2008年9月6日土曜日

恐い人は意外といい人

こんにちは

江戸時代、寺子屋の入学式は2月最初の午の日と決まっていたそうです(毎日新聞「余録06.02.05)。
江戸時代の川柳にこんなのが残っています。

 初午の日からおっかないものが増え

子どもにとって寺子屋の師匠は、おっかないものだったんでしょうね。
こんな川柳もあります。

 行きは牛帰りは馬の手習子

寺子屋に行くときは牛のようにダラダラと行く。
でも、帰るときは馬のように走ってしまう。
つまり子どもにとって寺子屋はあまり行きたくないところだった。
師匠がおっかなかったからです。

だからといって子どもは寺子屋が嫌いだったのかというと、そうじゃないと思うのです。
恐くて厳しいけど、自分を鍛えてくれる師匠がいる。
勉強が終わったときの晴れ晴れとした気分。
その嬉しい気分が、馬のように走って帰る行動に現れているんだと思います。

テリー伊藤『テリー伊藤の遊びベタのための成功法則』青春出版\1300-にこんなことが書いてありました。

###
企業ってのは基本的に競争原理で動いているんだから、そこにいい人なんていらないんです。
いたら、おかしいぐらい。みんな、もっと嫌われなきゃいけない。
それに、嫌われるって意外とラクなんですよ。
だって、いい人だったら、ずっといい人でいなくちゃいけない。
そこからは、下がるしかないわけ。
それが嫌われていると、ちょっと人情味を見せただけで「アイツ、意外といいヤツだったんだ」って言われるんだから。(49p)
###

そういえば、恐い先生、厳しい先生の方が、大人になってもよく覚えていますよね。
恐かったけど優しい先生だった、なんて。
恐い先生、厳しい先生の方が、後々まで「いい先生」として印象づけられています。
それはテリーさんの言うような「対比効果」だったんじゃないかと思うのです。


いつも厳しく恐い先生が、ごくごくたまーに優しくしてくれる。
これは子どもにとってすごく嬉しい。
いつもビシビシやっている先生が、ごくごくたまーに遊んでくれる。
子どもにこれ以上の喜びはないでしょう。
そして上手にできたとき、ごくごくたまにだけどほめてくれる。
子どもにとってこれほど嬉しいことはないはずです。

そう言えば、学年のはじめに「優しい」先生って、学年末に「鬼」に変わってしまうことが多かったようです。
学年はじめには、すごく丁寧に教えてくれる。
できない子ができるようになるまで、丁寧に教えてくれるし、できるまで待っていてくれる。
ところが学年末になると、終わらない教科書を「消化」するために、脱兎のごとく授業を進める。
すると、できない子は置いてけぼりになる。
そのまま学年末でタイムアウトで、置いてけぼりになったまま進級することになる。
次の学年ではもっと勉強がわからなくなり嫌いになるという悪循環です。

学年はじめの丁寧な授業は、あまり効率的でもないんです。
できない子にとって、いつまでも同じことばかりやらされるので、かなり嫌。
嫌々やるから、なかなかできるようにならないわけです。
それに、できる子はそんなのに付き合わされてもう飽き飽きしちゃう。
できる子にとってのろのろとした授業は退屈です。
必然的にダラダラした授業になってしまうわけです。

最初から鬼の先生はそうではありません。
ビシビシガンガン授業を進めるんです。
その緊張感で多くの子は必死にそれに着いていこうとします。
もちろん中にはできない子もいます。
でも鬼のような授業をすると、必然的にあとで時間に余裕ができるのです。
あまった時間で、できない子の指導ができるのです。
もしラッキーなことに、クラス全員ができるようになっていたなら、あまった時間は学級レクなど遊びに回せます。
すると、恐い先生は一転して優しい先生に変わってしまうのです。
「意外といい先生だったんだ」って。

これって子どもと先生だけの話じゃないですね。
社会人だって同じです。
厳しい上司も部下をよく育ててくれます。
ガンガン怒鳴っていても、その根底に部下への優しさが宿っているんです。
逆に優しいだけの上司は、本心は自信のなさだけだったりします。
自信がないから厳しくできないんです。

人生、メリハリなんですよね。
厳しくするときにはする。
そしていい結果を出したときに、共に喜ぶ。
ぼくもそうありたいと思っています。

0 件のコメント: