2008年9月1日月曜日

正しい怒り、間違った怒り

こんにちは

ぼくは職場の衛生管理者もしています。
衛生管理者とはフィジカルな労働環境を整える専門技術者です。
まー、照度は足りているか、とか、換気は十分か、とか、温湿度は快適か、とかですね。
そういう仕事をしているからか、時々メンタルな労働環境に関する相談も寄せられたりします。

「ある人から理不尽に怒られている。どうしたらいいでしょうか」なんて相談があったりして。
原則的にはぼくの仕事ではないんですが、個人的にちょっと相談にのることもあります。
で、話を聞いてみるとやっぱり理不尽。
理不尽というより、なんで怒られているのかぼくにも分からない。
もちろん、一方の話だけ聞いて判断しては間違えます。
相手の話も聞かないとイーブンにはなりません。
 
ちなみに誰に怒られているの?と聞いてみました。
あー、あの人かー、って思いました。ぼくもよく知っています。
その人もよく怒ることで有名な人です。
でもその怒り方はへん。
正しいことを主張して、間違ったことを正すために怒っているのではないのです。
相手を自分に従わせるために怒るのです。
自分の利益のために怒るのです。
 
あの人から怒られているなら、相手の話を聞くまでもないでしょう。
理不尽に怒られているのはほぼ確実です。
 
相手を自分に従わせるために怒っている人を撃退するのは簡単です。
怒鳴り返してやるか、無視するか。
正義のために怒っている人は、正義が実現するまで怒り続けます。
ところが、相手を自分に従わせるために怒っている人には正義はありません。
自分に従わないと分かれば、すごすごと退散して行くのです。

上田紀行『かけがえのない人間』講談社現代新書\740-に、ダライラマの言葉が載っていました。
ダライラマは、怒りには二種類ある、と言っています。
 
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一つは慈悲から生じる怒りであり、もう一つは悪意から生じる怒りです。
かけがえのない、尊重されるべき人間が危機に瀕していたり、苦しんでいたりする、ということに関して、どうしてそんなことが起きるのだと感じる怒りは、その人への慈悲、すなわち合いと思いやりから生じる怒りです。それは誰かを傷つけたいというような悪意から生ずる怒りではありません。
そういうふうによりよくしたい、その人が持っと輝いて欲しい、という動機から生ずる怒りは正当であり持つべき怒りなのである、ということです。(略)
ところが、その人を傷つけたいとか、その人が憎いから怒る、ということになると、怒りは悪意から生ずる怒りになってしまうのです。
そして悪意から生じる怒りは、破 壊的な怒りであり、人を傷つける暴力的な怒りだというのです。(46p)
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その理不尽な怒り方をする人も、若い頃よく怒る上司の下で仕事をしていたんです。
でもその上司の怒り方は理不尽な怒りではなかった。
相手を良くしよう、世の中をよくしよう、間違いを正そう、という怒りだったんです。
慈悲から生じる怒りだったんですね。
そういう怒りに出会うと、人は自分の誤りに気づいて、その人に従います。
表面的には、怒られて従った、ように見えるのです。
実は怒られたから従ったわけではなく、「自分の誤りに気づかされた」から従ったわけです。
そこを見間違えてはいけません。
 
理不尽な怒り方をする人は、よく怒る上司の表面的なところだけ真似していたんですね。
今の若い人は叱られ慣れていないのか、怒られると訳も分からず従っちゃう人もいるんです。
自分に従わせるために怒っても、それがうまくいくことが多い。
で、この人は理不尽な怒り方を止められなくなってしまったのでしょう。
怒られて従った人も、だんだんおかしいことに気づきます。
気づいてしまえば、その人から離れていくのは当然です。
そうして、多くの人から疎まれ、孤立していくんです。
ちょっとかわいそうな人生です。
 
ぼくも結構よく怒る方です。
でも、正しい怒り方をするよう常に気をつけています。
その意味で冷静に怒っている(つもり)。
よい結果を導こう、相手にとってメリットのある結果を得よう、周りの人が喜んでくれる、世の中が少しでもよくなることをしよう、と思って、今日も怒っているのです。

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