないんです。
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問題を易しくすれば、問題数を減らせば、どんな子どもでも100点を取れると思うかもしれません。
でも現実は違うんですね。
易しくしても、課題を減らしても、できない子どもの人数はそう変わらないんです。

これを工業的には「歩留まり」といいます。
全生産品のうち、良品の割合を歩留まりというのです。
何かを生産するときに、必ず一定割合の不良品が出てしまいます。
不良品は少ないほどよいのですが、努力して工夫して不良品を減らしていっても、ある割合からはなかなか減らないものなのです。
それ以上歩留まりをよくするためには、相当の労力とコストがかかってしまうようになります。
ですから工業では、歩留まりを上げる努力と工夫は常にしているのですが、ある程度の不良品は許容しているのです。
コストパフォーマンスが最大になるように、不良品が出ることを織り込んで生産計画を立てるのです。
不良品は検査の段階で排除すればいいのです。
それが最も効率的で経済的だからです。

もちろん子どもは工業製品ではありません。
工業製品の不良品のように子どもを考えるのは間違いだと、ぼくも思います。
が、教育にも「歩留まり」という概念は必要だとぼくは思っています。
人間というのは、易しければ、課題が少なければ、誰もが100点を取れるようにはできていないのです。
歩留まりを見込んだ教育が必要なんだと思うのです。

さて同じ60点でも、20問のテストでの60点と10問のテストでの60点では価値が違います。
20問のテストの時は12文字覚えられたのに対し、10問のテストの時は6文字しか覚えられていないからです。
当然ながら12文字覚えた方が価値があります。

つまりテストをプランニングするときも、歩留まりを考慮して、子どもにとってより価値を生み出すためにはどう難易度と課題数を設定するのがよいか、その最適解を求めた方がいい。
安易に100点をとらせようとして、返って子どもに価値を与えない教育になっていないかどうか、吟味が必要だと思います。
 
社会人も同じです。
能力の不足している人に限って、完璧に仕事をしようとします。
しばしば目標値を下げてまで完璧を狙う。
これは失敗します。
歩留まりを見込んでいないからです。
結局、低い目標も達成できなく、不完全で中途半端な仕事しかできないのです。
 
実は、完璧は怠惰の隠れ蓑なんですよ。
完璧にやろうと思う人は、努力を放棄して今ある自分のレベルに仕事を合わせてしまう。
今の自分でもできるだろうなという甘い目標にするから、返って気が緩んでしまうんです。
不完全な仕事で、お客さんからもクレームをもらっちゃうことに。
 
それより、要求されているよりちょっと目標を高く設定する方がいい。
完璧にはできないかもしれません。
でも60点の出来でも、お客さんは満足してくれる。
なぜなら、歩留まりを見込んでも要求水準までは達することができるからなんです。
おまけに努力もするから、自分の腕も上がる。
双方ハッピーじゃないですか!

技術者は悩まない

こんにちは

今一緒に仕事をしている若い技術者君が、技術的なことで悩んでました。
ぼくからすれば、何でそんな小さなことで悩んでるのよ、というようなこと。
さっさと調べたり、人に聞いちゃえば解決しちゃうのにね。
ぼくに聞いたっていいのに。
多少、恥ずかしい目にあうかもしれないけどね。
あはははは。

そこで若い技術者君に、技術者としての心得を一席ぶっちゃいました。
ぼくの今の本業は「設備技術者」です。
ぼくもこの仕事を10年一生懸命やってきましたから、技術者として大切な心得とは何か、一家言持っているんです。

技術者というのは、考えちゃだめなんですよ。
技術者が解決するべき問題は、たいてい過去に誰かが解決してある問題か、それらの組み合わせなんです。
たいていの場合、参照すべきデータが存在していたり、マニュアル化されている。

だからそれらを記憶しているか、すぐ参照できることが重要で、最初から自分で考え出す必要はないのです。
いちいち最初から考えていたんじゃ、時間がいくらあっても足りないんです。

マニュアル通り、過去のデータ通りやっても、どうしてもうまく行かない場合ももちろんありますよ。
その時は、自分で考えたり、みんなで工夫したり、研究的なアプローチも必要となってくるのは当然です。
まーめったにないけどね。
その場合でも、新たなマニュアルを作りだしていき、<技術化>していき、次に同様なことがあったら考えずに実行できるようにしていかなくてはならないと思います。

毛利衛『宇宙の風』(朝日文庫\600-)を読みました。
毛利さんはもともと科学者ですが、宇宙飛行士はもともと軍出身の「技術者」が多く、訓練中技術者と科学者の気質の違いを強く感じたそうです。
「技術者」として基本的な姿・態度はどうあるべきなのか、それが分かって面白かったので引用します。

###
宇宙飛行士というのは基本的に技術者です。
パイロット(操縦士)はきわめて専門的な技術者といえます。
宇宙ステーションにしても、完成させるまでは技術的な仕事が大半を占めます。
たとえばステーションの組立は大工さん、その一部は宇宙遊泳を必要としますが、それもいわば鳶職のようなもの、あとは電気屋さん、機械屋さん、コンピューター屋さんの仕事です。
「NASAの宇宙飛行士は高度の技術者集団」と定義できるかもしれません。
したがって、アスカンでも技術者としての訓練が大半を占めます。
技術者というのは、与えられた装置、状況下で、その装置のルールを知って上手く操作できるかどうかが求められます。
不具合があった場合も、マニュアルをさっと取りに行って、何が問題なのかを発見して、あとは地上と連絡を取りながら、マニュアル通りに直せるかどうかが期待されます。
###

宇宙飛行士という技術者は、常に生死と隣り合わせです。
宇宙でもしトラブルが起こり、適切かつ迅速な対処ができなければ、それはすなわち死を意味します。
あれこれ悩んでなんかいられないんです。
既に想定されていた対処マニュアルの中から、現状と整合しているものを即思い出せなければならないのです。
そしてそのマニュアル通りに実行していく必要がある。
宇宙飛行士は「究極の技術者」の姿であると言えます。

ぼくら地上で安穏と仕事をしている技術者だって、理想は宇宙飛行士なんです。
ぼやぼや悩んでいちゃいけないぜ。
悩んでいるうちに後手に回って、被害が拡大するなんてことは日常茶飯事。
問題解決のために、即実行に移せることが理想なんです。

悩まずに実行するにはどうするか。
先ずは自分の知識を増やしていくことです。
こういうときはどうすればいいのか、たくさんのデータを頭に入れる。
本から学んでもいいし、経験したことを忘れないようにすることも大事です。
もちろん、インターネットで調べることも大切です。

そして何より人脈です。
困ったことがあったとき、聞くことができる先輩、上司、友人、部下がいるかどうか。
自分だけの学び、経験は、ごくごく狭いのは当然です。
でも一人ひとりの学び、経験を合計すれば、とてつもないデータベースになっているわけです。
だから誰かに聞けばいいんです。
聞いたり聞かれたりできる関係が、すなわち人脈なんです。
困ったときに誰にも相談できない、誰に相談したらいいか分からない人は、人脈のない人なんです。

人に聞くときも、自分だけが一方的に聞く側ではいけません。
誰かが困っているとき、知恵を貸せる存在に自分がなっていないとだめ。
そうじゃないと長続きしません。
相互扶助こそが人脈の要件だからです。
だから、学んでこなかった人、学ばない人はいつまでたっても人脈はできないのです。

人間の脳は、メモリーベイスドアーキテクチャ(記憶を基にして思考する構造)であることが、近年の脳科学の発達で分かってきました。
素早く的確に考えるためには、ある程度のきちんと整理された記憶がないとだめなんです。
だから、本や経験や他人から学び続けないとならないのです。

そして必要なときに即、必要な「技わざ」を繰り出す「術すべ」を持っている人が、優秀な技術者なんだと思います。
何時間も何日も悩んでいるような人は、技術者の名に値しないということです。

人脈はGive and Take

こんにちは

人脈を広げるために、異業種交流会というものがあります。
ぼくもちょっと興味があって2回ほど参加してみたことがありますが、今ひとつピンと来ませんでした。
何か「自分が得するためだけ」に参加している人が多いように感じてしまったんです。
Takeだけという感じなんですよ。
名刺交換しても、自分の売りたいものを買ってくれそうな人とはよくおしゃべりしていても、自分の客にはなりそうもない人からはすぐ離れていく。
もちろんぼくは後者だったんでしょう、ちょっと不愉快でしたね。

人と人とのつきあいの基本は、Give and Takeじゃないですか。
自分だけが得する関係を求めるというのは、ちょっとさもしいように思ったんです。
異業種交流会には、自分が相手にとってもメリットを与えられる存在であるかどうか、ということが抜けている人が多かったように感じました。
ぼくが参加した交流会がたまたまそんなのだったんだと思いますが。

人脈っていうのは、異業種交流会で数回会ったくらいで広がるものじゃない、とも思うのです。
三ヶ月なり半年なり長期間同じプロジェクトに取り組んで、そのプロジェクトが終わっても引き続き関係を維持したいと思うことが、人脈なんじゃないでしょうか。
ある一定期間、お互いに一生懸命一緒に仕事をした結果、もうお前とは金輪際会いたくないね、ではなく、これからも関係を維持したいという気持ち、それが人脈を広げていくことになるんだと思います。

『他人と10倍差がつく勉強法』PHP\1200-に藤原和博さんの記事も載っていました。
ぼくの頭にガツンと来ちゃいましたので、引用しますね!

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人脈というのは、「これはやられた!」と思うような「驚きの応酬」のなかで初めて生まれてくるもの。
ですから、社外に「自分の味方になってくれる人」が1年に一人でもできれば、それで十分ではないでしょうか。(201p)
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だからぼくも人脈は「人数」じゃないと思うのです。
本当に頼りになる数人がいればいい。
そしてまた自分もその人たちが必要なときに頼りにされる存在であること。

今目の前にある課題に目の前にいる人たちと一緒に、誠実に情熱を持って取り組む。
それを続けることによって実力も上がり、仕事の幅も広がって、結果として人脈も出来ていくわけです。
自分はラクしていて、大した貢献もせずに、人脈だけ広げようったってそれは虫がよすぎるってもんですよ。

反省とは記憶なり

こんにちは

ぼくの仕事のメインは、新しい研究施設や実験施設を造ることです。
その施設ごとにだいたい1年から3年のプロジェクトとなります。
プロジェクトごとに違う人たちとタッグを組んで仕事を進めます。
違った会社、違った経験を持つ人たちです。
その人たちとぼくは、1年から3年つきあうことになるわけです。

今ぼくはSPring8にX線自由電子レーザー施設を造っています。
電気設備を作ってもらう若い(と言っても中堅かな)担当者とも3年のつきあいになります。
彼らにも「プロらしい」仕事をしてくれるようになってほしいと思っています。

ぼくは「仕事の1/3は教育である」と考えています。
仕事をする中で、誰かを教えることもあるでしょうし、誰かから自分が学ぶことも必要。
ぼく自身、いまの仕事を始めたばかりの頃は年長の人たちとの仕事でしたから、学べることは存分に学んできました。
いまはもう、メンバーの中ではぼくの方が年齢が高くなることが多いので、せっかくある期間一緒に仕事をするのだから、ぼくの知識と経験を若い人たちに伝えていきたいと思っています。
もちろん、ぼく自身が若い人たちから学ぶことも忘れずに。
もちろん具体的な仕事を進めることが最重要ですが、学び学ばれしつつすすめる方がいい仕事ができるんだと確信しているのです。

仕事は雑多な要素の組み合わせですが、その中に必ず教育はあるべきだと思っています。
教育という視点のない人の仕事は、面白いものになりません。
仕事における教育とは何かを、一言でいうと

 仕事は積み上げるものである

ということです。
今までの経験や知識を総動員して、現在の仕事に生かすこと。
「ああ、これはあの時のあれと同じ考えですね」と相手が言ってくれると、積み上がってるなーって思います。こういうときは、忙しい時期でも元気が出ます。
逆にぼくの方が「おいおい、あの時のあれと同じにやってくれればいいんだよ」とケチをつけなくちゃならないと、積み上がった気がしなくてがっかりします。疲れがドッと出ちゃいます。

さて、では仕事を積み上げるためにはどうすればいいか。
ぼくの尊敬する国語教師、野口芳宏さんは

 経験は意図的に積まねばならない

と言います。
つまり、ただのんべんだらりと時間を過ごしたのでは、本当の経験にはならないのです。
技術者の実力を示す公式があります。

 実力=知識×(経験)^2

もちろんこの式の経験は、意図的な経験のことです。
意図的な経験は、実力に二乗で効いてくるわけです。
知識が0というのも困りものですが、意図的な経験は知識も増強してくれます。
知識に裏打ちされていない経験は、やはり脆弱なものでしかないからです。
同じく、経験に裏打ちされた知識は、強力なものになります。

経験を意図的に積むためには何をすればいいでしょうか。
それは「反省」する、ことだと思います。
失敗したらその原因をとことん考え、次に生かす。
成功してもその原因を分析し、自分の技になるまで高める。

反省するためには、失敗したときでも成功したときでも、その経緯、個々の要素をこと細かく記憶しておく必要がある。
物事を厳しく視てそれを脳にインプットしていく。
インプットされた記憶と結果を照合させることなしに、分析はできません。
そしてその分析結果を元にして、次に経験することをデザインするんです。
その意味で、意図的な経験とは人為的なものなんだと思うのです。待っているだけじゃダメなんです。
それが、経験を意図的に積む方法なんです。

きちんと記憶し、知識化された経験は、次に活きます。
失敗した経験は、同様な失敗を繰り返すことを防ぎます。
成功した経験は、再度の成功へと導きます。

さて、このコラムでぼくの一番言いたいこと。
経験を意図的に積み、仕事を積み上げていっていい仕事をするためには、

 記憶力を鍛えておけ

です。
いい仕事をする人はすべからく記憶力が抜群です。
これは間違いないです。
ビルゲイツの記憶力のすごさは有名です。
ぼくも仕事でたまに高級官僚の人と打ち合わせる機会がありますが、その記憶力は尊敬に値します。
彼らはその記憶力を活用してバリバリ仕事を進めているわけです。

最近の学校教育の風潮では、記憶力は軽視されているように思います。
暗記して何になる、暗記しても役に立たない。
確かに学校で習うことを暗記しただけじゃ、役に立ちません。
暗記したものを応用することができないと意味がない。
でも、応用は学校で教育しづらい、不可能なものです。
それはやっぱり社会に出て、現実に仕事をしてみないと磨かれない能力です。
だから、学校ではその前段となる部分を鍛えているのだ、と考えるといい。

入試でも暗記問題が出題されます。
青色LEDの発明者中村修二さんは「入試はちょーウルトラクイズだ」なんて言っています。
でも中村さんにしても、あの膨大な著作を次々と出版しているのを読めば、ものすごい記憶力の持ち主だと分かります。日亜であったことを事細かに記憶しているから、ねちねちとあれだけのものが書き続けられる。
もちろん、青色LEDを発明するのだって中村さんの全くの独創ではなく、過去のいろいろな研究者たちの研究結果の上に成し遂げられたものでしょう。
また、毎日の実験で失敗したこと、成功したことを反省して、次の実験をデザインする。
つまり、ちゃんと必要なものは記憶して、その上に自分の研究を積み上げることができたから、青色LEDを発明することができたんだと思います。

入試で記憶力が試されるのはなぜか。
記憶力に長けた学生を入学させたい、記憶する回路を脳に持った学生を入学させたい、という趣旨で暗記問題が出題されるのだと思うのです。
記憶力は学問を積み上げていくのに必要な能力と認めていたのだと思います。
それが、暗記学習の<立法事実>だったのだと、ぼくは思うのです。

学生諸君、暗記をバカにせず、記憶力を鍛えておきなさい!

人のせいにするな

こんにちは

昨日ははからずも久しぶりに、ぼくのよく怒る(笑)元上司と一緒に仕事をしました。
やっぱり怒っていました(再び、笑)。
やっぱり尊敬できる人です。
その怒り方がいい。
事実に基づいて怒るからです。
あの時はこういう議論だったはずだ、ここを確認することになっていたはずだ、とちゃんと記憶しているんです。
だからそう言われちゃうと、相手もたじたじ。
記憶力がいいから、仕事も積み上がっていくって見本ですね。

で、変な言い訳する人がいるんですよ。
「○○がやってくれないんですよ」なんてね。
あちゃー、ってぼくは思います。
人のせいにするなよー。
案の定「じゃあ、ちゃんと締め切りを約束してあったのか!」ってカミナリが落ちちゃいました。

誰かに仕事をパスするのはいいことです。
分業しているんだから。
でも仕事って完徹してこそ仕事たり得るわけです。
締め切りをきちんと合意して約束する。
約束は果たす。
約束を果たしてもらうために努力する。
催促したり、手伝ったり。
どこがネックになって約束が守られなくなっているのか、サポートする。

約束が守られないのは、それなりの理由があるわけです。
指示が明確じゃないとか、理不尽な依頼だったりとか、相手の立場を無視しているとか。
約束を守ってもらうために自分ができることはないのかどうか考えることが大切だと思います。

それでも約束が守られないことだって時々はあります。
そう言うとき、ぼくは仕方ないから自分でやってしまいます。
人のせいにするなんてみっともないもんね。
とにかく、自分の約束は果たそうと努力します。

そういうことを抜きに、誰かのせいにするような「言い訳」をするのでは、とてもプロとは言えません。
返って信頼を無くしてしまいます。
たとえ完璧なものはできなくたって、自分なりのベストを尽くした方が、気分いいもん。

謝るだけじゃいけません

こんにちは

同僚にいつも「すみません、すみません」と謝ってばかりの青年がいます。
隣の元気のいい女性職員から「コラ、今は謝る時じゃない!」なんてさらに叱られたりして。
見ていてとても微笑ましい。

悪いことをしたとき、迷惑をかけたとき、すぐきちんと謝ることは大切です。
謝らずに頑なに自分の非を認めようとしない人は、世間から受け入れられなくなっていくのは当然です。
でも謝ってばかりいる人も、何かが欠けているようにも思います。
すみませんの言葉が、軽く聞こえてしまうのです。
なぜでしょうか。

それは、謝ってばかりいる人は謝ることが目的になっているように思えるからです。
悪いことをしたとき、迷惑をかけたとき、謝りさえすればいいと思っているようなんです。
謝ればとりあえず許してくれるから謝っておこう、という安易な気持ちが透けて見えてしまうのです。

謝ることが目的になってしまっている人は、再び同じような失敗をおかします。
行動が変わらないからです。
同じ人が同じ失敗をした場合、前よりもっと叱られます。
再犯ですからねー。
するとさらにすみません、すみませんとペコペコ謝るようになってしまうのです。

悪いことをしたとき、迷惑をかけたとき、一番大事なのは「行動を変える」ということです。
同様な失敗を避けるように、自分の行動パターンを変えていく。
そうすれば、次からは同じことで失敗はしなくなります。
行動を変えない限り、失敗は繰り返されます。
同じような失敗を繰り返していたら、信用は失われていき、ただただペコペコと謝るだけの人生に陥ってしまうのです。

誰にでも失敗はあります。
特に若いときは失敗だらけです。
でも初めての失敗には、世間はある程度寛容です。
失敗を恐れて縮こまってしまうのも困ります。
失敗を恐れずチャレンジして、それで失敗したらきちんと謝る。
そして行動を変えていき、同様な失敗を繰り返さない。
徐々にでも、謝らなくてもいい人間に成長していかなくちゃ。

謝ることは、実は「これから行動を変えていきます」という宣言であるべきなんですよね。
だから謝ってお終いにしてはいけないんです。
謝ることは目的ではなく、自分の行動を変えていくきっかけ、手段なんです。
そこを間違えてはいけません。

肩書きも使いよう

こんにちは

ぼくは普段、肩書きを意識しないで仕事をしています。
もちろん自分は肩書き以上のことをしていると思っていますが、でも肩書きにとらわれて何かやっているという意識はまったくありません。
なので、名刺にも肩書きは記載していませんし、初対面の時の挨拶でも肩書きを添えることはまずありません。
肩書きなんかなくても通用する仕事をしたいと、強く思っているからです。
しばらく一緒に仕事をしたり、打ち合わせをすれば、お互いのレベルは分かるものです。
また、相手のレベルが分かる人と仕事をしていきたいと願っているからです。

でも、あえて肩書き、役職を言う時もあります。
それはぼくの役職が有利に働くときです。
交渉時に役職を気にする相手の場合、使っちゃったりするんですよ。
はっきり言うと「こわっぱ役人」と交渉する時ですね。
つまり、普段から肩書き、役職で仕事を気にしながら仕事をしている人です。

先日も、新しい実験棟を造るための事前協議に、県の出先機関に相談に行きました。
出先機関の担当の人が、いかにも肩書きを気にしそうなタイプだった。
「理研本所施設企画課課長代理の関口です」と挨拶しました。
これでつかみはオッケーなんです。

お役人の世界では、課長補佐、課長代理という肩書きは、フロントマンとして最高位の職位だという暗黙知があります。
実務を取り仕切っている役職で、権限もかなりある。
しかも本省、本所の所属であれば、さらに権限がある。
そういう人が交渉に来た、と誤解してもらえるんです。

さらに、年齢と肩書きの関係にも暗黙知がある。
定年間近の課長代理だったら、中級職のあがりの地位。
まだ若い課長代理だったら、まだまだこれから偉くなる人。
ぼくは実年齢の割に顔に皺もなく白髪も少ないので若く見える(年齢不詳?)。
もしかして偉くなる人?
そう誤解してくれるんですよ。

県の出先機関でも、たぶんこの戦術は成功しました。
相談事もじっくりと聞いてもらえました。
交渉もぼくらに有利に進めることができたんです。
やっぱりそれなりの人が交渉に来たと思われなければ、軽くあしらわれることだってありますからね。
ありがたや、ありがたや。

まー、我が社の課長代理は年齢だけでなれる程度の肩書きなんですがねー。
ナイショだよ。
あはははは。

2008年9月10日水曜日

過剰品質に気をつけろ

こんにちは

ぼくの仕事は、研究所の電気設備や機械設備を作る仕事です。
仕事柄「過剰設備」には気を遣います。
過剰設備とは、必要以上の容量と品質を持つ設備のことです。
たとえば、700ルクスの照度が必要な実験室に、1万ルクスのシャンデリアを付けるようなこと。
つまり無駄な設備ですね。
でもあんまりギリギリに設計してしまうと、将来の拡張性がなくなってしまいます。
だからある程度の余裕は必要です。

技術者とは、右手に理想を、左手に現実を握りしめている存在です。
理想ばかり追い求めると、とんでもなく過剰なものを作ってしまいます。
予算だってオーバー。
逆にあんまり現実ばかり見ていると、つまらない仕事しかできません。
理想と現実のバランスを考えて、過剰にもならず将来への発展の可能性も残した設備にする。
余裕は見込みつつ過剰設備にはしないというのが、技術者の腕の見せ所なんです。
技術力のない技術者は、過剰設備を作りがちなんですよ。
それは自分の保身のため、安全側、安全側に作るからです。
こういう人は後で誰からも文句を言われないようにしたいだけなんです。
で、人の金を使って無駄なものを作っちゃうんですね。
「完璧に作ってくれ」なんて言う人は、それだけで技術力のない証拠なんです。
 
普段の仕事でも同じです。
能力のない人に限って完璧に仕事をしようとする。
それは誰からも文句が出ないようにしたいという、自己保身からなんですね。
その心がけはいいと思うんですが、それが過剰品質だって気づいていないんですね。
そして締め切り日を守れない、守らない。
困りもんです。
たいていの仕事は完璧にやる必要なんかないんです。
ポイントさえ外さなければ、60点の出来で十分。
相手の求める品質を見極め、求められているレベルにちょっと+αするのが一番喜ばれます。

和田秀樹・大塚寿『転職力』PHP\1300-を読みました。

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(略)「過剰品質」という概念である。
私(大塚)が最初にこの概念に触れたのは、アメリカのビジネス・スクール時代だった。「オーバー・クォリファイド」という表現なのだが、お約束のように頻繁に登場するのには驚いた。
点数が足りなくて落ちるのは当たり前だが、できすぎて落ちるのは納得がいかないと思う人は少なくないだろう。
しかし、人材獲得のための予算が決まっている以上、将来的に必要以上にコストがかかりそうな人材は採りたくないというのが企業の本音だ。
また、課長ポストの人間を取る場合に、部長よりも優秀な人材を採ってしまうと、組織になじまなくなる。それでは、その課長は本来の能力を発揮できなくなる。
人材としての優秀さだけではなく、組織全体のバランスも見ながら採用するために、過剰品質の人材は必要なくなるのである。
これが転職と受験との決定的な違いだ。(67p)
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設備だけじゃなくて人に対しても「過剰品質」という概念があるんですね。
そういえば最近やった仕事で、あるメーカーが配管清掃の人件費をひとり1日7万円で見積もってきて、ビックリしたことがありました。
いったいどんな偉い方に掃除をさせるのだろうか、って思ってしまいました。
ちなみに、技術者としての最高峰である技術士の標準人件費が技術士会で決められています。
それによれば、ひとり1日7万2千円です。
技術士並の人に清掃をさせちゃあ。。。ですよね。
高い人件費を取る人にはそれにふさわしい仕事をしていただかなくては、その人に失礼です。

学校に勤めているとき、教頭先生が校庭の草取りやゴミ焼きをしているのを見ました。
公務補さんがお休みしたときとかなら分かるのですが、毎日やっている。
教頭先生の人件費に見合った仕事なのかなあ、って疑問でした。

学校の入学試験なら100点なら文句なく合格ですが、企業の採用試験では100点の人は「過剰品質」となってしまうため落とされることもある、という話は面白い。
逆に採用される側の労働者から見ると、求められるに過不足ない、求められているレベルにちょっと+αだけの能力をプレゼンできると、採用されるってことですね。

小さく分割せよ

こんにちは

ぼくは仕事や勉強をする上で、以下を座右の銘?にしています。

 目標はでっかく、行動はちっちゃく

先ずは最終目標をしっかりと見据えて、ゴールしたときのイメージをなるべく明確にします。
今まで誰かがやったことのある仕事を応用しようと思うなら、既に完成品があるわけですから、それを見に行ったりします。
試験なら、実際の試験問題を数年分ざっと眺めてそのレベルを把握しておく。
完成型がしっかりイメージできたなら、目標にいたるまでの段取りを組みます。

その時、なるべく中間目標をたくさん見つけます。
たとえば報告書であれば、小見出しをたくさん付けます。
いつまでにここまで到達しよう、という小さな目標をたくさん作ります。

あとはこの中間目標を着々と確実にこなしていくだけです。
ただし、中間目標が的はずれでゴールとは全然違う方向に進んでいたなんていうこともありますから、ときどきは最終目標を再確認して進路が正しいかチェックすることも忘れない。
進路がずれているなと思ったら、段取りを組み直すわけです。

行動を小さくすると進捗管理がラクになります。
日本の鉄道が正確に定刻運転している理由がそこにあります。
日本の鉄道は駅間隔が短い。
それは日本の鉄道が元々、江戸時代の東海道など街道筋に沿って作られたからなんだそうです。
街道筋の宿場町は、やわな人でも一日で歩ける範囲、4里=16kmくらいごとにあった。
そこに駅を作っていったわけですから、駅の間隔は16kmくらいと短く設定できたわけです。
このくらい短い間隔なら、前の間隔でちょっと早すぎたら次の駅で停車時間をちょっと長くとって時間調整が可能です。
ちょっと遅くなったなら事故にならない程度スピードアップしたり、駅の停車時間をちょびっと短くして挽回する、という微調整がしやすいわけです。
仕事だって同じように、短い、小さな目標に分割して進捗管理する方がラクチンです。
ちょっと遅れたなと思ったら、次からの小目標で少しずつ挽回する。
ちょっと速く進んでいるなと思ったら、小休止だって取れるわけです。

そして、その細々した中間目標ごとに1%でもいいから自分の能力を高めようとします。
スピードを上げてみるとか、品質を上げてみるとか。
能力の向上というのは、「複利計算」で効いてくるもんだと思っています。
中間目標が20個でそれぞれで1%いい仕事ができたなら、1.01^20=1.22ですから22%もいい仕事になります。
中間目標が100個なら、1.01^100=2.7、ナント170%も向上するんです。

まあ、毎度毎度1%も向上するのは無理かもしれませんが、塵も積もれば山となるですね。
小さな成功を積み上げることが大事なんだと思います。
逆に、1%くらいならまあいいや、と思って99%の仕事を続けてしまうと、0.99^20=0.81、0.99^100=0.37という具合に、激減してしまいます。
だから1%でも向上するぞ、と思って毎回取り組むべきです。
でっかい目標だと時間も長くかかり、いい仕事をするぞ!というモチベーションも維持しにくい。
小さな目標、達成するまでの時間が短い目標なら、がんばる気も続きます。

田中耕一『生涯最高の失敗』朝日選書\1200-から引用します。

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よく、親戚・近所の人や大学までの私を知っている人から、そんなに気の強いほうではなかったおまえが、なんでこんなに変われたのか、と聞かれます。
考えてみると、こんなことかな、という気がします。
人間、自分がいま現在できることを100%として、それを実行しようとして失敗すると、落ち込みますよね。
そうすると、今度は90%くらいをめざして、それで良しとするようになってしまう。
でも、たとえ目標を90%に抑えても、やはり失敗することはあります。
失敗の原因は、かならずしも自分にあるわけではありませんから、目標を90%にしておいても、自分以外の要因で、うまくいかないことだってあるかもしれない。
すると、さらにめざすところを低く設定する・・・。
こういう良くない循環に陥ってしまう可能性があります。
とくに大学までの自分を含め、気の強くない人は、こんなふうになりやすいのではないでしょうか。
だからといって、はじめから200%あたりをめざしてみる。
それなら、たとえ目標を達成できなくても、ちょっと高望みしたから仕方ないな、と考えることができて、あんまり落ち込まないですみます。
ところが、120%だとたまに、できてしまうことがあります。
そのような経験を積み重ねていくと、いつのまにか、120%があたりまえになります。
それを繰り返していくと、120%から150%、200%へと、どんどん伸びることだってできる。
その結果、たとえば、いつのまにかこうやって、みなさんの前でも話せるようになります。
昔は「上がり症」で全然できなかったのに。(208-209p)
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やっぱり田中さんも小さな成功を積み上げてきたんだなって分かりました。
安易に妥協しないこと、そしてあまりにでっかい目標(叶わぬ夢)を設定しないこと。
でっかい目標は、小さな目標へと分割すること。
そしてその小さな目標をコツコツとコンスタントにこなし、積み上げていく。
毎回、ちょっとでもいいから能力を高めるような工夫をする。
そうすれば、毎回確実に目標に到達することができます。
そして自信も生まれ、性格さえも変わっていくんですね。

ぼくが本を読む理由

こんにちは

ぼくの職場内には紀伊国屋書店があります。
福利厚生施設の一環でしょうか。
本を読むのも仕事のうち、という人たちの多い職場だからでしょうか、たくさん売れるんでしょう。
1割引で本を買うことができます。
本好きのぼくにとって、とても恵まれたところです。
読みたい本を電子メールで注文して、毎月給料日に買いに行きます。
ぼくの毎月の本代は2万円から3万円の範囲ですね。
20冊程度でしょうか。
紙袋いっぱい、重さ5kg以上になります。

その紙袋をぶら下げてキャンパス内を歩いていたら、ある同僚に声をかけられました。

 ずいぶん本を読むんですね。
 関口さんは出張が多いですから、
 新幹線の中とか暇ですもんね。
 私は居眠りぐらいしかしませんけど。

むかーーーー!
暇だから読書しているってもの、まー半分はあたってるけど、それだけじゃないんだぜ。
居眠りと読書を同列にされちゃたまりません。
そこで怒っては大人げないので、にこやかに答えました。

 そうですねー。
 SPring8や神戸スパコンに出張すると、
 新幹線行き帰りで3,4冊は読めちゃいますからー。

我が心の師匠、尊敬する小学校教師である向山洋一さんはこう言います。

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子どもの責任にする教師は、いつまでも、技量が伸びない、伸びようがないのである。
だから、中堅、ヴェテランになって「子どもの責任、地域の責任、家庭の責任」にする教師は技量が低い。
また、そういう教師は研究もしないし、本も読まない。「他人の責任」にしていれば、勉強をする必要もない。
自分の責任として考えるから、何とかしようと思うから、研究もするし、本も読むのである。
『子どもを動かす法則』明治図書\920-14p
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上の文の「教師」を、ぼくの仕事である「技術者」と読み替えてもまったく成り立ちます。
それどころか事務職だろうと職人さんだろうと、どんな職業にだって当てはまります。
若い人ならともかく、30代、40代になっても、他人のせいにしているような人は、すべからく本を読んでいません。
自分の勉強不足を棚に上げて、ミスを他人の責任にして、自分は安全地帯にいるつもりになっている。
そんなの、見る人が見れば滑稽なだけです。

常に問題意識を持っていること。
その解決方法をいつも考えていること。
これが自分の技量を上げるために必要なことです。
そのために本を読むんです。
本を読めば、問題となっていることを見えてきます。
本を読めば、解決方法へと導いてくれます。

向山さんは「ひとかどの人間になりたければ給料の5%は本を買え」と言っています。
ぼくは師匠の言うことは忠実に守ることにしているので、20代の頃からこれを実践しています。
普通、年齢と共に給料は上がっていきます。
だから、歳を取るほどたくさん本を読まなくちゃいけないってことなんですね。
若い頃よりももっと本を読み、勉強しなくちゃいけないんです。
そうじゃなきゃ、くだらないおっさんに成り果ててしまうのです。

今日も地球シミュレータセンターまで出張です。
今日もたっぷり本が読めそうです。
わくわくして、カバンの中に買ったばかりの本を2冊詰め込みました。

なぜ勉強し続けるのか

こんにちは

先日X線自由電子レーザー推進本部の事務室に立ち寄ったら、作業机の上に「安全評価委員会資料」というのが置いてありました。
その日に行われる放射線の安全に関する委員会の資料でした。
パラパラと読んでみました。
安全性を評価するための難しい計算式がズラズラと書いてあります。
ところが意外や意外、スラスラと読み進めることができました。
嬉しいですねー。

ぼくは今年も第1種放射線主任者国家試験を受験しようと思っています。
昼休みに脳センターや仁科センターの友人たちと勉強会を継続しています。
もちろん、暇を見つけては毎日(土日を除く)30分でもいいから自学もしています。

資料をスラスラ読み進めることができて、ぼくのこの分野の基礎も大分身についてきたと実感しました。
もしかしたら今年は合格できるかも!

さてさて、福田和也『岐路に立つ君へ--価値ある人生のために』小学館文庫\476-にこんなことが書いてありました。
ちょっと長いけど引用しますね。

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どんな人間を投資価値があると、会社は思うか。
それは「能力がある人間だ」と一般には考えられるね。
では、会社にとって、「能力」というのは何だろう。
そういうと、これは学生だけでなくて、大学の先生方もおかしがちな間違いなんだけれど、すぐに、具体的な能力、つまりは「資格」とか「スキル(技量、熟練)」とかを頭に浮かべがちだ。
ところが、ことはさほど単純ではない。
たとえば、簿記の一級とか英検の一級というような資格は、就職に際して有利だと云われているし、実際そうであるらしい。
では、このような資格は、なぜ有利なのか。どこを企業側は評価しているのか。
そんなのは、簿記や英語ができるということにきまっているだろう、と君は云うかもしれない。
でも、そうじゃないんだね。
いや、もちろん簿記や英語ができることも大事だろうが、そんなことは会社の都合にとっては小さいものにすぎない。
英語なんて、今時いくらでも使い手が余っているんだからね、必要なら、人材会社からの派遣でいくらでも雇えるんだ。
社員の採用という、数億円規模の投資を、そんな安い能力のために左右させたりはしない。
では、何が問題なのか。
それは「習得能力」なんだね。
つまり会社が英検や簿記の資格を評価するというのは、その資格取得者が、そういった試験に向けてこつこつと勉強をし、努力を重ね、困難な試験を通る、スキルと試験技術にかかわる高い習得能力をもっているということを意味している。
そういった高い習得能力を持った人間は、会社が要求する、さまざまな分野にかかわる知識、技術をすみやかかつ確実に習得しうるであろう、と期待を抱かせるわけだ。
だから、帰国子女が英検一級をとっていても、それほど高くは評価されない。
それはこつこつ机の前で勉強して獲得したものである、とは受け取られないからだ。
これは、学歴の問題も同じだね。
偏差値の高い大学の、よい成績の学生を企業がますます好む傾向にあるのも、業務での新しい知識の習得が加速度的に必要になるにつれて、受験勉強のような、長期的で、困難な知識・技術の習得を勝ち抜いてきた学生には相応の習得能力がある、と考えているからだね。
つまり、企業が評価するのは、学生が、現在、即戦力としてもっている能力よりも、むしろ潜在的な能力、ポテンシャルとしての「習得能力」であるということだ。(p82-85)
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資格試験や受験の勉強は、それ自体が役に立つだけではなく、新しいことへのチャレンジ精神、新しいことを習得する能力、地道な努力を継続できる能力といった<内部ポテンシャル>を伸ばすためにも有効なんですね。
そして、難度の高い資格試験に合格したり、難関学校に入学できたということを、社会や世間が評価してくれるのは、その内部ポテンシャルが高いことを認めてくれるってことなんです。
<<帰国子女が英検一級をとっていても、それほど高くは評価されない>>っていうのが面白いですね。
英語圏で育った人なら、特に努力しなくても英検1級くらい合格できるからね。
それでは内部ポテンシャルが高いとは認めてくれないわけです。

ぼくもこれまでたくさんの資格試験に挑戦してきました。
もちろんその資格が今の仕事にも役立っています。
それに増して、ぼく自身の内部ポテンシャルを上げてくれたと自負しています。

これからも勉強をし続けていきたいと思っています。
まー、勉強することは楽しいことだしねー。

人はうぬぼれているものである

こんにちは

仕事で特別高圧変電所を造った時、経済産業省の技官による安全管理審査ってのを受けました。
高い電圧、大容量の設備なので、法令や基準に従って適切に造られているかどうかを、国が審査するわけです。
ぼくは電気主任技術者でしたので、フロントに立って経済局の検査官に説明をしました。

安全管理審査の受検はぼくにとって初めての経験でしたので、ちょっとあがってしまいました。
ぼくって見た目よりは神経細やかだから。。。なんちゃって。
ちょっとあがっちゃってたので、後から考えると「こう言えばもっと上手く説明できたのに」とか「あそこはこう説明すればよかった」などと思うところばかりでした。反省。
自分ではもっとしっかりと説明できると思っていたんですがねえ。。。
まあ、それがぼくの<実力>だったんだから仕方ないんだけどね。

ぼくの尊敬する数少ない教師のひとりである向山洋一さんから、こんな話を聞いたことがあります。

 ある先生の研究授業を見たときに、その先生の授業を
  「上手いな」と思ったら、その先生の実力は自分よりかなり上、
   「自分と同じくらいだ」と思っても、自分より上、
    「下手だな」と思ったとしても、自分と実力は同じくらいなものだ。

他人の仕事を見てへたくそだと思ったとして、自分で実際にやってみると、あんがいその人より上手くはできないものです。
人間って普通、他人の実力をその人の本当の実力より2割くらいは見くびっているものなんですよ。
それに加え、自分の実力は2割増しでうぬぼれている。
つまり、自分の意識の上では4割ものギャップがあるわけです。
他人の仕事への評価が厳しくなってしまいがちなのは、こういう心理なんだと思います。

よく他人の仕事にケチばかり付けているおっさんがいます。
じゃあその人自身の仕事はどんなだというと、大したことはやっていない。
このおっさん、<うぬぼれ度>が高いんですよ。
自分の本当の実力よりも2割どころか5割も10割もうぬぼれている。
こういうおっさんに限って、他人を5割も10割も見くびっていたりして、ギャップが大きくなってますね。
そういうおっさんに「文句付けるなら自分でやってみたら?」と言っても絶対にやらなかったりして。
自分の本当の実力が白日の下にさらされるのが怖いんですよ、きっと。

<本当の実力より、自分は2割り増しで、他人は2割引で思いがちだ>という法則を、ぼくはいつも意識していたいと思っています。
自分の等身大の実力を把握しつつ、少しでも実力を伸ばすようにしたいと思っています。
へんに傲慢になって他人をバカにしたりしないように。
ぜーったい、上に書いたようなアホなおっさんにならないように。

まー、尊敬に値する人を観察すると適度にうぬぼれていたりすることは確実で、うぬぼれることも自分を伸ばすコツでもあるとも思いますがねー。

礼儀はオトク

こんにちは

先日、次世代スパコン建設工事 http://www.nsc.riken.jp/index_j.html を担当してくれる技術者の方たちを、先行施設である地球シミュレーターセンター http://www.es.jamstec.go.jp/index.html に案内しました。

なぜ案内するか。
一つは、今自分がやっている仕事の意義を理解してもらいたいからです。
国家プロジェクトの一翼を担っているわけですから、自分たちがどこを分担し、何に貢献すればプロジェクトが支障なく進むのかを知る。
大きな円の円弧を描け、ってことですね。
自分たちのやる仕事の意義が分かると、仕事に愛着が湧きます。
愛着がある仕事には誇りが生まれ、いい結果へと導きます。
地球シミュレーターは2年半もの期間世界1位だったスパコンですから、この施設をじっくり案内し、これから作ろうとしている施設のイメージを持ってもらいました。

二つめは完成型を見てもらうこと。
完成した建物を見れば、どの程度の出来上がりを要求されているのか一目瞭然です。
プロの施工者なら、完成型を見ただけで施工全体が見えるんですよ。
何をどうやっていけば最終的にこうなるか、分かるんですね。
言葉や図面では伝えきれないことを、実物で伝えることができる。
だからぼくは既存の施設を見てもらうことはとても大切なことだと思っているのです。
大規模施設の施工はこんな風にやってもらいたい、ということを示したかったのです。

というわけで、いい仕事をするためには以下が重要だとぼくは思っています。

 ・自分の仕事の意義を知ること
 ・完成型をイメージすること

ぼく自身、そうするように努めています。
意義を知るためには自分の仕事の範囲だけではなく、その周辺部も理解する。
そうやって自分たちの仕事を造り上げていこうと思っているのです。

地球シミュレータセンターは海洋研究開発機構さん http://www.jamstec.go.jp/j/ が管理運用する施設です。
見学させてもらうにも、あまり無理も言えません。
相手方のお邪魔にならないようにしなくてはなりません。

武光誠『昔、日本人は「しつけ名人」だった』サンマーク出版\1300-から引用します。

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「礼儀」は、良い人間関係をつくるものである。
それは、自分と接する人間を尊重し、相手を立てて謙る動作を基本とするものである。
会うたびに互いにあいさつを交わしている親近感がわく相手が、自分にとって大して負担にならない頼みごとをしてきたと仮定しよう。
ふつうの人は、相手の喜ぶ顔が見たいのでそれに応じるだろう。
しかし、顔を見たことはあるが、いつも不機嫌な表情であいさつもしない者の頼みは、聞きたくないだろう。
不機嫌な人間は煙たがられる。(185p)
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幸いにして海洋機構さんの電気主任技術者である方とぼくとは、数年来の知り合いです。
お互い、技術情報をやりとりしている仲間です。
そういう縁がありましたから、今回の見学も快く引き受けてもらえました。
建物の床下などディープな部分までじっくりと案内してくれました。
ありがたいことです。

ぼくは、お世話になったら必ずお礼をすることは欠かさないようにしています。
機会があれば、ぼくの方で役に立つことがあれば協力する。
もちろん、何かお願いするときも相手の大きな負担にならないよう気をつけています。
そういう礼儀は欠かさない。

そんな積み重ねが、Give and Takeの関係を築いていくんだと思います。
そしてそれは結局、お互いオトクなことなんだと思っています。

専門家になるための読書法

こんにちは

自分で言うのも何ですが、ぼくは読書家です。
常に本を読んでいる。
ちょっとしたスキマ時間があれば、本を読んでいます。
そのために、カバンに数冊、職場に数冊、トイレに数冊、居間に数冊、寝床に数冊、と言った具合に本が置いてある。
それらを平行して読んでいます。
なのでちょっと散らかり気味。
女房に「片付けなさいよ!」なんて叱られることもありますけどね。
あははははは。

基本的には雑読で、いろんなジャンルの本をあれこれ読んでいます。
でもその中には系統だって読んでいる本だってあるんです。
それは専門家になるための読書。

尊敬する科学史学者の板倉聖宣さんは言います。

 ある分野の専門家になるためには
 本を10万円買いなさい

同じようなことをロケット博士糸川英夫さんも言っています。

 ある分野のプロになりたければ
 その分野の本を20冊読めばよい

専門書はだいたい5000円くらいしますから、20冊読むと10万円になります。
このくらい読むと、その分野のプロになれるというわけです。
プロ中のプロのお二人がほぼ同じことを言っているので、信頼性は高い法則だと思います。

本というのはこれまでの科学、技術、経験、文化、歴史などがぎゅーっと詰まっているものです。
それらが著者の視点でコンパクトにまとめられている。
もちろん専門書を執筆するのは、その道のプロです。
プロの知恵を素早く手に入れるには、本を読むのが一番です。
自分の狭い経験だけでは得られない知識を得ることができます。
経験だけの人は、たいしたことがない。
実力=知識×経験^2ですから、しっかりとした知識がないと、いくら経験を積んでも実力はあがらないのです。

なのでぼくは、板倉さんや糸川さんの言うとおり実践しているのです。
ぼくが実践した感触では、

・10万円の1/3、3万円分くらい読むと、プロの話す内容が理解できてくる
・10万円の2/3、6万円分くらい読むと、相手が本物のプロかニセモノか判別できるようになってくる
・10万円読むと、自分でその分野の仕事を牽引していけるようになる。論文を書けるようになる。

です。

ぼくがこれまでの人生で最も集中して勉強したのは、第2種電気主任技術者試験を受験したときですね。
この時は1年間で10万円分の本を読破しました。
その成果があって一発合格。
今はそれなりにプロらしい仕事ができていると自負しています。

そして現在、ぼくが目指している分野は制御工学。
SPring8に建設中のX線自由電子レーザー施設で、縁あって制御グループの人たちと一緒に仕事ができることになりました。
この分野はほぼ素人状態でした。
最初は打ち合わせに出ても、ちんぷんかんぷん。
ちょうど今、3万円分、7冊この分野の本を読破しました。
ようやく、議論に参加できる程度になってきました。

経営学入門

こんにちは

ぼくの仕事のひとつは、研究施設の建設工事の監督員です。
設計者や施工者の人たちと打ち合わせたり、現場を見て適切に工事がなされているか監督する仕事です。
施工会社の窓口となる「現場代理人」と打ち合わせを行います。

ぼくが今の仕事に就いた頃、10年ちょい前は、現場代理人はぼくより年齢が上で、かつ経験豊かな方が多かったので、ぼくが教えてもらう方が多かったです。
でも今は現場代理人の方がぼくより若く、ぼくの方が知識も経験も多くなってきたので、たまに仕事の基本みたいなことを講釈するなんてことも必要になってきました。

現場代理人とは誰の代理かというと、施工会社の社長の代理なんです。
工事は会社から離れた場所で、自律的に行っていく必要があります。
社長が直接指揮命令していくことはできません。
だからその代理として現場に配置されるのが、現場代理人なんです。
社長の代理なんですから、経営感覚を持っていなければならないのは当然です。
経営学の基礎的なことくらいは知っておかないと、いい仕事はできません。
若い現場代理人さんに、以下のような話をしてみました。

この世の中のものはすべからく、次のような値段の内訳になっています。

 1.≒1/3が原材料費
 2.≒1/3が直接人件費
 3.≒1/3が管理費

100万円で売っている品物があったら、だいたい33万円が原材料費で、33万円がその品物を作るために直接的に必要な労働者の賃金で、残りの33万円がその品物を作るために間接的に必要な費用、事務所費とか倉庫の費用とか購買や経理の人、いわゆる間接部門の人件費ということになります。
受注額100万円の電気工事で言えば、33万円が電線など材料費、33万円が職人さんの賃金、残りが現場代理人の給料や事務所のレンタル費、本社の経費などになります。
実際、マクドナルドの100円ハンバーガーだって、原価は30円程度なんです。残りの30円~40円が、お店の店員さんの賃金やレンタル料、光熱費、そのまた残りの30円が本社経費なのです。

上の3区分の中に利益は直接的に見えていませんよね。
どんな仕事でも利益は出さなくてはいけません。
利益が出ないと、仕事は継続していけないからです。
では、利益はどこで出したらいいのでしょうか。

1の原材料費を節約するのも大切です。
仕入れ方法を大口契約にするなど合理化して、すこしでも安くする。
あるいは、原料の一部をほぼ同じ性能で値段の安い代替品に変えて、コストを下げる。

ただし、原材料費を節約するのはとても大変です。
この部分で大きな利益幅を稼ぐことは不可能といっていい。
この部分はお客さんに直接渡すものですから、ちょっとでも質が下がるとクレームが来ます。
ハンバーガーの肉の質が落ちれば、不味くなります。
電線を安物にすると、事故の危険性が高くなります。

最近廃業した船場吉兆もそうですね。
原料費を大幅にカットするために、お客さんの食べ残しの使い回しをしたわけです。
こういうことをすると、一時的に利益は出ますが、会社は継続できなくなるリスクを背負います。
結果としてお客さんは離れて行ってしまい、廃業に追い込まれてしまいます。

余談ですが、船場吉兆の場合、直接的に被害を受けたお客さんはいないようです。
食中毒などになった人もいないようですし、料理は美味しかったそうですから。
なので、品位の問題なんでしょうね。詐欺って言うべきかな。

飲食店では普通、作った料理の25%もの量が残飯となってしまうそうです。
とてももったいないですね。
ぼくならもらって帰りますよ。他のお客さんが残したものだって。
アメリカやヨーロッパには「フリーガン」と呼ばれる人が増えているそうです。

レストランなどで、手もつけられず捨てられる食べ物をただで、あるいは安くもらってきて、それを食べて暮らしている。
だからといって乞食なような人ではなく、ちゃんとした社会人。
エコロジーのために、残飯を食べている人たちです。
ぼくもそういう暮らし、憧れちゃいます。
まして吉兆のような高級料理なら、喜んでもらいますよ。
ともかく、船場吉兆は不当なやり方で利益を上げていたのが問題だったわけです。

原材料費のカットは、とても難しい。
どの会社も1%でも2%でも節約できないか、常に考えています。
大きくカットして利益を出すなんてことは、とても出来ない相談なのです。
ですから、この部分をケチってしまうのは危険。
船場吉兆の二の舞になってしまいます。

次の直接人件費も節約は難しい。
船場吉兆で言えば、料理人さんや仲居さんの人件費です。
ここも味やサービスに直接響いてくるところですので、お客さんの目は厳しいところ。
いくら安い給料でも、未熟な料理人をつかったら、ろくな料理はできないでしょう。
アルバイトで雇った未熟な仲居さんにサービスされたお客さんは、やっぱり不快になります。
結果としてお客さんは離れていってしまいます。
船場吉兆だって、この部分はケチってはいなかったようです。

工事で言えば、職人さんですね。
へたくそな職人さんでは、やり直しになっちゃうかもしれません。
完成後、事故や不具合が多くなってしまうかもしれません。
やっぱりそれなりの賃金を払ってでも、腕のいい職人さんを使った方が得です。

直接人件費を大きくカットして利益を出すなんてことは、とても出来ない相談なのです。
ですから、この部分もケチってしまうのは危険。
もちろん、職人さんの遊び時間、待ち時間が発生しないように、工程管理はしっかりやらないとだめですよ。
無駄な労務費は、利益を圧迫します。

じゃあ残るは管理費です。
ここが一番節約代があるんですよ。
でもここを節約するのは勇気がいるんです。
なぜなら、管理費には現場代理人や現場スタッフの賃金も含まれているからです。
人間は、自分だけは得したいと思う存在ですからね。
自分に関係した部分をカットするのは、とてもつらいわけです。

だいたいアホな経営者は、会社が傾きかけているのに自分の給料はそのままで、安い原料を使っちゃったり、下請けメーカーを買いたたいていじめたりしますよね。
そんなことは長続きしないんです。
自分の不都合を他人に押しつけて解決するような経営者では、遅かれ早かれ倒産してしまうのが当然です。

話を戻して、利益を出すポイントはいかに管理費を節約できるか、です。
この部分はお客さんに直接提供されるサービスではないので、お客さんからクレームがくることはまずありません。
その意味で、安心して節約しましょう。
それに、この部分は自分の努力で成果が上がる部分なのです。
不都合を他人に押しつける必要がない。
無駄な費用を自分だちが使っていないか、現場代理人の仕事はそこから始まると思います。

なーんて、ちょっと理想論かもね。

安心は一番のサービス

こんにちは

部下や一緒に仕事をする人たちに、メールの返事はすぐするように、と強制しています。
「了解」「読んだ」だけでもいいから、レスポンスする。
合わせて、トピックスがあったときも即メールするようにと。
「上手くいった」「失敗した」というような。
もちろん、部下などへ言うだけではなく、ぼく自身も実践しています。

レスポンスをよくすると、安心感を得られます。
たとえ「失敗した」というネガティブな情報でも、素早く連絡があれば、初動を早くできるようにもなります。
困った事態でも対応が早ければ、被害の拡大を防げ、安心することができます。

ぼくは

 一番のサービスはお客さんを安心させること

だと思っています。
客とは狭義な意味ではなく、自分と関わるすべての人という意味です。
家族だって含めてもいいでしょう。
これらの人たちに安心感を与えられるから、協力もしてくれるから仕事はスムーズに進むし、自分のやりたいことがよりやりやすくなっていく。
不安にさせられたら誰だって協力しようなんて思えないですからね。
不安が募ると「不信」にもなってしまいます。
そこまでいく前に不安感を取り去ること、なるべく不安を与えないことが大切だと思っています。

『致知』'07.11月号に、住宅メーカーの営業マンの田中敏則さんのインタビューが載っていました。

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営業のプロとして、絶対に貫いていただきたいのは、お客様の不安感を速やかに解消してさし上げるということです。
お客様はその節目節目において常に不安感とか、不信感を抱かれるものです。
住宅で申しますと、着工、竣工、契約、後はメンテナンスなどいろんな節目がございます。
そこでお客様が抱いておられる不安感を、速やかに解消してさし上げるのが、プロとしての道であると私は思っております。
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田中さんは口べたな営業マンだそうですが、安心感を客に売ることによって、住宅も月3棟コンスタントに売れるのだそうです。
田中さんの営業のコツも「安心感」。
安心感を与えるために、田中さんもマメにお客さんと連絡を取り合うそうです。

お客さんからクレームが来る前に、「どうですか?」と電話を入れる。
何か不具合があっても、先に聞いてもらえると言いやすいし安心ですよね。
安心をもらったお客さんが、知り合いを紹介してくれる。そういうお客さんの連鎖ができるので、売れ続けていくわけです。

お客さんがクレームをつけるときは、たいていガマンにガマンを重ねてもうこれ以上ガマンできないレベルまで不満がたまったときです。
こうなってしまうととても感情的になってしまい、必要以上に完璧に直してもらわないと気が済まなくなる。
よけいなコストもかかってしまいます。
その上、完璧に直したとしても、そんなの当たり前、とお客さんは思っている。
罪悪感も残り、やり甲斐もありません。

それが先に聞いてもらうと、あああそこがちょっと、なんて言ってくれる。
それに即対応すれば、必要以上に完璧にすることもありませんから、コストもかかりません。
それに加えて、クレームどころか感謝さえしてくれるんですよね。
こっちも気分良く、とてもオトクです。

節目節目にお客さんに声をかける。
もし不安に思っていることがあったら、すぐに解決するために動く。
ぼくも真似していきたいと思います。

今でも躾中

こんにちは

ぼくも<不惑>と言われる年齢になっちゃいましたが、あまり不惑って感じはしないですね。
やっぱりあれこれ悩んだり迷ったりすることも多いんです。
それでも、悩みがあるから成長もあるんだって、ある程度達観できるようになったのは、歳を取った効用かもしれません。

最近思うのは、どんな人でも、いくら外から見た感じが陽気で順風満帆な人だって、迷ったり悩んだりしてるんだよな、ってこと。
若い人だけじゃなく、地位や名誉もあって堂々としているように見える人たちだって、迷いや悩みをなんとかやりすごしたり、うまく付き合っているだけなんじゃないかって。

槇村さとる『イマジン・ノート』集英社文庫\514-から引用します。

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(略)言葉がイヤにつかえて、失語症のようになる時。食べ物の味がしない時。
かかってきた電話に出られない時。
ゴミがたまって部屋がちらかりすぎている時。
こういう時は、私の心がSOSの信号を出している時だとだんだん解ってきた。
「あーやだ、疲れた!あの人キライ!」という風にストレートに自分の心が解らなかった私は、こういう信号が出た時は心が危機なんだ---と覚えていくしかなかった。
だらしない自分を責めるよりまず、許す。
甘えさせ、休養する。
それからひとつずつ、ステップバイステップで片づける。
ゴミ出し。掃除。片付け。電話。非礼をわびる。
ひとつひとつのことにいちいち重りがついているみたいで、やるのが大変だけど、やる。
やれた。ホッ。
できた時のホッとした感じを大事に覚えて、次は、自分からサッサとやれるね?とはげます。
まるで子供の話みたいだけど、違います。いい大人になってからこんなことしてました、私。
自分で自分をしつけ直す。
例えばきれいに食事をする。とか、遅刻をしない。とか、猫背ガニ股で歩かない。とか。
直すのは時間がかかるけれど、人に命令されてやるわけではない。
自分の好みの自分に、しつけて、成っていくことだから、深い喜びがある。(p101-102)
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悩んだり迷ったりしても、ただそこでうろうろウジウジして無為に時間を浪費するのではなく、なんとかしようと少しでも行動する。
「不惑」って悩まない年齢ってわけじゃなくて、悩んでも何とかしていくだけの「技」が身につく年齢なんじゃないかって、この頃思います。

悩まない人は感受性もなくなっている人です。
人生、前向きに積極的に生きていれば、必ず迷ったり悩んだりすることにぶち当たるのは当然です。
そうじゃないとしたら、自分の固い殻の中にとどまり続けて、周りをシャットアウトしているってことだからね。

ひとつずつ、ステップバイステップで片付けていく。
やれてホッとする。
次はサッサとやる。
そういうことを積み重ねて、自分で自分を躾けていく。
何歳になってもそれができる人間で、ぼくもあり続けたいなって思っています。

発信するから受信もできる

こんにちは

技術系の勉強会に参加したら、必ず面白かったことを一つ二つレポートにまとめ、技術者仲間に送るようにしています。
勉強会に参加するだけだとすぐ忘れちゃうことでも、自分の言葉で書いてまとめてみると確実に記憶に残ります。
それどころか、自分の血肉になっていざというときに活用できるようになるんです。
活用できない技術なんか、ちっとも意味のないものだと思うのです。
先日もこんなレポートを書いて、技術者仲間にメールしました。

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昨日、三菱電機さんの技術講習会ってのに行ってきました。
一つのお題は「配電用変圧器の保守」。
そこで学んだこと(勝手に考えたこと)を記します。

電機品に限らず、すべてのものの寿命は、

 ・熱劣化
 ・機械的劣化

の二つで決まります。
このどちらか劣化が早いほうで機器寿命は決まる。
トランスなど静止機は、熱劣化の方が早いのは当然。

で、どの部分の熱劣化が重要かといえば、絶縁物です。
油入トランスなら絶縁油の温度、モールドトランスなら樹脂材の温度です。
絶縁油の最高使用温度は90℃だったかな。
樹脂材はF種なら140℃でしょうか。

油入トランスだったら定格負荷での温度上昇を50℃、モールドは100℃としていると思います。
だから最高使用温度-温度上昇が、最高室温となるわけです。
最高室内温度は40℃ってのが普通。

で、それ以上の温度になったら寿命はどのくらい縮むのか。
講師の方が以下の概数を教えてくれました。

 油入 6deg上昇で寿命は半分
 モールド 10deg上昇で寿命は半分

これを聞いて、さっそく式を立ててみました。
寿命なんだから、対数関数に決まっている、と予想。
寿命を計算する式を

 寿命=1-a*log(使用絶縁物温度÷定格使用絶縁物温度)
             
             注;温度は絶対温度

と置き、上の寿命が半分になる温度上昇から係数aを求めます。
定格使用温度を切りのいいところで室温27℃(=300K)とし、6deg上昇(=306K)、10deg上昇(=310K)を代入します。
ホントは絶縁物温度とするのが正しいのですが、室温と絶縁物温度はほぼ比例していると仮定しても、大きく間違えないでしょう。
すると、

 油入 
  寿命=1-58.1*(使用温度÷300K)

 モールド
  寿命=1-35.1*(使用温度÷300k)

となります。

実際に数字を代入してみましょう。
使用温度が定格使用温度より1deg高くなる(=301K)と、

 油入の寿命=0.92
 モールドの寿命=0.95

になります。
3deg高くなる(=303k)と、

 油入の寿命=0.75
 モールドの寿命=0.85

にもなります。
結構寿命が短くなりますね。
だから、温度管理は大切なんですね。

トランスの温度管理は、
 ・最高室温(最高温度、日最高温度)
 ・年平均室温
 ・巻き線温度
の三つを管理できるようにしておくのがよいそうです。
この三つの総合で、トランスの寿命も決まってくるそうです。

逆に1deg低くなる(=299K)と、

 油入の寿命=1.08
 モールドの寿命=1.05

になります。
3deg低くなる(=297k)と、

 油入の寿命=1.25
 モールドの寿命=1.15

にもなります。
ですから、放熱をよくしてやることが大事だと分かります。

トランスを丸ごとキュービクルに入れるのではなく、危険な導電部や駆動部だけキャビネットに入れ、トランス本体はむき出しにした「パッドマウント方式」というのもあるそうです。
モールドの場合、絶縁物も帯電していることがありますから、フェンスや金網で保護する必要はありますけどね。
でも、なるべく放熱をよくする方法は検討すべきだと思っています。
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これを読んだ仲間からコメントか帰ってきました。
「関口君、対数関数じゃないよ、指数関数でしょ」
あ、そうですそうです。
熱劣化のように、温度が上がれば上がるほど劣化が早まるんですから、指数関数の方が実態を表しやすいはず。
生命体の寿命のように「慣れ」が存在するものは、対数関数の方がよく合うんでしたね。
まあ、大雑把には原点近くのリニアな部分での議論でいいので、どっちだっていい。
なんて、苦しい言い訳。
リニアな部分の議論でいいなら、一次関数で近似してもいいんだしね。
参考となる資料を送ってくれた仲間もいました。
ありがたい、ありがたい。
この資料によるとANSI(American National Standards Institute)では、確かに指数関数ですね。

これもぼくが発信したから、情報を受け取れたってことだと思っています。
情報は待っているだけじゃダメなんです。
こうしてまた一つ、ぼくの腕は上がったってわけです。
わはははは。

2008年9月7日日曜日

その人自身に興味を持つ

こんにちは
 
ぼくらのスパコン施設は、世界一のスーパーコンピューターを収容するための機能だけじゃなく、それにふさわしいデザインを追求してきました。
設計者の人たちと議論を重ね、ようやく満足できるレベルまで仕上がってきました。
役員や文科省の方々からもよい評価をいただけました。
ある役員からは「理研の建物らしからぬものになるね」との言葉もいただきました。
でも理事長から「もう少し文化の香りのするものになるといいね」とコメントが。
そこで、東京芸大の先生にアドバイスをいただくことになったんです。
 
先日、芸大の先生が建設現場に来てくださいました。
ぼくもご挨拶して名刺交換。
そしてすぐ電子メールを送りました。
 
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尾登様、たほ様

理研施設企画課設備係長関口です。
先日は暑い中神戸スパコン現場へご足労いただき、大変ありがとうございました。
世界一のスパコン施設にふさわしいデザインとなるよう、ご協力よろしくお願いします。

尾登さんの著書『色彩楽のすすめ』、アマゾンで注文しました。
勉強させていただきます。
たほさんのホームページ、見せていただきました。
Mist Fountainに興味を持ちました。どういう仕組み?

お時間のありますときにでも、ぼくの人となりについて、以下を読んでいただければ嬉しいです。
http://www.riken.jp/r-world/info/release/news/1998/feb/index.html

ぼくは20代の頃、北海道で小学校で教師をしていたんですよ。

たほさんも元は栄養士さんだったのですか。
それから美術の世界へ転身したんですね。
とてもユニークな経歴、素晴らしい!

では、今後ともよろしくお願いします。
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ぼくは誰かと一緒に仕事を始めることになったとき、その人がどんな人なのか、どういう仕事をしてきたのか、どういう考えをする人なのかなどを調べてみることにしています。
ホームページを調べたり、著書を読んでみたり。
その人自身に興味があるんですよ。
だって、仕事は人、じゃないですか。
その人が面白い人じゃなくちゃ、いい仕事にはなりません。
そのことを電子メールで伝えます。
さっそくたほ教授から返事がきました。

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関口さま
たほです。
ご連絡をありがとうございました。

北海道の小学校で先生をされていたとのこと、
こころ暖まる自己紹介を読ませていただきました。
どうもありがとうございました。
廃校になる小学校が多い今日この頃、
地域と小学校について改めて考えさせられます。

子供時代の体験は人生に大きな影響をもつものです。
理研が将来的に展開していく用地の環境は
10年程度の仮設的なものであるかも知れませんが、
人生においては、十分に影響力をもつ時間です。

先端的なすばらしい研究がおおなわれる理研、
世界に誇るスパコン、その施設が、
周囲に殺伐とした環境や風景をつくるとしたら
何のためにスパコンがあるのかわからなくなりますね。

長いようで短い人生、人との出会いを大切に
いい仕事をしたいと思います。

よろしくお願いいたします。
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よし、第1弾はクリア、いいスタートが切れました。
きっとよいコラボレートができると期待しています。

藤巻幸夫『勝ちたければ現場をつかめ!』きこ書房\1200-から引用します。

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デザイナーと対面したときでも、藤巻はデザインを見る前に本人に目を向ける。

「デザインしてもらった洋服はひとまず置いといて、ところでどこで生まれたの?どんな本読んだ?(略)」とばんばん尋ねていく。
もちろん刑事の尋問じゃないから、世間話の中にまぶして聞いていく。
どうしてこんなことをするかというと、人には歴史があるからだ。
だれしも過去の積み重ねのうえにいま現在がある。
いまだけを見ても本質はつかめない。(126p)
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相手のことをよく知るためには、自分のこともよく知ってもらう必要があると思っています。
自分がどんな人生を歩んできたのか、今どんなことを思い、取り組んでいるのか。

こっちが積極的に発信していかない限り、相手から引き出すことはできないと思うのです。
相手にぼくのことを興味を持ってもらう。
面白そうな奴だなって思ってもらいたいのです。
そこからいいアウトプットも生まれてくると思うのです。
そのための一つの手段がこの「ゴミメール」でもあるんです。

2008年9月6日土曜日

安心は笑顔から

こんにちは

いくつになっても悩みや迷いはある、と書きました。
結構たくさんの人から同感という返事をもらいました。
60歳を過ぎた方からも、60歳過ぎたって迷いはある、って。
ふーん、みんなそうなんだー。
ちょっと安心。

悩むこと、迷うことは、成長のタネだと思います。
大いに悩みましょう、迷いましょう。
でも、デキル人は悩んでいるようにも迷っているようにも、ちっとも見えないよね。
だからって、悩んでいないわけじゃない。
やっぱりデキル人だって、悩んでいるし、迷っている。
だってそうじゃなきゃ、できる人にはなれないはずだもん。
じゃあ、なぜそう見えないのか。

デキル人は、明るく朗らかです。
悩みなんかないかのようです。
牛尾治朗『男たちの詩』致知出版\1500-に、建築家安藤忠雄さんとの対談が載っていました。
安藤さんもとても明るい人です。
そのひみつが書いてありました。

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明るくいくということは大事でしてね。
建築は、設計する僕よりも施主のほうが不安なんですよ。
建てて会社が傾かんか、家を建てたけどローンは返せるだろうか、使いにくくて家族が文句を言うのではないか、というようなことも含めましてね。
だから、その不安な施主の前で設計者まで不安な顔をしておったらどないすんねんと。
自信がなくても、とにかく全力投球でやっていったらそれなりの顔になるだろう、と思ってきてやってきたわけですね。
だから修業時代からきょうまでずっと、僕は全力投球でやってきたわけです。(40p)
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さすが安藤さん、「安心は一番のサービス」を実践しているんですね。
明るくすることによってお客さんに安心感を与えているんです。
だから、「演出された明るさ」ということでもあるんですね。
目の前で、悩んだり迷ったりする姿を見せられちゃ、お客さんだって不安になりますよ。
不安になれば、信頼もできないのは当然です。

悩んでいる姿、迷っている姿を人に見せるのはかっこ悪いよね。
ぼくも若いときは、悩んでいる姿、迷っている姿をさらけ出していました。
悩むこと、迷うことも仕事のうち、と誤解していたのかもしれません。
一生懸命やっていることをアピールしているつもりだったのかもしれません。
でも悩んでいる、迷っているうちは、何もアウトプットしません。
アウトプットしないということは、仕事をしていることにはならないということです。

なので、悩んだり迷ったりすることは、本来バックヤードでやるべきことなんです。
バックヤードでしっかり悩み、迷い、その解決法を模索しておく。
そうすれば、仕事場ではすぐアウトプットすることができるってわけです。
お客さんの前で堂々と明るくいられます。
信頼も勝ち取れます。

悩むのは勤務時間外。
こういう節度が身についてきたのも、歳を取った効用かもね。

Bで行こう!

こんにちは

ぼくの職場でも人事評価制度ができて3年目になりました。
人事部から今年の目標管理表を提出するよう、お達しがありました。
今週も出張続きで忙しいので、持ち前の作文力を駆使してバリバリ書きました。

今年もやりたいことがいっぱいで、つい書き過ぎちゃいました。
A4用紙1枚にまとめる必要があるので、書きすぎた分を削らなきゃならない。
書く時間10分、削る時間20分。
なにやってんのじゃ、オレは~。

で、上司に提出して面談。
面談も5分間で終了。
今年も楽しくバリバリやりまっせー、ってことで。

面談の時、昨年度の評価結果も言い渡されました。
結果は「B」、一昨年と同じく「普通」ってことで。
まあ、普通で大満足なんですが、一昨年より昨年の方が数倍活躍したと思うんですがねー。
活躍しても評価が同じってどういうこと??

疑問に思って、所内ホームページにある人事部のページを見てみました。
どういう評価基準なんだろう(<-って今頃調べるなよって^^;)。
我が社の評価は5段階(SABCD)評価です。
それぞれの割合は、S5%、A5%、B80%、C5%、D5%だって。
あー、これじゃあちょっとがんばったくらいではSやAにはならないよねー。

我が社は中小企業ですから、ほとんどの職員は顔見知りです。
ぼくと同じ職種、事務支援系の職員数は100人程度。
ということは、S,A評価は10人くらい。
すぐ同僚の顔が思い浮かびました。
あいつとあいつとあいつはあんなに働かされているんだもん、いい評価くらいしてやらなくちゃかわいそうだよなー、なんて。
それを勝手気ままに自由に伸び伸び楽しく仕事させてもらっているぼくが、S,Aなんかもらっちゃ申し訳ないぜ。
同じく、あの人はC,Dだろうなーという10人くらいの人の顔も思い浮かんでしまいました。。。

B、つまり普通という評価が80%もある。
これはぼくにとって嬉しい制度です。
何やっても評価はB!
多少へまやっても、全然平気。
あの人とかあの人とかあの人くらいにヒドイことしなけりゃ、CやDにならないんです。
それなら失敗を恐れずもっと自由に伸び伸びやれるってことです。
ヤッター!

なーんてことを考えていたら、X線自由電子レーザーを一緒に造っている研究者の木村さんから、こんなメールが来ました。

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今回の加速器学会の発表ですが、大塚さんと相談した結果
以下の内容でポスター発表する事にしました。
著者ですが、播磨の木村、大塚さん、板倉さん、大島さんに
やはり、和光代表として関口さんにも入って頂きたいと考えて、
お名前を入れてエントリーしてしまいました(事後承諾で済みません)
どうぞご指導、ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。
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加速器学会に提出する論文の共著者の一人として、ぼくの名前を入れてくれるってことです。
嬉しいですねー。
もちろん、ぼくもぼくの分担する部分について執筆に協力しようと思っています。

というわけで、昨日も楽しい一日でした!

毒の排泄法

こんにちは

高校の生物で、腎臓の仕組みを習いました。
腎臓というところは、おしっこを作るところ。
おしっこは体の中の老廃物ですから、腎臓は老廃物をこし取る役目をしています。
そこまでは誰でも知ってますね。

まず血液は腎臓の糸球体(しきゅうたい)というところでこし取られます。
こし取られたものが、次に腎盂(じんう)というところに行きます。
すると、腎盂でまた再吸収されるんです。
しかも糸球体でこし取られたほとんどの量が、腎盂で血液中にまた吸収されちゃうんです。
再吸収されたわずかな残りが、おしっこになります。

これを習ったとき、「なんでこんな二度手間をかけるんだ?」と不思議でなりませんでした。
なんで一度にこし取っちゃわないのか。
糸球体でちゃんと老廃物だけこし取っちゃえば、一度で済むのに。
二度手間かける意義はあるのかって、不思議でした。

でも、人体はすばらしく合理的にできています。
なぜ糸球体と腎盂の二つが必要なのかは、次のような理由なのでした。

こし取るとは、いろんな大きさのものをふるいにかけて、小さいものと大きなものに分けることです。
老廃物が大きな分子だけだったら、あるいは小さな分子だけだったら、ふるいにかけるのは一度で済みます。
でも、老廃物が大きくもなく小さくもなく、中くらいの大きさだったらどうでしょうか。

まず、目の粗いふるいで大きなものだけ残します。
中くらいのものと小さなものは、ふるいを通過します。
これが糸球体の役目です。
大きなものとは、血液中の赤血球や白血球、血小板のようなもの。
あるいはタンパク質のような、まだ機能している物質。
これらまでこし取ってしまったら、意味がありません。

糸球体でこし取られた、中くらいのものと小さなものは腎盂に送られます。
今度はそれを、目の細かいふるいにかけます。
すると、中くらいのものが残って、小さなものが通過します。
小さなものは、ビタミンやミネラルなど、まだ体から捨てられないものです。
腎盂は、目の細かいふるいとして機能しているのです。

こうして、小さなものと大きなものは血液中に一緒に残し、中くらいのものだけをおしっことして捨てることができるのです。

腎臓もこういう仕組みだったんですね。
老廃物、尿素などは、血液中では中くらいの大きさの分子なんです。
それより大きなタンパク質のような必要なものは捨てたくない。
同じく、それより小さなミネラルのようなものも捨てたくない。
よって、2回ふるいにかけないとならないわけです。
糸球体と腎盂の2段階方式としているのは、こういうわけだったのです。

実際、毒物は肝臓で解毒されますが、肝臓は中くらいの大きさの分子に毒物を変換しているのです。
体内に入った毒は、大きな分子です。
また、毒物は脂溶性の分子が多く、水に溶けにくい。
それを、分子量300くらいの大きさに分解します。
それに水酸基(-OH)やカルボキシル基(-COOH)、アミノ基(-NH2)などをくっつけて、水に溶けやすくする。
こうやって毒物を中くらいの大きさ、水に溶ける状態にして、血液中に放流するのです。
それが腎臓にやってきて、上手くこし取られておしっことして排泄されるってわけです。

体って上手くできていますねー。

若者よ、謙遜なんかするんじゃない

こんにちは

論語にこんな一節があるそうです。

 冉求(ぜんきゅう)いわく、
  子の道を説(よろこ)ばざるにあらず、
  力足らざればなりと。

 子いわく、力足らざる者は中道にて廃す、
 今女(なんじ)は画(かぎ)れりと。

どういう意味かというと、

 冉求
 「私は、先生のお教えになることに強いあこがれを持っています。
  ただ、私の力の足りないのが残念でなりません。」

 孔子
 「おまえは、自分で自分の欠点を並べ立てて、自分の気休めにするつもり
  なのか。
  そんなことをする隙があったら、なぜもっと苦しんでみないのじゃ。
  お前は、本来自分にその力がないということを弁解がましくいっているが、

  ほんとうに力があるかないかは、努力してみた上でなければ
  わかるものではない。
  力のない者は途中でたおれる。
  たおれてはじめて力の足りなかったことが証明されるのじゃ。
  たおれもしないうちから、自分の力の足りないことを予定するのは、
  天に対する冒涜じゃ。
  なにが悪だといっても、まだ試してもみない自分の力を
  否定するほどの悪はない。
  それは生命そのものの否定を意味するからじゃ。
  しかし・・・お前は、まだ心からおまえ自身の力を否定しているのではない。

  おまえはそんなことをいってわしに弁解をするとともに、
  お前自身に弁解しているのじゃ。
  それがいけない。それがお前の一番の欠点じゃ。」
              下村湖人『論語物語』講談社学術文庫

孔子先生、います、いますよー、現代にも。
謙遜するフリして努力を放棄しているヤツ。

さすが、孔子様は弟子に厳しいですね。
努力もしないうちから「力が足りない」なんて言ってはいけない。
それは自分自身に弁解していることなんだ。
自分に弁解することによって努力することを避けているんだ。
とにかくやってみろ。苦しんでみろって。

謙遜って、ホントに実力がある人じゃなくっちゃ意味がないんですよね。
実力があるのにそれを誇示せずにサラリと謙ってみせるから、カッコイイ。
そこを間違えちゃいけない。
実力がない者は変に謙遜しなくたって、見りゃわかるって実力がないの。
わざわざ自分で言う必要はない。

自分で言っちゃうのは、人から言われる前に自分で言っちゃった方が恥かかなくて済むと思うからなんですよね。
ぼくも若いときはそうでした。
でもそれが努力を放棄する言い訳になっちゃって、成長を阻害することも多いと思うのです。
だから、特に若いときは謙遜なんかしない方がいい。
自分の非力をかみしめて、一歩ずつ努力を積み重ねていく。

ぼくもまだまだ若いつもり。
謙遜なんかしませんぜ!

愛こそすべて

こんにちは

ぼくはエネルギー管理士でもあります。
エネルギーを大量に使う工場などでは、無駄にエネルギーを使わないように管理をする技術者を置くように法律で定められています。
エネルギー管理士は、主に熱を専門にする免許と、電気を専門にする免許があります。
いつも「ぼくに専門はない。その時々興味をもったこと、やらねばならないことが専門じゃ」なんて豪語していますので、エネルギー管理士免許も熱、電気両方取得しました。
ぼくはその免許を活かして、理研の全国の事業所の省エネ計画に参画しています。

6月は経済省に提出する定期報告書の提出期限なので、今月は精力的に各所を回りました。
理研のようにエネルギーをたくさん使う事業所は、年1%以上の省エネをすることが法律で定められています。
今のところ努力義務なんですが、やっぱり達成した方がよいものです。
各所回ってみて、達成できている所とできていない所がありました。
その違いも見えてきました。

達成できていない事業所は、この時期しか省エネの仕事をしていないようなんです。
報告書を経済省に提出する必要があるから、この時期になって慌てて省エネ活動をするという感じ。
省エネは日常的にやらないと、効果の上がらないものです。
年間通じて、エネルギーの使用状況をチェックし、無駄なところはないか、削減できるところはないか、改修できるところはないか検討を続ける。
そうやってやっと1%削減できるような、地道な仕事なんです。
それを定期報告前1,2ヶ月でやろうとしても、無理に決まっています。

日常活動をしていないということは、日常的に現場を見ていないということでもあります。
施設の運転員の人たちとも話をしていない。
報告書を作ればいいと考えているから、運転員の人からデータだけもらってそれを転記しているだけ。
なので、データーの意味、意義が理解されていない。
日常的に運転員の人たちとお話ししたり、一緒に現場を回っていれば、もっと省エネネタを見つけられるはずです。
また、運転員の人たちがどんな仕事をしていて、何に悩んでいるかもわかる。
ぼくは書類チェックだけではなく、必ず現場周りもして、設備の運転状況や利用状況も確認するようにしています。
省エネに関するアドバイスもできるようにです。

ある事業所で現場周りをしたとき、ボイラー室前のマンホールから蒸気がもくもくと上がっているのを発見しました。
これは何だ?
さっそく運転員の人に話を聞き、ボイラー室を見せてもらいました。
ボイラー室に入ってみると、還水槽のオーバーブロー管から蒸気が漏れているのがわかりました。
明らかに不具合、エネルギーの損失です。
運転員の人によると、かなり前からこういう状態とのこと。
すぐ、修理依頼をしてもらいました。

この事業所は省エネ削減目標が達成されていませんでした。
蒸気漏れがその原因とは思いませんが、日常的に現場を見ていない、運転員の人たちと話をしていないことが典型的に現れてしまったのだと思います。

省エネ目標が達成された事業所は、ぼくが現場周りをしても機械室や電気室がよくメンテされているのがわかります。
運転員の人たちの話を聞いても、省エネ担当者と日常的によく打ち合わせがされているのがわかります。
だから、目標が達成されるんだと思います。

ちゃんと運営がされている施設には、「愛」を感じるんですよ。
その仕事に愛を持って関わっている人がいるかどうか、現場を見るとわかる。
愛があるからマメに現場を見に行く。
愛があるからマメに運転員の人たちと話をする。

好きな人とは毎日でも会いたい。
仕事だってそれと同じなんだと思います。
どんな仕事でも、日常とリンクが切れてしまうと上手くいかないものだと思います。
好きなら会いたくなるのが人間です。
愛がないと、義務のあるときしか会わなくなってしまうものです。
いい結果を導くかどうか、それが決めるのだと思います。

自由とは束縛でもある

こんにちは

職場のテクニシャンの人からこんなメールをもらいました。

> デグー部屋の防音箱下の床が沈んでいる問題の件ですが、
> 9日に補強が完了しました。
> 相談に乗っていただきましてありがとうございました。
> とても助かりました。

嬉しいですねー。
自分のやったことが役に立ったことが嬉しい。
もちろん、ぼく一人で相談に乗ったわけじゃありません。
直接相談されたのはぼくですが、同じ課の建築担当の人と一緒に現地を見て、対策を考えたのです。
一人で考えることなんか限りがあります。
答えを持っている人を適切に選んで頼めるのも、技術者の腕だと思っています。

「自由」という言葉があります。
自由を、誰にも束縛されずに自分の好きなことができること、と誤解している若者が多いように思います。
実は、束縛のないところに自由はないんですよ。

ちょっと前、秋葉原で信じられないような事件がありました。
歩行者天国にトラックで突っ込み、ナイフで誰彼かまわず刺していった。
事件後の報道によると、この犯人は親からも見捨てられ、仕事からも排除され、恋人もいないという、よのなかとのつながりが切れてしまった人物のようです。
つまり、誰からの束縛もなかった。
でも、そこには自由もなかった。
彼に残された「自由」は、悲惨な事件を起こすようなことだけになってしまっていたんだと思います。

京都大学教授の中西輝政さんの本の受け売りなんですが、自由を意味するフリーの言語のゲルマン語「プリー」には「自ら属するもの」という意味があるそうです。
だから、「自由」というのは「帰属する集団」があって初めて成り立つものなんです。
自分が安心して身を置ける場所、人たちがいてこそ、自分の好きなこと、やりたいこともできる。
逆に言うと、自分の好きなこと、やりたいことをやるためには、自分の身の置き場が確実にあることが必要なんです。

でも、どんな人でも身の置き場があるかというと、そうじゃありません。
やっぱりその場、その集団に無くてはならない人、役に立つ人じゃないと認めてくれません。
それは一見「束縛」されることでもあるんです。

日垣隆『学校がアホらしいキミへ』大和書房\1200-にもこうありました。

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あらゆる動物がそうであるように、親から子は「自立」しなくてはいけないけれど、周囲の友人や知人や先輩たちには、逆にたくさん「依存」できる人が賢い。
役に立たない者や、おもしろくないやつは、長く依存させてもらえない。(29p)
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自立と依存は表裏一体のものなんですね。
同じく、自由と束縛も表裏一体のものなんだと思います。
何かの役に立つことが、自由への最短距離なんです。
役に立つことの中には、おもしろくてみんなを笑わせたり和ませたりすることも含まれます。
何らかの形で、集団に貢献することが必要なんです。

それができた人は、依存でき、多少の甘えたことだって許してもらえる。
同じことをやっても、あいつならしょうがないかー、なんて言ってもらえる。
多少羽目を外しても、笑って許される。
自分の好きなこと、やりたいこともやれるようになり、自由度が上がる。
それは常日頃、集団に貢献しているから許されるんだと思います。

間違ってもらっちゃ困るのは、貢献が先なんです。
よのなかに束縛されることが先なんです。
若い人にはちょっとうっとうしいことかもしれませんが、束縛の中でみんなのために貢献していき、少しずつ自分のクレジットレベル(信用度)を上げていく。
その積み重ねが、自分の好きなこと、やりたいことも認めてもらえるようになる。
これが自由への王道なんだと、ぼくは思っています。

学歴より学習歴

こんにちは

ある分野の専門書を10万円分読むと、その分野のプロになるための知識が身につきます。
10万円分の専門書は、だいたい20冊です。
この冊数は、大学の学部で使う教科書と同じくらいだと思います。
1年間1コマ4単位で1冊教科書をこなします。
学部の履修単位は60~80単位くらいだと思いますから、15コマ~20コマ。

だから15~20冊の教科書をこなしているのです。
ほぼ10万円分の教科書を勉強したわけなんです。
よって、学部卒なら専門的知識は一通りある、ということになります。
あとは経験を積めば、実力=知識×経験^2で身についていく、というわけです。

と言うのは簡単ですが、なかなか現実的には大学でそうきっちり勉強する学生がいるわけではありません。
なぜなら学生の頃はまだ人生の照準が定まっておらず、勉強に対するモチベーションもそれほど高いわけじゃないからです。
もっと目先の、卒業のため、就職のために勉強するっていうのが普通の学生なのかもしれませんね。

ぼくが第2種電気主任技術者試験を受験したとき、1年間で約10万円分の専門書を読破したことを自慢しました。
その時ぼくは、教育業界から技術屋へ転向することを決意した時期だったので、照準が定まっていた。
やるからにはシニアエンジニアになりたかったんです。
電験2種免許を持っていたら、活躍の場がとても広がりますからね。
ぼくは教育学部卒ですので、技術系の学歴はありません。
学歴が無くてもシニアエンジニアとして活躍するためには、電験免許は必須だったんです。
それに技術者としての地位や収入も保証されます。
だから1年間でそれだけの勉強を集中してできたんだと思います。
それが今のぼくの自信の源になっていることです。

牛尾治朗『男たちの詩』致知出版\1500-を読んだら、もっとすごい人がいました。
その人は、建築家の安藤忠雄さんです。
安藤さんは学歴こそ高卒ですが、世界的建築家であり、東京大学大学院教授も務めた人です。
それだけの活躍をするためには、しっかりとした基礎知識を身に着けているはずです。
それをどうやって身に着けたのか。
安藤さんは19歳の時に大学4年分の勉強を1年で終えてやろうと、1年間一切外に出ないで勉強したんだそうです。

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毎朝9時から次の日の朝4時まで机に向かいました。
当時四当五落ということばがありましたてね。
睡眠時間4時間で頑張ったらいい大学に受かるけれども、5時間寝たら通らないという意味なんです。
その時僕は、京都大学と大阪大学の建築学科の本を買ってきて、自分も4時間しか寝ないぞと決めて、4月1日から翌年の3月末まで1年間、外に出ずに月月火水木金金で勉強した。
それをやったからといって、別に大学卒業の資格が得られる訳じゃありませんが、自分なりに、建築というのはこんなに難しいものなのかということが分かりましたし、ずっと勉強し続けなければいかんということも実感できましたから、収穫は大きかったと思うんです。(32p)
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さすがですねー。
ここまで勉強したら、並みの建築学科卒の人なんかとても及びません。
それどころか、一流設計会社の人や大学教授にも少しも怖じ気づかず、対等に渡り合えるはずです。

安藤さんは「ずっと勉強し続けなければいかん」と言っています。
これも、きっちり勉強したからこそ言えることなんですよね。
不勉強な人ほど、学び続ける意義がわからないんです。
勉強家は勉強の価値を知っているから、学び続けることができる。

ぼくも「理研の関口」程度に、あははは、一部で有名になってきたとは思いますが、まだまだですねー。
もっと活躍できるように、「世界の安藤」に少しでも近づけるよう、コツコツと勉強し続けていきたいと思います。

勝手に弟子入り

こんにちは

ぼくは年上だろうと年下だろうと、スゴイなあと思える人に出会うと、勝手に弟子入りしちゃいます。
実際に「師匠」と呼んでしまったりね。
で、その人のスゴイところを真似してみるんです。
実際にその人がやる方法をそのまま真似してみます。
自分で実際にやってみると、どこがどうスゴイのかが具体的に分かってきたりします。
具体的に理解できると、自分の「技」として身につきます。

先日ある会議に出席しました。
ほとんどの人は普段ぼくとつきあいのない人で、名前と顔が一致しない。
たまたま隣に座ったおじさんが、会議の出席者全員の名前を座席の配置通りにメモしていたんです。
出席者名簿は事前に配られていたのに、なぜわざわざ座席通りに名前をメモするのか。
そのおじさんを観察すると、誰かが発言するたびにそのメモを見ているんです。

そうやって顔と名前を一致させて覚えよう、ということだったんですね。
で、誰かの発言を受けてそのおじさんが発言するときは、相手の名前をちゃんと呼ぶんですよ。
早速、このおじさんを「名前覚えの師匠」と心に決め、ぼくも同じやり方を真似することにしました。

北野大『北野家の訓え』PHPエル新書\760-にこんなことが書いてありました。

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上の人と付き合うのは気後れもするし、緊張もするでしょう。
しかし、そこから学び取れるものは計り知れません。
気の置けない友人ももちろん大切ですが、時には、身を引き締めて、上の人に教えを請うことも必要です。
かつて、財団法人に勤めていた頃、上司は”弟子入り”ということをさかんに勧めていました。
「この人は尊敬できる」という人を見つけ、ライフスタイルすべてを、その人と同じようにすることで、内々に個人的に弟子入りする方法です。
着る物、読む本、何から何まですべて真似る。
そうして、自分をそのレベルまで高めるという方法です。(154p)
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ぼくもそうでしたが、若い時って理由がわからないとやる気にならなかったりします。
先輩や上司から言われたことを、訳も分からずやるのは嫌。
個性主義で育てられたからでしょうか。
でも先輩や上司はその理由までじっくり説明してくれるわけじゃありません。
そんな暇もないですし、すべてが言語化できるわけでもありませんから。
だから先ずはやってみる、真似してみることが大切なんですよね。

やっぱり目上の人は、師匠とするに足る人が多いわけです。
知識も経験も豊富。
時にうざったいことを言ってきたりして嫌なんですが(笑)、でも避けていては損なんですね。
いいなと思う人のやることだけじゃなくて、服装や持ち物など形式的なことまで真似してみる。
すごいと思った人には勝手に弟子入りし、よく観察して真似してみる。
そうすることでその人のスゴイ理由が分かってきて、自分にも同じスキルが身に着いてくるんだと思います。

恐い人は意外といい人

こんにちは

江戸時代、寺子屋の入学式は2月最初の午の日と決まっていたそうです(毎日新聞「余録06.02.05)。
江戸時代の川柳にこんなのが残っています。

 初午の日からおっかないものが増え

子どもにとって寺子屋の師匠は、おっかないものだったんでしょうね。
こんな川柳もあります。

 行きは牛帰りは馬の手習子

寺子屋に行くときは牛のようにダラダラと行く。
でも、帰るときは馬のように走ってしまう。
つまり子どもにとって寺子屋はあまり行きたくないところだった。
師匠がおっかなかったからです。

だからといって子どもは寺子屋が嫌いだったのかというと、そうじゃないと思うのです。
恐くて厳しいけど、自分を鍛えてくれる師匠がいる。
勉強が終わったときの晴れ晴れとした気分。
その嬉しい気分が、馬のように走って帰る行動に現れているんだと思います。

テリー伊藤『テリー伊藤の遊びベタのための成功法則』青春出版\1300-にこんなことが書いてありました。

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企業ってのは基本的に競争原理で動いているんだから、そこにいい人なんていらないんです。
いたら、おかしいぐらい。みんな、もっと嫌われなきゃいけない。
それに、嫌われるって意外とラクなんですよ。
だって、いい人だったら、ずっといい人でいなくちゃいけない。
そこからは、下がるしかないわけ。
それが嫌われていると、ちょっと人情味を見せただけで「アイツ、意外といいヤツだったんだ」って言われるんだから。(49p)
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そういえば、恐い先生、厳しい先生の方が、大人になってもよく覚えていますよね。
恐かったけど優しい先生だった、なんて。
恐い先生、厳しい先生の方が、後々まで「いい先生」として印象づけられています。
それはテリーさんの言うような「対比効果」だったんじゃないかと思うのです。


いつも厳しく恐い先生が、ごくごくたまーに優しくしてくれる。
これは子どもにとってすごく嬉しい。
いつもビシビシやっている先生が、ごくごくたまーに遊んでくれる。
子どもにこれ以上の喜びはないでしょう。
そして上手にできたとき、ごくごくたまにだけどほめてくれる。
子どもにとってこれほど嬉しいことはないはずです。

そう言えば、学年のはじめに「優しい」先生って、学年末に「鬼」に変わってしまうことが多かったようです。
学年はじめには、すごく丁寧に教えてくれる。
できない子ができるようになるまで、丁寧に教えてくれるし、できるまで待っていてくれる。
ところが学年末になると、終わらない教科書を「消化」するために、脱兎のごとく授業を進める。
すると、できない子は置いてけぼりになる。
そのまま学年末でタイムアウトで、置いてけぼりになったまま進級することになる。
次の学年ではもっと勉強がわからなくなり嫌いになるという悪循環です。

学年はじめの丁寧な授業は、あまり効率的でもないんです。
できない子にとって、いつまでも同じことばかりやらされるので、かなり嫌。
嫌々やるから、なかなかできるようにならないわけです。
それに、できる子はそんなのに付き合わされてもう飽き飽きしちゃう。
できる子にとってのろのろとした授業は退屈です。
必然的にダラダラした授業になってしまうわけです。

最初から鬼の先生はそうではありません。
ビシビシガンガン授業を進めるんです。
その緊張感で多くの子は必死にそれに着いていこうとします。
もちろん中にはできない子もいます。
でも鬼のような授業をすると、必然的にあとで時間に余裕ができるのです。
あまった時間で、できない子の指導ができるのです。
もしラッキーなことに、クラス全員ができるようになっていたなら、あまった時間は学級レクなど遊びに回せます。
すると、恐い先生は一転して優しい先生に変わってしまうのです。
「意外といい先生だったんだ」って。

これって子どもと先生だけの話じゃないですね。
社会人だって同じです。
厳しい上司も部下をよく育ててくれます。
ガンガン怒鳴っていても、その根底に部下への優しさが宿っているんです。
逆に優しいだけの上司は、本心は自信のなさだけだったりします。
自信がないから厳しくできないんです。

人生、メリハリなんですよね。
厳しくするときにはする。
そしていい結果を出したときに、共に喜ぶ。
ぼくもそうありたいと思っています。

雑用が活きる条件

こんにちは

ぼくの部下がまだ入社したての頃、こんなことがありました。
工事の打ち合わせを施工業者さんとしていました。
入社したてでちんぷんかんぷんかもしれないけど、部下も同席させました。
もちろん、教育目的です。
少しでも仕事の内容、仕事の仕方を覚えてほしいからです。

打ち合わせが一段落して、施工業者さんが缶コーヒーを出してくれました。
嬉しいですねー。
しゃべりまくって喉が渇いていたところなんです。
ちょっと一息ついて、缶コーヒーをみんなでごちそうになりました。

そしてまた打ち合わせを再開したときです。
入社したての部下が、飲み終わった空き缶を片付けしはじめたのです。
ぼくは烈火のごとく怒りましたねー。
「今君のやることはそんなことじゃない!」って。

  まだ打ち合わせ中なんだから、空き缶を片付けるのは後にしろ。
  今やらなくちゃならないことは、打ち合わせに集中することだ。
  分からないながらも、一つでも二つでも分かることを増やせ。
  分からないことがあったら、後で質問なりして自分を増やせ。

そんなことを言いました。

たぶん部下は、ただじっと打ち合わせの席に座っていることに耐えられなかったんでしょう。
何か自分ができる仕事はないか、考えていたのだと思います。
で、空き缶片付けをしはじめちゃった。
その気持ちはわかるけど、間違ったやり方だと思うわけです。

『イチロー北野武キャッチボール』ぴあ\1200-から引用します。
アメリカ人はドライだって言うけど、学ぶべきところもあるんですね。

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たけし (略)日本人はさ、人の仕事を手伝ったりするけれど、実はそいつ自身の仕事がおろそかになっていたりするんだよね。
そういうのじゃなくて、アメリカ人は自分の仕事をきっちりとやるっていうのが最優先なんだよね。
そういう体制っていうかさ。
責任がきっちりとしていてさ、人の仕事には他人が手を出しちゃいけないっていう風潮があるんだよな。
だからさ、そういう話とか知らないでオイラがアメリカに行ってみると、向こうの人たちが自分の仕事は責任を持ってすごい早さでやるから、驚いちゃったんだよ。
よくもまあ、あんなに働くなあって。(12p)
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雑用をするのは日本人の美徳でもあるんですが、雑用だけして仕事をした気になってしまっている人も結構いるんですよね。
忙しそうにしている人の中に、雑用だけの人がいたりします。
どうでもいい仕事を忙しそうにしている。
もしかしてそれは、自分は忙しく働いていますよ、というアピールなのかも。
あるいは、今忙しいから他の仕事は持ってこないでくれ、というアピールなのかもね。

確かに雑用を積極的にすると、みんなに喜んでもらえます。
だからぼくも雑用を軽んじているわけではありません。
むしろやるべきだと思っていて、自分でも実践しているつもりです。

でもやっぱり基本は、本来の仕事をきちっとすること。
そこがきちっとできてこそ、雑用が生きてくると思うのです。
本来の部分ができていないで雑用ばかりやっている人は、他人から見れば「雑用だけの人」として軽んじられてしまうわけです。
責任を持つべき本来の仕事がきちんとできていて雑用も積極的にやれば、それがより評価されるんです。
あるいは、本来の仕事を責任を持ってこなすから早く終わり、雑用をも引き受けるだけの余裕が生まれるんです。
そういうことを部下にも教えていきたいって思ったんです。

おどおどした青年への処方箋

こんにちは

職場の後輩に、なんかいっつもおどおどしている青年がいます。
なんでそんなにおどおどびくびくしてるんでしょうね。

ドメスティックバイオレンス(DV)、というものがあります。
家庭内暴力ですね。
夫(or妻^^;)が暴力をふるうことです。
DVで不思議なのは、暴力をふるわれる側があまりに従順なこと。
反抗などせず、暴力をふるわれるまま、おとなしいんです。
なぜか。
それは、DVおやじ(orおばはん^^;)は無原則、無規則に怒るからなんです。

怒られたからには、自分が悪いと思いこむのです。
やっぱり怒られたくないですから、怒られないように注意したいと思うのは当然です。でも無原則、無規則に怒られるので、自分のどこが悪かったのかわかりません。
何に注意しなければならないのか分からなくなり、四六時中緊張して不安な状態になってしまうものです。
DVを受ける側は常におどおどびくびくするようになる。
やがて無気力になり、相手の思うがままに従ってしまうようになるのです。

おどおど青年もこれと同じ心理なんだと思います。
まだ社会のルール、会社のルールが十分理解できていないために、しょっちゅう先輩や上司に怒られる。
なんで怒られたのかその原理が分からないので、何をするときでもまた怒られるのではないかという不安がココロを占領してしまうのです。
ココロに余裕がなくなっちゃうんですね。
そうすると集中力、注意力が散漫になり、ますます失敗をしてしまうのです。
あるいは、何に気をつければいいかわからないので、仕事の軽重が見分けられなくなり、どうでもいい仕事にまで時間と労力をつぎ込んでしまったりしてしまうのです。
何だかやたら残業が多い若者は、このトラップに陥っている可能性が高い。
ますます上司は怒り、青年はおどおどするようになる。

でも先輩や上司は、DVのように無原則、無規則に怒っているわけではないのです。
ちゃんとルールに従って、後輩、部下を指導するために怒っている。
だから、そのルールを理解するように努めればいいんです。

ルールが分かって来ると、どこに対しては十分な注意が必要か、どこならテキトーにかませるか、メリハリがつくようになります。
そうすれば、いつも緊張していなくてすみ、リラックスすることができるようになるのです。
ココロにゆとりが生まれ、いい仕事もできるようになる。
自信が生まれるから、行動もきびきびしてきて表情も明るくなる。
自分の後輩や部下がそこまで育ってくれたとき、先輩、上司は嬉しくなるものではないでしょうか。

時々、おどおどしっぱなしでおじさんと言われる年代まで来ちゃった人もたま~にいますね。
ルールを理解しない、理解できないまま歳を重ねてしまった場合です。
たま~にたま~にですが、ルールの存在自体を理解していない人もいたりして閉口します。
そんなルールあったの?みたいな。。。
職場の後輩にはそんなクソオヤジにはなってほしくないなーと願いつつ、今日もまた怒鳴りつけているのです。
わはははは。

40過ぎたら笑って生きろ

こんにちは

ある統計によると、社会人の職場外での平均学習時間は、たったの8分だそうです。
これじゃあ子どもに「勉強しなさい!」と言うのもはばかれますねー。
大人は意外と不勉強なのです。
平均は8分でも、おしなべて誰もが不勉強ってわけじゃない。
する人はするんです。
職場外でも自主的に勉強する人の平均学習時間は、なんと125分。
2時間以上勉強するんですね。
つまり、勉強する人はたくさんする、しない人はちーっともしないんです。

勉強の重要性にいつ気付くのかで学歴(学校歴)に差が付いちゃうのは確かです。
だから子どものときにしっかり勉強しておくことは、有利になります。
だから子どもに「しっかり勉強しなさい」ということは、間違いじゃない。
 
でも、それよりも大事なことがあります。
大人になっても、社会人になっても勉強し続ける、意図的に継続すること。
子どもの頃しっかり勉強して一流大学に入って一流会社に入ったとしても、そこがゴールじゃないんです。

たとえ一流大卒だとしても、学歴の神通力なんか卒業後せいぜい5年くらいで消えます。
卒業した後も、意図的、継続的に学び続けているかどうかで、その人の現在価値が決まってしまうのです。
学ぶことを止めたとき、人はあっという間に失速して墜落してしまいます。
ただし一流大卒の人は、既に学び続ける習慣と学ぶための技術が身についている場合も多いので、かなりのアドバンテージがあることは確かですケドね。
でも、学歴がない人だってあきらめずに学び続ければ、一流大卒だけど不勉強な人なんかいずれ抜き去ることだってできるんです。

「厄年」というのがあります。男は42歳前後でしょうか。
厄年は「役年」ともいいます。ワープロでもどちらもちゃんと変換されます。
厄年、役年というのは、この年齢で人間の価値がはっきりしてしまうということも示しているのです。
20代、30代を学び続け精進してきたかどうかが、42歳頃に世の中から評価されてしまう。
それが、厄年、役年の意味なんです。

学び続けて自らの能力を上げ、今なお学び続けて右肩あがりの人には42歳頃になると「役」が着く。
学ぶことを怠り、ただ今ある能力だけで過ごしてきた人は42歳頃になると「厄」が着いちゃうんです。
役というのは、社会的に評価される、ということです。
社会的に評価されないと、誰からも相手にされなくなってきて、つまらなくて嫌な仕事ばかりあてがわれ、精神も肉体も疲れ果てる。
すなわち、厄になっちゃう。

渡部昇一『思考の方法』海竜社\1400-から引用します。

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企業の経営者で忙しく働きづめなのに、なぜか楽しげな人がいる。
あるとき、そんなタイプの人に、「毎日毎日仕事で忙しく飛び回っているのに、よく陽気な顔をしていられるものですね。いろいろ心労も多いでしょうに」と言ってみたことがある。
すると、相手はこう言ったのである。
「いや、私は頭は使うけれども、神経は使いませんよ」
この答えに、私は心底感心してしまった。
ブツクサと不平不満をこぼして神経をすり減らすのと、不満の解消法を考えるのとでは、まったく違うということである。
不満に対して神経を使うのと頭を使うのとでは、天と地ほどの違いが出るのだ。
闇雲に心配するだけでは「考えた」ことにはならない。
あることに対してクヨクヨと心を悩ませていても、何の問題解決にもならない。
ところが、問題があればあるほど、その解決策を「考え」、問題点をさばいていくことに喜びを感じられるようになれば、どんなに忙しく、どんな困難な問題が生じてこようが、健康で陽気に生きていけるのだ。(23-24p)
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学び続けてきた人だからこそ、考える力が身についている。
考える力があるから、問題をザクザクとさばいていける。
そういう人だからこそ、健康で陽気に生きていける。
朗らかに笑顔で楽しそうにしていられる。
たとえ難問、困難があっても、解決できる見通しと自分への自信と信頼があるから、そんなに不安になることはない。
そういう人は、しっかりした人脈もありますから、助けたり助けられたりする。
それが「役」でもあるんですね。

反対に、厄が着いちゃった人はどうか。
考える力がないので、問題が片付かず、どんどんたまってしまう。
それが悩みになり、ブツクサ不平不満をこぼして神経をすり減らす。
不平不満は影で言うだけで、公の場ではじーっとおとなしくしているから、問題は解決しない。
すると陰気にもなり、どんよりとした顔つきになり、健康も損なわれていく。
人も離れていき、孤独になっていく。

厄年と役年、その差が明確になるのが42歳頃だというのは、人間の法則のようです。
これはいわゆる「役職」とはあまり関係がありません。
ほら、職場を見回してみてください。
40歳過ぎたおじさんを見比べてみてください。
ニコニコしている人と、暗い顔している人、はっきり二分されちゃっているのが分かるはずです。
立派な役職に就いていても厄が着いちゃっている人もいれば、役職はたいしたことがなくてもニコニコ元気な人もいる(<-オレ?あははは)。
その差は、学び続けているかどうかなんだと、ぼくは思っているのです。
そしてそうしていれば、いずれは世に出る、出世するんだと信じています。
 
X線自由電子レーザーニュースにコラムを寄稿しました。
写真もぼくが撮影したものです。
最近、ぼくもいろんなところから声がかかるようになってきましたよ。
ほらほら、「出世」しはじめましたぜー。
なんちゃってー。

2008年9月3日水曜日

35歳になったら専門家

こんにちは

一緒に仕事をしている人で、やたら謙る人っていますよね。
何を言うのでも「若輩者ですが」「経験が浅いもので」「不勉強でして」とマクラに付ける。
つきあい始めて日が浅いときならいいのですが、もう何度も打ち合わせで顔を見ているのに、その度にそんなことを言うから、ちょっと鬱陶しい。
もうお前の実力は分かっているんだ、若輩者で経験も浅い割に不勉強なのも知っている、だからいちいち言うな!
と、心の中で毒づきます。
そもそも謙遜というのは、実力のない者、特に若者は使っちゃいかんのですよ。

若者は未熟だというのは見れば分かりますから、わざわざ言わなくてもいい。
実力のない者がわざわざ謙ってみせることはありません。
本当に実力がある者が、ちょっと謙るのがかっこいいんです。
実力のある人が謙ると、反って自分をアピールするんですね。もっと実力があるように見えるわけです。
そういう戦略にも長けた人だけが、謙ってもいいんだと思います。

上原春男『成長するものだけが生き残る』サンマーク出版\1700-から引用します。

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土光(敏夫)氏と話すとき、私はいつも、「私のような若い者が言うのはおこがましいのですが」という前置きを口癖のように言っていました。
するとあるとき、土光氏は私にこうおっしゃいました。
「先生はいつも『私のような若い者が』と言われるが、先生はいくつですか」
私が35か6歳くらいのときでしたから、その旨答えると、土光氏は再度、「35歳は若いのですか」とたずねられるのです。
私は冗談半分に、「若いと思います、土光さんに比べれば・・・」と答えました。
すると土光氏は、にわかに鋭い目をして、

 「先生、それは間違っている。
  人間は30歳過ぎたら一人前です。
  30歳過ぎて若いなんて言ったらいかん。
  そう言うということは、わずかながらでも、
  責任逃れをしたいという気持ちの表れです」

となかば怒りながら、私をいさめられたのです。
そして、「いつもあなたは若いから、若いからと言うが、ここで一度、立場の違いや年齢差を忘れ、自分の言いたいことを遠慮なく、言いたいだけ言ってみなさい」と促されました。(67-68p)
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脳科学者の久保田競さんによると「21歳から35歳は、専門家脳を鍛える時期」なのだそうです。
20歳までに広く教養を学び、自分の適性を見つけ、自分の進む方向を定める。
そして21歳からはその方向へと、プロフェッショナルになるべく勉強を始めるわけです。

21歳から35歳までは肉体的にもタフな時期なので、徹夜仕事など無理も利く。
失敗してもある程度許される年代でもあるので、果敢なチャレンジもできます。
この時期に、楽しちゃいけません。
自分の限界ギリギリまでやらないと、自分の限界がわかりませんからね。
それにギリギリまでやるから、限界も伸びて、自分のキャパシティも大きくなる。
そうやって専門性を高めていけば、35歳を過ぎる頃には自他共に認める「専門家」になれるんだそうです。

土光さんの「30歳過ぎたら一人前」というのは、30歳にもなったら一人前になっていなくちゃいけない、という意味なんでしょうね。
もちろんTPOに合わせて謙るときも必要でしょうが、専門家同士対等に議論できなくちゃいけない。
そうでない奴はオレの前に来るな!と、土光さんは言っているのかもしれません。
土光さんって柔和なお顔をしていた記憶がありますが、とても厳しい方だったのが分かります。

ぼくは技術者としては遅れて出発しました。
30歳過ぎて転向しましたから、だいたい10年遅れですね。
そこから計算すると、ようやく大卒で35歳になった技術者と肩を並べられる年数になりました。
この間、先輩、上司にも恵まれて、鍛えられて、どうにか「専門家」と呼んでもらえるようになったかなーと、自負しています。

大きな円の円弧を描け

こんにちは

ぼくの仕事のひとつは、工事の監督員です。
時間と心に余裕のあるときは、決められた打ち合わせ時刻より早めに現場に行って、担当者の人たちと雑談をすることが好きです。
その雑談はたいてい、子どもの話や学生時代の話など、仕事とは直接関係しない話です。
でもやっぱりお互い同じ仕事に取り組んでいるもの同士ですから、仕事の話に飛ぶこともあります。
そういうときは、今の仕事のコンセプトを伝えるチャンスです。
ちゃんとした打ち合わせの時などフォーマルな場より、雑談の中から派生した場の方がよりよく伝わったりするんですよね。

今、SPring8キャンパス内にX線自由電子レーザー施設を建設しています。
http://www.riken.jp/XFEL/jpn/index.html
建屋工事もあと1年弱で完成です。
2年後の世界初のX線レーザーの発振を目指して、建屋工事もがんばっています。

先日も打ち合わせ前1時間くらい早く現地に着いたので、建築工事の事務所に行っておしゃべりをしました。
コーヒーなんかごちそうになったりしながら、例によって、子どもの話などどうでもいいような話を楽しんでいました。
その時現場所長さんが「ところで、X線自由電子レーザーって何なんですか。この工事に携わっていて恥ずかしいんですが、まだよくわからんのですわ。何に役立つんですか。パンフレットをもらって読んで理解しようとしているんですが、よくわからないんです」と言ったんです。
チャンスです。
もともと説明好きなぼくですから、このプロジェクトのメイン加速器を造っている新竹主任の作った放射光のシミュレーションソフト「Radiation2D( http://www-xfel.spring8.or.jp/ からダウンロードできます)」を見せたりして、説明しました。
難しそうな施設だけど、ラジオのアンテナから電波が出るのと同じ原理なんだ、なんてね。
だけど波長が短くてとても明るいから、原子1個まで見分けることができるようになる、などなど。

そしてぼくらの使命は、次の二つであることを説明しました。

・世界初の施設を造っているので、建設工事のせいで世界初を逃したと言われないようにすること
・実用機なので、数十年安定して使い続けられる建物とすること

現場所長さんは「だいぶんスッキリしてきました。私らのやることが分かってきました。面白味も感じてきましたよ」と言ってくれました。

イギリスの詩人ブラウニングの詩に、こういうフレーズがあるそうです。

 小さな円を描いて満足するより、
 大きな円の、
 その一部分である弧になれ
 (日野原重明『新生き方上手』103pからの孫引き)

所詮、個人の力はたかがしれています。
個人でできる仕事は限りがある。
一人で描く円は小さいものでしかありません。
大きな仕事、すなわち大きな円を描くのは、たくさんの人たちと一緒にやらないといけないのです。
大勢の力を合わせて描くしかない。
その時、それぞれの人がバラバラの中心点、半径で描いてしまったら、ちゃんとした円にはなりません。
また、描き始めと描き終わりの位置もきちんと把握しておかないと、誰かの描く線と重複してしまって無駄になったり、または不足する部分ができて切れ切れの円になってしまったりします。

だから、中心点をしっかりと決めてやること、半径をきちんと指し示してやること、始点と終点を明示してやることが、ぼくの仕事なんだと思っています。
そこがしっかりすれば、あとは任せても大丈夫。
それだけの技術、技量のある一流の人達なんですから。

逆に言えば、中心点、半径、始点と終点を理解してもらわないまま仕事を進めてしまうから、後になってトラブル続出になってしまうわけです。
そうなると、付きっきりで直さなくちゃならなくなる。
手間も増えるし、相手の自主性も阻害される。
お互いの意思が上手く伝わらず、疑心暗鬼のまま仕事を続けなくてはならない。
それじゃあいい仕事になるわけがありません。

ぼくらは一緒に大きな円を描いているんだという意識を持つことが大切です。
円を描くためのコンセプト、すなわち中心点と半径を把握し、共有しておくことは必須です。
今やっている仕事の何が中心点にあたり、何が半径に当たるのか。
そして自分たちは円のどこから描き始めてどこまで描けばいいのか。
そういった意識を常に持って事に当たることが、いい仕事を保証することになるんだとぼくは思っています。

予習の技術

こんにちは

先々週、職場で会計検査が行われました。
ぼくの勤務する理研は、大部分国からの税金で運営されています。
税金が適切に執行されているか、無駄、不正はないか、会計検査院の検査を受けることが法律で義務づけられているのです。

ぼくはこの検査が大好きなんです。
説明好きなのもあるし、ぼくの説明を納得してくれて、お金の使い方が正しいことをお墨付きをもらえる。
だから検査のご指名があったら張り切っちゃうのです。

会計検査だけではなく、どんな検査でも堂々と説明できることが大切です。
検査員の立場に立ってみれば、相手がおどおどしていたら、疑ってしまいたくもなります。
質問にすぐ答えられなかったら、本当に分かって仕事をしているのかな?と思ってしまうのも当然です。
出せと言った書類がなかなか出てこなかったら、何か隠し事をしているのではないかと疑心暗鬼になってしまうことだってあり得ます。
検査員にそう思われるから、細々したところまで重箱の隅をつつくように検査されちゃったりするんです。
人間、完璧と言うことはありません。
どんなに精度よく仕事をしていても、ちょっとしたミスが一つ二つあるのが当然です。
重箱の隅をつつかれれば、こういうささいなミスを発見されることもあるわけです。
本筋には間違いはないとしても、小さなミスでも指摘されるのは好ましくありません。
本筋の評価まで落としてしまうからです。

なぜ検査員は重箱の隅をつつくかというと、往々にして大きな無駄や不正は小さなところから発見されることが多いからです。
しっぽを捕まえる、ってことですね。
被検査者が自信なさげにしていたら、しっぽを捕まえようとやっきになってしまうのです。

だから堂々と説明できることが大切なんです。
そのためには検査前に自分の仕事を再チェックし、頭にしっかり入れておくことです。
つまり予習。
検査前の予習がしっかりできていれば、堂々と説明でき、質問にもサッと答えられ、必要な書類をすぐ探して提示することができる。
すると検査員は、この人の仕事に間違いはない、大筋だけ確認すれば大丈夫だ、と判断してくれるわけです。
検査もすんなり終わります。

予習すればいい、というのは誰でも分かっていることです。
戦略は分かっている。
でもどうやれば、しっかり予習できるのか。
その戦術を知り、実行している人はとても少ない。
ただ書類をパラパラながめているだけで、予習した気になっていたりして。

予習にも技術があるんです。
ただ書類をながめているだけでは、ちっとも頭に入りませんよ。
そこに作業を加えるといいんです。
ぼくの場合、

 書類にインデックスを貼り付ける

ことをやっています。
たとえば、工事の予定価格を算定するための書類には、設計図、数量表、単価表、内訳書などがありますが、これらにインデックスを貼り付けていくんです。
ケーブル、電灯、動力、制御、など共通する項目ごとに、それぞれの書類にインデックスを貼り付けていく。
こうすることで、何がどこに記載されているか記憶されますし、それぞれの関連が頭に入ります。
それだけじゃなく、この部分を説明するためにはあの別の書類も必要だぞ、なんて気づく。
インデックスを貼る作業をするだけで、予習はより有効にできるようになるんです。

でも残念なことに今回はご指名はありませんでした。
今回だけじゃなく、ぼくの担当している仕事が検査対象に指定されることがめったになくなっちゃいました。
信用してもらえているんだか、関口を指名するとガンガン喋りまくるので鬱陶しいと思われているんだか。。。
ああ、つまんない!

よく眠れ!

こんにちは

吉田たかよし『寝ながら仕事術』インデックス・コミュニケーションズ\1400-をよんだら、こんなことが書いてありました。

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私にとって幸運だったのは、通っていた兵庫県の私立灘中学・高校が、たっぷり睡眠時間を確保することを奨励していたことです。
世間では、灘校生は東大受験のために、ねじり鉢巻きで深夜まで勉強にいそしんでいるようなイメージを持っているようです。
でも、現実はその正反対です。
灘高校では、毎日の授業は、まだ日も高い午後2時半に終わりました。
なんだか小学校の授業時間のようだと、はじめは面食らった者です。
これは、生徒の負担を軽くするのが目的だということでした。
意外にも、宿題もほとんど出ませんでした。
生徒が睡眠時間を削ることがないよう、細かいところにまで配慮がなされていたのです。
また、灘高校では睡眠を大切にする考え方が浸透していました。
先生から、何度も「寝ないヤツはアホや!」と教え込まれ、生徒もそれが当たり前だと思っていたので
す。
睡眠不足で目を赤くしていると、なんだか恥ずかしく感じるといった校風があったのです。(55p)
###

ナルホドー。
脳科学者の伊藤正夫さんも、一流の研究者になるためにはよく眠らなくてはいけない、と言っていました。
脳で勝負する人は、よく眠らなくちゃいけないんですね。
そうじゃないと脳の機能は十分発揮できないんです。

脳だけじゃありません。
脳を支える体の健康のためにも、たっぷり寝る必要があります。
西原克成さんの学説によると、血液を作っている骨は重力がかかっていると十分な造血機能を発揮できないそうです。
横になって眠ることにより、骨にかかる重力を解放してやると、造血機能がよくなるわけです。
特に骨頭部分には白血球を作っている場所があり、ここが重力で圧迫されているとまったく機能しない。
白血球は免疫を司っている血液細胞ですから、白血球が造られないとウイルスや病原菌に感染しやすくなります。
寝不足が続くと風邪を引きやすくなりますが、こういう原理だったんですね。
昔から「骨休め」と言うように、大人でも毎日8時間は寝た方がいい、というのが西原さんの説です。
眠れなくても、横になってねそべるだけでもいいから、8時間以上重力から骨を解放してやる。

よく眠るためにはどうすればいいか。
最近の脳科学の研究によれば、勉強などで頭を使ったときは脳の表面にある大脳新皮質というところが疲労します。
これは5分程度の睡眠でも回復するそうです。
ちょっとした仮眠が有効です。
ところが、ストレスによる脳の疲労は脳の奥の方の古い皮質にたまるんだそうです。
これはじっくり眠らないと、疲れはとれないそうです。
でもねー、ストレス、特に人間関係のストレスがあると、眠れなくなるんですよねー。
眠らなきゃいけないのに、眠れない。
矛盾した状態に陥ってしまうのです。

こういうとき、ぼくは「脳出し」をします。
悩んでいることを紙に書き出してみるんです。
悩みは頭で考えているだけだと、正体不明であやふやなものです。
正体不明の敵は手強く思えてしまう。
それを紙に書き出してみると、相手の正体がはっきり見えてきます。
正体が見えると対策も講じやすくなる。

書き出してみると分かるんですが、悩みの大部分は見栄だったり、嫉妬だったり、取り越し苦労だったり、自分の方の心のねじれなんですよねー。
なーんだ、そんなことかって思っちゃう。
そう思えたら、書き出した紙はゴミ箱行きです。
紙と一緒に悩みもゴミ箱へポイ。
こうしてスッキリと眠りに着くことができるってわけです。

行動に移せ!

こんにちは

同じセクションの他の係にいる若い同僚からメールが送られてきました。
「○○設計事務所から設計図が送られてきましたので転送します」
ぼくはムッとしました。
彼にこう言いました。

  転送するだけなら、我が子はっちゃん満3歳でもできる。
  この図面はどういう意味を持つ図面なのか、君自身のコメントを入れろ。
  たとえば「これで最終図です」とか「△△だけまだペンディングですが、
  予定通りの進捗です」とか。
  ちゃんと自分の<頭>を通してから、報告せよ。

彼は「以後気をつけます」と答えました。
ますますムッとしました。
「以後じゃなくて、今直しなさい!」
すぐやり直しさせました。

再度彼から送られてきたメールを読んで、またまたムッとしました。
「まだ不完全な図面ですが転送します」だって!
不完全なものを転送するな!迷惑だ!他の係には完全にしてから送れ!
完全にするのが君の仕事だ!
不完全ならどこが不完全なのか、いつまでに完全にするつもりなのか、それをコメントしろ!

要するに、ぼくの言ったことをちゃんと理解していなかったんですね。
もちろん、またやり直しさせました。
4回くらいやり直ししたでしょうか、若い同僚も合格点まで達することができました。
ちょっとしつこかったかもしれません。
嫌がられたかな??

勝間和代『インディペンデントな生き方実践ガイド』ディスカバー¥1000-から引用します。

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私がこれまで、仕事場や「ムギ畑(注;勝間さんの主催するインターネット会議室 http://www.mugi.com/ )」で人の観察をしていて感じるのは、伸びる人、伸びない人の差は、行動力の差であることが大きいということです。
頭がいい人、というのは確かによく伸びるのですが、なぜ頭がいい人が伸びやすいかというと、行動力を伴っている人が多いためだと思います。(200p)
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「以後気をつけます」ってダメなんですよ。
そう言うヤツに絶対に以後なんてない。
次も同じ間違いを犯すんです。

頭の中で理解したつもりでも、実際にやり直してみると、ちゃんと理解できていなかったのが明らかになる。
だから、やり直すならその場でやり直した方がいい。
やり直してみるから、自分がちゃんと理解したのかどうかが分かるのです。
それを繰り返せば技は身に付きます。

やり直す=行動に移す、ということです。
行動力があるから、能力も伸びるんです。
なぜなら、行動に移せば現実がちょっと変わります。
その変化を自分にフィードバックできる。
いい変化だったらもっと大胆に、悪い変化だったら抑えたり止めたり方向転換したり。
目の前の現実が良い方向に確実に変わっていきます。
そういう制御ができるわけです。
現実と対応させながら頭を使うから、頭も良くなり、能力も上がり、技も身に付くのだと思います。

行動に移さない人は、現実からのフィードバックがありません。
頭の中だけでぐるぐる考えをめぐらせるだけなんです。
そのうちどうしても行動に移さないとならないギリギリの状況に置かれる。
行動しなかった人がギリギリの状況で行動に移すとき、あーやっちゃったよー、というやり方をするんですね。
現実を見ていないからです。余裕がないからね。
頭の中だけで考えたことをドカンと行動に移してしまうので、失敗する確率が高いんです。
妙に大胆なんですよ、やることが。

行動する人はギリギリになる前にやり始めますから、余裕があります。
ちょっと行動しては、現実がどう変化するかモニターする。
その結果を見て次の行動に移る。
こまめなフィードバックがかかるので、失敗することがないんです。

行動する人を「実践家」と呼びます。
口だけの人を「評論家」と呼びます。
評論家はしばしば悪口として使われます。
それは、評論家は現実との対応がないからです。
評論家は現実を変えていかないからです。

若い同僚には実践家になってほしいと思ったのです。
もちろん、ぼく自身もね。