2009年6月30日火曜日

需要率は80%

こんにちは

前便で、ぼくは来る仕事は拒まない、来るなら来いだ、なーんて書きました。
ま、ぼくは仕事が好きですからね。
でも、昔から言うじゃないですか、好きこそものの上手なれって。
好きだから上手くいく。
嫌いだと嫌々やりますから、時間もかかれば間違いも多くなる。
苦労して失敗しちゃうなんて、損ですよ。
誰かから期待されるから、仕事が舞い込んでくる。
期待されて、それを喜んで引き受け、楽しんでやる。
楽しいから早くできるし、間違いもない。
上手くいけば、多くの人から感謝もされる。
こんなハッピーなことはありません。

でも、舞い込んでくる仕事を引き受けるためには、準備も必要です。
ぼくは電気設備技術者ですから、建物に設置する変圧器容量(キャパシティ)を適切に決めることをします。
このとき、必要容量ギリギリに設計してはいけない。
ある程度の余裕をもって設計します。
必要容量÷変圧器容量=需要率、といいますが、需要率を80%くらいに設計するのがベスト。
20%の余裕があれば、将来のちょっとした負荷の増設にも対応できますし、時々ある急なピーク電力も対応可能。
何より、需要率80%なら日々安定に運転できるんです。

内田樹/春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る』角川oneテーマ21¥724-にこうありました。


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大きな器があって、その縁ギリギリまで水が入っているときには、一滴の水が落ちた途端あふれますよね。
確かに最後の一滴のせいで水はあふれてカタストロフが到来したわけですけれども、この器があふれたのは、別に最後の一滴が「原因」じゃないですよね。
それまでにたまりにたまった水があったからこそあふれたわけで、最後の一滴がこぼれる前に、おちょこ一杯分でもいいから、ちょっと掬い出しておけば、この一滴が落ちても水はあふれなかった。
ほとんどの場合、人間の遭遇する不幸というのは、どうでもいいようなファクターの累積が劇的な出力を結果するというかたちのものなんです。
極端な話、「最後の一滴」が加わる前に、いつでもおちょこ一杯分ずつ汲み出し作業をしている人の身には決して劇的な不幸は訪れない。
いつでも顕在化する一歩手前で処理されているから。でも、そういうふうに考える人はほんとうに少ない。(内田、143p)
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人にも「器」、容量、キャパシティがあります。
それは誰もが知っているはずです。
でも、自分の器を適切にメンテナンスしている人って少ないです。

逆ギレする人って、器があふれるギリギリで生きている人なんです。
だからちょっとしたことで、器があふれてキレる。
余裕のなさなんですよ。

余裕がなくなって、来る仕事を拒んでいるとどうなるか。
フリーの人なら仕事が来なくなるのは当然ですが、サラリーマンは容易にクビにはなりません。
嫌な仕事、それをやってもやらなくてもどうでもいい仕事ばっかり来るようになるんです。
それは地獄の賽の河原で石を積み上げては壊されるみたいな仕事です。
どんどんとアンハッピーになっていってしまうのです。

常に器に余裕を保持する。
そのために、器の中の不要なものをちょっとずつでもくみ出して捨てる。
たとえばストレスとかね。
もちろん、広く勉強することによって器自身を大きくしていく。
そうやって、常に自分という器の需要率を80%に維持していく。

期待される仕事って、やっぱり上手くいって欲しい仕事です。
アイツにやらせればきっと成功するだろう、と思うから頼まれる。
期待されて、余裕を持って楽しくやって、ぜったい上手くいくと思ってやれば、たいがい上手くいってしまう。
こうなれば、ストレスなんかありませんよ。
上手くいくと、自分の器がちょこっと大きくなる。
するとまたその余裕に新たな面白い仕事が舞い込んでくる。
そういう好循環に居続けることができるんです。

2009年6月29日月曜日

来るなら来い!

こんにちは

ぼくは「平成の資格王」目指して、ちょっとずつでも毎日勉強を続けています。
今までとった資格も死蔵されているわけじゃなく、職場で少しは役に立っています。
おかげでボーナスにちょびっとおまけが付いていたりして、嬉しい。

で、ぼくが昼休みなど勉強していると「そんなに資格とるとまた仕事が増えちゃうよ」なんて言ってくる人がいます。
サンキューフォーユアサジェスチョン(大きなお世話)、でございます!。

でもね、仕事のできる人はたいがいたくさん仕事をしているのも事実です。
長時間働いているという意味じゃなく、大量の仕事を同時進行させて、それぞれアウトプットは確実にしているということ。
それに、来る仕事は拒まないって感じです。
むしろ「来るなら来い!」って感じで、困難を楽しむ雰囲気もあるくらいです。
逆に、仕事ができない人ほど、労働時間が長く、その割にアウトプットが少ない。
それは段取りが悪く、手戻りも多いからです。
それじゃ仕事が面白いわけがありません。
これ以上仕事が増えたってこなせないでしょうね。

日垣隆『天才のヒラメキを見つけた!』WAC\857-に岡野雅行さんのインタビュー「俺が作ってみせる!」が載っていました。
岡野さんの言葉を引用します。

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宮本武蔵じゃないけど、いくら「俺は強いんだ」と言っていても、相手がいなけりゃ強くならないもんな。
相手から「これを作ってくれ」「あれを作ってくれ」とどんどんひっきりなしに注文が来るから、強くなれるんです。(122p)
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会社や上司も、つぶす目的じゃなければ、あいつならできる、やってくれる、と思うから仕事を増やしてくるんだと思います。それだけ期待感があるってことです。
ひぇ~キビシー、って思うこともありますが、自分を鍛えるチャンスでもあるんだから、どっしりと受け止めていきたいと思っています。
そうやって、自分自身の容量=キャパシティも大きくしていきたいのです。

2009年6月28日日曜日

躾を間違えるな

こんにちは

はっちゃん、とっちゃんをデパートなどに連れて行くと、当然ですがおもちゃ売り場にトラップされます。
自由に遊んでもいい展示品があり、そこで熱中してしまう。
ぼくや晶ちゃんは、それを眺めるだけ。一緒に遊ぶこともありません。
もちろん、そのおもちゃを買ってあげるなんてことはありません。
展示品以外の売り物に手を出すとか、危ないことをするとか、他に遊びたい子がいたとき意地悪するとか、そんなことがないかどうかだけ見ている。
はっちゃん、とっちゃんは思う存分遊びまくる。
もちろん、すべてタダ。
デパートさん、ありがとうー!

おもちゃ売り場で泣き叫んでいる子もいます。
こういう子がなぜ泣いているのか観察してみると、たいていはまだ遊びたいのにお母さんが帰ろうとしているんですね。
時間がないとか言ってるんです。
バカだなーってぼくは思いますよ。
時間がないならおもちゃ売り場なんかに連れてこなけりゃいいのにね。
子どもが熱中し始めたところで、帰るよなんて言う。
残酷だよねー。
泣き叫ぶのは当たり前です。
なのに「ワガママ言うんじゃありません!我慢しなさい!」なんて怒ってる。
怒ってそれで躾けてるつもりにもなってるらしい。
ワガママなのはお母さんの方じゃん!

三砂ちづる『オニババ化する女たち』光文社新書¥720-にこう書いてありましたよ。

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本当に三歳くらいまでは、子どもに真剣に怒らなければならないこと、というのはこちらが落ち着いていればそんなにないと思います。
三歳以前に叱っているとすれば、そのほとんどは、自分が相手をコントロールしたい、という欲望か、もしくは自分のぶれ、ゆらぎを相手に向けているかのどちらかではないかと思うのです。(221p)
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おもちゃ売り場でのオニババママは、きっと子どもを楽しませたくておもちゃ売り場に連れて行くんでしょう。
でも自分の都合だけで帰ろうとする。
それに子どもは従わないから叱るんです。
コントロール願望が強いんですね。

子どもなんていくら熱中していても、10分間くらいで飽きちゃうもんなんですよ。
特にデパートのおもちゃ売り場にあるおもちゃなんて、食いつきはいいけど、飽きも早いものが多いからね。
ほんの10分間、それにつきあってやればいい。
そうすれば、子どもも満足、親もいらいらガミガミしなくてすむのに。
子どもも不満、親も不満、そしてそうやって育てられた子どもがどう育つか考えてみれば、まったく損なことだと思いますよ。

我が子、はっちゃんとっちゃんは、存分に遊びまくるので、飽きれば「もう帰ろう」って自分から言う。
親子とも気分よし!

同書にはこうも書いてありました。

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しつけをすることと、子どもをコントロールしようとすることは、まったく違います。
自分もコントロールされたことしかない母親は、子どもも思うようにコントロールしようとする。
それは間違いです。
しつけと、自分の思い通りにしてほしい、ということの違いは、しつけというのは、人間として生きていくことのルールを教えるということです。
自分の思い通りにしてほしい、というのは自分の都合のいいように動かしたい、ということです。(219p)
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躾とコントロール願望を混同しちゃいけませんね。
そのためには、待つことができるだけの余裕を持つこと。
特に時間の余裕をたっぷり持っておくことが、心の余裕につながります。
親の言うとおりにしないから叱る、というのは親のエゴでしかないんですから。

2009年6月25日木曜日

できると思えばできる

こんにちは

ぼくが職場の労働組合の執行委員長に推されて、最初の団体交渉の時。
ぼくはこんなことを言いました。

 今期、何かひとつでも
 会社と組合とが協力して
 多くの職員が楽しめることを実現しましょう

で、ぼくの頭にあったその楽しいことっていうのは、「餅つきの復活」でした。
我が社では10年くらい前まで、年に一度餅つきをしていたんです。
多くのセクションからボランティアを募って、みんなで準備をし、餅をつく。
その餅を全職員に振る舞い、みんなで食べる。
すごく楽しかったんですよ。

もちろん、ボランティアになった人は結構大変でした。
ボランティアと言っても、人数も必要ですから各セクションに動員をかけたってこともあったと思います。
嫌々やった人もいたかもしれません。
でもほとんどの職員は、年一度の餅つきを楽しみにしていたと思うんです。

我が社も組織が大きくなってしまい、一人一人の顔が見えなくなりつつあります。
たまにはみんなで集まって、顔見知りになることも必要だと思います。
わいわいと一緒に餅をつき、一緒に餅を食べる。
その中からコラボだって生まれるはずです。
新しいことって、人と人とのスキマに存在するわけですから、それはコラボしなくちゃ見つからないんです。

10年ほど前に社員食堂を建て替えたときに、なんとなくやらなくなっちゃて、今に至っています。
これを復活したい。
以降、機会があるごとにその思いを話してきました。

ぼくは共済会の幹事にも推されました。
共済会とは、職員がちょっとずつお金を出し合って、職員の文化健康、福利厚生に益することをやるための組織です。
昨日、共済会幹事会があって、その会議に出席したんです。
すると「餅つき」の話題が出たんです!
おーーーー!!このチャンスを逃すもんかーーー!!

衛生面の問題、勤務時間の問題、いろいろネガティブ要因はあります。
そういうネガティブなことばかりあげて、やりたくないという意見を言う人もいます。

ぼくは、こうやればいいんじゃないか、こうも考えられる、などなど屁理屈をガンガンしゃべりました。
で、まずはできる範囲でやってみようじゃないか、ってことになりました。
嬉しー!

養老孟司/角田光代『脳あるヒト心あるヒト』扶桑社新書\700-で、養老さんはこう言っています。

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できることはわかるが、できないことかどうかは、わからない。
なぜって、できることは実際にできるんだから、やってみればわかる。
ところができないことの証明はふつうできない。(76p)
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そうなんです。
できるできないは、できることを証明する方が簡単。
だって、やってみればいいんだから。
できないと言う人は、すごくたくさんのネガティブ要因を並べ立てるでしょ。
それは、できないことを証明するのが大変だからなんです。
でもそんなのは、実際にできちゃえば反証可能なんです。

自然法則と法律に反しないことなら、たいていのことはできちゃうんですよ。
できないのは、できると思わないからなんです。
できると思って行動すれば、それは完璧な形ではないかもしれませんが、できるものなんだと思います。
あー、餅つき、楽しみだなー。

2009年6月23日火曜日

余裕主義のススメ

こんにちは

夏のボーナス交渉も終わりました。
ぼくは労働組合の執行委員長として、会社側とメインとなって議論をしてきました。
得難い経験でとても楽しかったんですが、やっぱり緊張していたためか、持病の湿疹が首筋にできてしまいましたよ。
やっぱ気が弱いんだね、ぼく。

我が社は国の機関とは言え、この厳しい経済状況の中、昨年より大幅ダウンは避けられません。
それでもまずまずの線で交渉できたかな、と思っています。
と言っても、組合側の一方的な勝利とは思っていません。
今の時代、会社側あるいは組合側の一方的な勝利なんてあり得ないし、あってはいけないものだと考えているんです。

交渉とは、双方合計したメリットが極大となる点を見つけること、だと思っています。
一方が完全勝利したとしても、もう一方の損失が大きく、合計したものが好ましくない状況を生み出してしまうなんてことは、ままあることです。
双方が譲るべき所は譲り合わないと、この極大点に到達はできないのです。
極大点で交渉成立できれば、win-winの関係になれる。

すなわち、win-winとは妥協の産物でもあるんですね。
譲るということは、loseでもあります。
だから、win-winはlose-loseでもあるんです。

苫米地英人『自伝ドクター苫米地』主婦と生活社¥1500-にこうありました。

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人は競争しないことでよりよくなるはずだ。
競争するから人はどんどん煩悩だらけになっていく。
勝つことがすべてではなく、負けることがいいということを覚えなくてはいけない。
負けるということは相手を勝たせてあげることだ。
これはたとえば、自分の隣人を助けるために今やるべきことをやる。
それは競争ではない。
負けることだ。
いかに助けようか、ということだから、それはそれでやるべきことはいくらでもある。何もしないわけではない。
たとえば食糧についてもそうで、自分のためだけではなく、隣の人を食べさせるために食糧を作らなくてはいけない。
課題や競争がないと人は働かなくなる、というのはウソで、それは洗脳なのである。
よりよく勝ったほうがいいというのは、生産性を上げるための奴隷として理想化されているだけのことで、いかに負けるかを考えるのが重要なのだ。
いかに負けるかを考えるということは、これは余裕だ。
人類はすでに食べるものが十分にある全員貴族だ。
資本主義の次に来るものは共産主義ではない、余裕主義、相手を勝たせる主義になる。(214p)
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まったく同感です。
負けられる人の方が余裕があるんですね。
いつも勝とうとしている人は余裕がなく、下品です。
人の器は、いかに負けられるかで決まるんだと、ぼくも思います。
これからの時代は「余裕主義」なんです!

2009年6月22日月曜日

残業は損 その2

こんにちは

前回書いたように、残業とはそもそも生産調整のためにあり、労使双方にメリットがある場合に限り毎年度調停を結んだ上で、法定8時間労働時間を超えてすることができるものなのです。
すなわちそれは、労働時間に生産量が比例する仕事を想定した規則である、とわかります。
つまり、工場の生産ラインでの労働が想定されているわけです。
需要に生産が追いつかない場合、製造ラインを長時間稼働させる。
そのために労働者に残業させる。
それにより会社は機会損失を防ぎ、収益が上がる。
そうすれば、残業代のみならず基本給だって上がるわけです。
残業代は長い労働時間に付随したものなので、もらって当然なものです。
でもそれだけでは労働者のメリットにはなり得ない。
基本給が上がってこそ、労働者のメリットとなるものなのです。

ところが、工場労働者以外、いわゆるホワイトカラーの場合はどうでしょうか。
ホワイトカラーの労働者は、労働時間に生産量が比例するとは限りません。
長く働いたからアウトプットが増えるというものでもない。
もちろん、ある程度は比例する仕事もありますよ。
でもそれはルーチンワーク的な部分だけに限られます。

周りの人を見渡してみましょう。
たくさん残業しているのにアウトプットが少ない人もあんがいいるでしょう。
ホワイトカラーの仕事をしている人なら、誰もが経験していることです。

公務員数は必要な業務量と無関係に膨張する、という法則を見つけたパーキンソンという経営学者をご存じと思います。
パーキンソンはそれ以外にも、面白い法則をたくさん見つけています。
たとえば、

  仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する

いやー、アイロニカルですねー。
どんな仕事も、3時間あると思えば3時間かかってしまうし、5時間与えられれば5時間かかる。
逆に、1時間しかなければ、追い込まれて何とかしてしまうものなんです。
仕事の量は変わらなくてもそうなんです。

ホワイトカラーの仕事はこうなりがちなんです。
残業してもいいよ、と言われれば、残業してしまうのです。
仕事量も変わらず、しかもその質だってそれほど変わらない。

アウトプットか変わらないのですから、その労働によって会社の収益は変わりません。
でも残業が増え、残業代を支払わないとならない。
そういう場合、会社はどういう給与設計をするでしょうか。
収益が上がらないなら総人件費を増やすわけにはいきません。
なので、総人件費から残業見込額を予め控除しておきます。
その残りを基本給とするはずです。
つまりそれは、基本給を下げることになってしまうのです。
これって労働者にとってハッピーなことではないですよねー。

よく、残業代もらわないと生活が立ちゆかない、なんて言う人がいますよね。
だから、したくなくても残業しなくちゃならないって。
それは基本給が安いからでしょう。基本給だけでは生活が維持できないことに他なりません。
たくさん残業するがために、基本給が安いままになっている可能性が高いんです。
会社側が残業代を含めて、社員の給料設計をしているからなのです。

残業しないと生活が成り立たないとどうなるでしょうか。
労働者は仕事を終わらせるために残業するのではなく、残業代を稼ぐために残業するようになります。
なので、勤務時間中もだらだらし始め、わざわざ残業しなければいけない状況を作り出します。
ますます、労働時間とアウトプットは相関しなくなってしまいます。
残業代を支払うのは法律で定められていますから、会社側はそのために基本給をさらに減額するしかなくなります。
すると、労働者はますます残業しないと必要なお金を稼げなくなってしまうと言うわけです。
これは労使双方にとって悪循環です。とっても損。

吉越浩一郎『デッドライン仕事術』祥伝社新書¥740-にこうありました。

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朝から夕方まで8時間、クタクタになって頭が痛くなるぐらいまで集中して働き、家に帰ってからリラックスした時間を過ごすのが、本来あるべき姿ではないだろうか。
日本ではそのリラックス・タイムを会社に持ち込んでいるから、残業がなくならないのである。(30p)
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前にも書きましたが、労働基準法で1日の労働時間は8時間以内が原則である、と定められています。
これは、工場などで働く人たちが決められた仕事を集中してでき、労働災害も起きず、不良品も作らないための「適当な」時間であると経験的に分かったからだと思います。
ホワイトカラーだって、8時間集中して仕事をすればくたくたになるはずです。
そして退勤して自分の時間をリラックスして満喫する。
疲れをすっかり取って、また翌日バリバリ働く気力と体力を復活させる。

人間って制限がある方が逆に生産性が上がるんです。
残業しないぞって思うと、その中でなんとか仕上げようとする。
すると能力も上がるんです。
会社側も残業が少なくなれば、その分、基本給を上げざるを得ない。
基本給が上がれば、それだけでも十分生活を維持できるようになる。
会社だって残業が少なければ労務管理が楽ちんになりますしね。
労使双方、ハッピーになれます。

もちろん時には残業せざるを得ない状況も出てくるでしょう。
でもそれは必要だからするのであって、決して生活するために残業代をもらうためじゃない。
そういう場合の残業代はちょっとした「ご褒美」にもなります。
だって生活給じゃないんだから。
家族とちょっと贅沢な外食なんかに充てることも可能なんです。

残業は損 その1

こんにちは

労働組合の執行委員長になったので、雇用者側といろいろな協定を結びます。
こんな協定を労使で結んでたのか!って思うこともしばしば。
楽しい、楽しい。

たとえば「さぶろく協定」。
これは超過勤務=残業に関する協定です。
毎年毎年年度初めには、どこの会社でも労働者代表と会社はこの協定を結んでいます。
知ってましたか?

「さぶろく」とは、労働基準法36条のことです。
協定書にハンコを押す前に、労働基準法をちゃんと調べてみます。
例年通りだからって、そのまま通してはいけません。
責任者なんだから、根拠をちゃんと知ってからハンコは押さなくちゃね。
で、労働基準法第36条を読んでみると、こう書いてあります。

(時間外及び休日の労働)
第三十六条  使用者は、当該事業場に、労働者の過半数で組織する労働組合がある場合においてはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がない場合においては労働者の過半数を代表する者との書面による協定をし、これを行政官庁に届け出た場合においては、第三十二条から第三十二条の五まで若しくは第四十条の労働時間(以下この条において「労働時間」という。)又は前条の休日(以下この項において「休日」という。)に関する規定にかかわらず、その協定で定めるところによつて労働時間を延長し、又は休日に労働させることができる。ただし、坑内労働その他厚生労働省令で定める健康上特に有害な業務の労働時間の延長は、一日について二時間を超えてはならない。

これを読むと、労働者に残業をさせる時は、予め労使で合意して協定を結び、官庁=労働基準監督署に届けないといけないわけですね。
この協定を結ばない限り、会社は残業させちゃいけないんです。
だから会社は毎年度はじめに、早くこの協定を結びたいわけです。

ところで、基本となる労働時間も労働基準法で規定されているのです。
それは、第23条。

第三十二条  使用者は、労働者に、休憩時間を除き一週間について四十時間を超えて、労働させてはならない。
○2  使用者は、一週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き一日について八時間を超えて、労働させてはならない。

つまり、基本的には(さぶろく協定を結ばない限り)週40時間、1日8時間を超えて労働させちゃいけないことに法律上なっているんです。
知ってた?

これは、1日の労働時間は8時間以内にしとくのが基本なんだってことです。
労働基準法はそもそも労働災害を防ぎ、労働者の生存権を守るための法律です。
労働者が健康に安全に働くためには、その労働時間は1日8時間以内にしておくのが妥当だ、という社会的認識があったからこのような法律になっているわけです。
あまりに長時間の労働で労働者が搾取されてきたという、歴史的事実があるわけなんですね。
長時間労働の果てに労働災害で死亡したり、病気になって、使い捨てのように解雇されてきた歴史があった。

ただし、常に8時間労働だけでは産業は立ちゆきません。
生産には波があり、生産品の需要に供給が追いつかないときもある。
そういうときは増産しないと、せっかくのチャンスを会社は逃してしまいます。
本来なら増産のために、新たな設備投資と人員の雇用をすべきですが、それが間に合わない。
そのために残業があるんです。
増産することによって会社が儲かれば、労働者の給与待遇だって上がるはずです。
労働者にとってもメリットがある。
そういう場合は、労使互いにメリットが出る範囲で残業は認めましょう、というわけです。
労働災害に至らない範囲で、時には労働者もがんばって働きましょう。
それが自らのためにもなるから。
そういう趣旨での法令が労働基準法36条であり、その協定がさぶろく協定なのです。

だから、さぶろく協定は「限定的」なものだと分かります。
のべつ幕無しに残業してよい、というものではないのです。
協定の範囲内だからって、毎日毎日、毎月毎月、残業するのは法の趣旨に反している。

ずっと残業させなければならないということは、ずっと需要が供給を上回っているということです。
そういうときは、会社は新規設備投資をし、新規雇用をする。
そして、今いる労働者の常態となっている残業を解消させる必要があるのです。

(つづく)

ハッピーマニアに育てたい

こんにちは

ぼくは自称「ハッピーマニア」です。
ぼくやぼくの家族、周りの人たちがハッピーであればいいと思い、ハッピーになれるよう行動しているつもり。
アンハッピーは感染しますからね、一人だけハッピーなんてあり得ない。
自分や家族、周りの人たちのアンハッピーをひとつひとつ取り除いていく。
それがハッピーへの王道だと思っているんです。
だから努力も必要。

内田樹/池上六朗『身体の言い分』毎日新聞社¥1500-にこうありました。

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「私ってなんてハッピーなんだ」っていう経験のない人というのはね、ぼくね、申し訳ないけれど人生展望ないと思うんですよね(笑)。(略)
さらに残酷なことをいうようですけれど、子どもの時にすごく恵まれた家庭環境にいて、親にすごく愛されたと思っている場合と、愛されなかったと本人が思っている場合の差というのは、その後どんなにご本人が経験を積み重ねてみても、埋められないと思うんですよね。
たっぷりと愛された人というのは、アチーブメントというのがあまり必要じゃないんです。
何か社会的に立派なことを成し遂げて、それによって承認されるというルールのゲームじゃないですから。
自分自身はもうすでに承認されているわけだから、あとは「暇だから何かやろうかな」というぐらいのことであって。
それからもう一つ、子どもの時にすごく親に愛された人というのは、孤立することが怖くないんですよね。
百人中九十九人があっちに行っても、「あ、そうなの。でも、ぼくはこっち」って、平気でこっちに行けちゃう。
だけど、承認された経験の貧しい人は、他者の承認がないと立ちゆかないから、絶えず周りの人の顔色をうかがってしまう。
こっちがいいのかな、あっちがいいのかな、どっちをやったらほめられるのかなって、いつでも何かを達成しなくてはならないという強迫観念にとらわれている。自分で高い目標を設定して、これだけのことを達成したら、このアチーブメントに対してきっとみんなあほめてくれるに違いないという期待をエンジンにして仕事をしちゃうから、ずーっと苦しいわけですよ。
だって、目標は百点満点であって、それからの減算方式で今の自分の位置を決めてるんだから。
99点でも「まだあと1点足りない」というふうにしか評価できない。それだけ見事な仕事をしていながら、成し遂げていない部分にしか目に入らない。
だから、いくらやってもストレスが消えない。(133-134p)
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なるほど、なるほど。
子どもは無条件の愛、無条件の承認をもって育てなくちゃいけないんですね。
もちろん何かができたら褒めるのも大切ですが、だからってできないときに叱ったり無視したらいけない。
できても褒める、できなくても愛する。
そうやってハッピーに育てていく。

すると、世界は基本的に自分の味方だ、という観念がしっかりと植え付けられる。
もちろん世の中には悪人、アンハッピーな人もいることはいる。
でもそういう人って案外少ないんです。
人を疑うことを原則に生きるのか、信じることを原則に生きるのか。
我が子たちには後者であってほしいですもんね。

その方がハッピーだし、意外と効率的なんだと思います。
疑うことに使うエネルギーは莫大です。
そしてあまり生産性がない。
とてももったいないことです。
信頼を基本に生きていれば、自分のエネルギーのほとんどをいい方向へ使うことができる。

自らの信じる正しいことなら、孤立も恐れず、恐れないというより気にしないでやり遂げることができる。
誰からの評価も気にせず、一歩一歩前に進んでいれば、モノゴトは必ず成し遂げられるものです。
もちろん、世の中「人間関係」も大事ですから、まったく他人を気にしないということもできないし、それは反ってやりたいことをやりにくくすることもある。
でも、愛されて育った子は、他人の評価に過剰に対応する必要がない。
あるいは、誤った評価を適当にやり過ごすことができる。
そして、自分にとって有益なアドバイスだけをチョイスできる「知性」を身につけられる。

はっちゃん、とっちゃんは男の子です。
ぼくが帰宅すると、激しくじゃれついてきます。
「そちも男よのう!」と言って、ぼくもそれに応じます。
汗だくになって遊びます。
これが父親が示す、男の子への無条件の愛の形なんだと思っているわけです。

2009年6月20日土曜日

笑うところに人は集まる

こんにちは

我が家はイベント好きです。
友人たちを我が家に呼んで、料理教室をしたり、手巻き寿司の会を開いたり。
子ども連れも多く、賑やかな会になります。
材料費はワリカンで、みんなでワイワイ料理して、美味いものを一緒に食べる。
ぼくらはこういうイベントが大好きなんです。

もともとぼくは冗談が好きで、よく笑う、よく笑わせる方だと思います。
が、晶ちゃんと結婚してから、さらに子どもらが生まれてから、もっとよく笑うようになりました。
ハッピーですねー。
人生に余裕ができてきたんじゃないかって思います。
笑っていれば、ハッピーにしていれば、自然と人は集まってくるように思います。
人は楽しいところが好きですからね。

北原照久/藤川清美『夢を言いまくってかなえた男、ノートに書きまくってかなえた女』出版文化社\1400-にこう書いてありました。

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素直な人は、明るくて笑いが絶えない。
しかめっ面をしていて、いつも怒ったような人は、だいたいにおいて根性がねじ曲がっているか、斜にかまえ、物事を素直に受け止めない。
世界で、お金持ちや成功する人にユダヤ人が多いと聞く。
それがなぜかと調べた友人がいる。
その結論を聞いて、ぼくは納得した。
ユダヤ人の成功の秘訣は、「笑う」ということと「聞く耳を持つ」ということだという。
なぜ笑うのか?
笑うところに、人が集まる。
人が集まれば、情報が集まる。
そしてまた、神は一つの口と二つの耳をくださった。
だから一回しゃべったら、今度は二回聞く態度で相手に接せよ、とユダヤ人は信じているのだ、と。
目の前の相手に笑みをもって接し、物事を素直に聞く耳を持っていれば、多くの貴重な情報が次から次へと集まり、それだけビジネスのヒントもチャンスも生まれる道理だ、というわけだ。(北原、110p)
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なるほどー。
人が集えば情報も集うわけですね。
明るくて笑いが絶えない場所に、人は集まってくる。
人が集まれば、いろんな話がそこでされる。
何たって、人は情報の缶詰ですからね。
ぼくは別にお金儲けをしたいとは思いませんが、子育て情報など貴重です。
いろんな人の話を聞けるのは、楽しいことだし、有益でもあります。

そういえばこのごみメールも、今100人くらいの人に送っていますが、発信すれば何人の人から返事をもらえます。
返事の数は、平均すると2,3通でしょうか。
100人に送って返事は2,3通、なんだか効率が悪いみたいです。
でもそんなことはなくて、書く手間は一度ですから、それが2,3倍になって帰ってきたと考えることができる。
こちらから発信したものが、2,3倍になって帰ってくるというわけです。
ありがたいことですね。

みなさん、ありがとう。

2009年6月15日月曜日

好き嫌いはなくなる

こんにちは

出張中に晶ちゃんから届いたメール。

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よっちゃん、おはよー!

昨日とっても嬉しいことがありました。
はっちゃんがお弁当の卵焼きを食べて帰ってきたのです!
えっへん!
園庭が水浸しで子どもたちが並べない、という理由で
昨日は個人迎えだったのです。
教室までお迎えに行くと、はっちゃんがにこにこして
出てきました。
「今日のお弁当どうだった?全部食べた?」と聞くと
「うちに帰ったら、お弁当箱あけてごらん。」だって。
どきどきわくわくしながらの帰り道。
家に帰ってお弁当箱をあけてみたら、空っぽ~。
「おお!全部食べたね!卵焼きも食べたね!えらいえらい。
また入れてあげようか?」
「うん、いいよ!また卵焼き入れてね!」だって。
うれしくて、なんだか涙うるうるしちゃいました。

お風呂プールに入った後、二人を連れて光が丘まで
行ってきました。私の買い物を済ませたあと、はっちゃんが
「体育館のお店でアイス買いたい」というので行きました。
アイスを買ってプールをながめながら休憩。
それから体育館前のジャブジャブ池で遊んで帰りました。
本当はファミレスで夕食を食べてから帰ろうと思っていたのですが
二人ともずぶぬれになってしまったので、車の中ではだかにして
直帰。今度はタオルと着替えをもって遊びに行こうと思います。

たっぷり遊んだので夜は早く撃沈してくれましたよ。
今もまだ寝ています。
今日はとてもいい天気になりそうです。
よっちゃんもお仕事ばりばりがんばって早く帰ってきてね。

しょはと
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嬉しいですねー。
こういうメールが子どもたちの成長記録にもなるので、ハードな出張もいいことですねー。
なんちゃって。
さてさて。

はっちゃんのお弁当の中身も徐々にバリエーションを加えています。
食べられそうになったかな、と思ったら、ちょこっとそれを入れてみる。
家では食べないものでも、お弁当なら食べるんですよー。
家だと他にも食べるものはあるし、それにワガママも言えますからね。
お弁当だとそれしかないわけだから、お腹が減っていれば自然と食べる。
幼稚園の先生は親ほどはワガママも聞いてくれませんしね。

子どもの好き嫌いはこうやってなくなっていくんだと思います。
無理に食べさせる必要はない。
子どもの体と心の準備ができる日を待つ。
その日が来たらチャンスを逃さずチャレンジさせる。
できたら褒める。
食べられなくてもけなさない。
だって、まだ準備okになってなかっただけだからね。

2009年6月11日木曜日

アタマは情報の缶詰

こんにちは

ぼくはおしゃべりです。
仕事の会議でもほとんどぼくが喋っています。
議事録を見ると6割以上の発言はぼく。いや8割、いやいや9割かも?

ぼくは仕事に必要な人間は以下の3つだけだと思っています。

・お金を出す人
・汗をかく人
・知恵を出す人

これ以外の人間は、仕事にとって邪魔です。
そういうヤツは即刻退場であるべきなんです。
で、会議というのは「知恵を出す場」なんです。
知恵を出す人が集まってこそ、会議は有意義な場になるんです。
だから会議で何も発言せず黙っている人は、その場にいても仕方ない人、役に立っていない人なんです。

ぼくには夢があって、ぼくが管理職になったら自分が主催する会議において3回連続発言0のヤツがいたら、即刻クビ!
あ、そんなことしたら部下は誰もいなくなっちゃうかー。
あははははは。
さてと、今日もSPring8へ出張です。
バリバリしゃべってきますよー!

ところで、なぜ人は出張なんかするんでしょうか。
今はインターネットも高速回線になって、TV会議設備だって充実しているのに。
出張なんかしなくても済むインフラは充実してきているはずなの に。

ぼくの職場にもTV会議設備はありますが、やっぱり細かい打ち合わせは無理です。
顔をつきあわせて議論しないと、ちゃんとした結論を出すことができません。
報告事項だけならTV会議でも十分ですが、議論が必要な場合はイライラしてしまいます。

なぜなら人間は「情報の缶詰」だからなんです。
一堂に会して、それぞれが自分のアタマの缶詰をパカッと開く。
そしてそれらを皆でつつき合う。
つつき合いながら、新たなものを生み出していく。
それが会議ってもんだからです。

TV会議ではイマイチ缶詰をうまくつつき合えない。
それがTV会議で感じるイライラ感の原因なんだと思います。
自分の缶詰を相手に差し出せないもどかしさ、相手の缶詰に箸の届かないもどかしさ。

そうして互いの缶詰をつつき合って新たな料理をこしらえ、それを各々がまたパッケージし、缶詰に封入して帰社していく。
出張とはそのためのものなんです。

ところで、出張に行っても自分の缶詰を開こうとしない人がいたりします。
一言も発言しないんです。
それはルール違反。
これでは何のために出張に行っているのか分かりませんよ。
はっきり言って無駄です。罪人です。人罪です。

鎌田浩毅『ラクして成果が上がる理系的仕事術』PHP新書\740-にこう書いてありました。

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会議を開く最大の目的は、他人のアタマを使うことにある。
同時に、自分のアタマを相手に使ってもらうのだ。
会議に同席した者どうしでお互いに相手のアタマを活性化しながら、新しい考えや発想を得ようというのが会議の効果なのである。
だから、会議はいつも相互恩恵が基本になる。
ウィン・ウィンの関係になるはずなのだ。(159p)
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せっかく出張旅費を使って出張しても、アタマの缶詰を開かず、新しい料理を缶詰にせず、持ってきた缶詰をそのまま持って帰る。
あー、もったいない。
こういう人は、相手に差し出すほどの缶詰を持っていないのかもしれませんね。
空っぽなのか腐っているのか。

2009年6月10日水曜日

コミュニケーション能力を鍛える

こんにちは

我が家で料理教室を開きました。
みんな子ども連れでの参加です。
2才から9才まで、いろんな年齢の子どもが集まりました。
はっちゃん、とっちゃんも大はしゃぎで遊びまくりました。

でもそれだけ子どもが集まったら、葛藤もある。
はっちゃんもとっちゃんも小2のお兄さんに泣かされちゃいました。
その子のお母さんから「はっちゃんととんたんを泣かせてしまい、すいませんでした・・・・・。」というメール。
ぼくはこう返事しました。

  いえいえ。
  お互い、それもいい経験です。
  コミュニケーション感度とスキルを磨くためには、子ども同士泣いたり泣かせた
  りする経験を子どものうちにたくさんしておいた方がいいんです。
  コミュニケーションの基本は、自分の主張を通す、相手の話を聞く、ということ
  ではありません。
  相手の気持ちを受信して、それに寄り添うように自分の気持ちを伝えることだと
  思います。
  こういうスキルを身につけるには、異年齢の子ども同士で遊ぶのが一番いいと
  思っているのです。

泣かされたり泣かしたり、葛藤を経験するから能力も身に付く。
面倒見たり見られたりする中で、自分の立ち位置、ポジションが分かってくる。
年長者の役割、年少の者の振る舞い方。
弱い者へのいたわり、配慮など。

百ます計算の蔭山英男さんはこう言っています。

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よく子どもたちに言うんですよ。
「(いじめを)やった子、やってない子、よく見てごらん。
やるほうにも、やらないほうにもかかわってる。
やるほうにも、やらないほうにもなんない子っていうのは結構いっぱいいるでしょう」。
ある子を例に挙げて「あの子、いじめる側に回ると思う?」「ううん」、「いじめられる側に、じゃあ回るだろうか?」「ううん」って言うじゃないですか。
やっぱり全然かかわらない子っているんですよ。
それをよく、傍観者で問題だっていうような言い方をされるんですが、僕はちょっとそれは違うんじゃないかなというふうに思ってて。
つまり、コミュニケーション能力をしっかり持っている子なんです。
相手の気持ちもわかるし、自分の考えもしっかり伝えられる子なんですね。
ところがいじめたりとか、あるいは、いじめられている子っていうのは、どっかそこのところが抜けてたりするわけですね。
そうすると結局、集団の中で、これは最近よくある事例なんですけれども、いじめる子がある日突然、いじめられる側に回るわけです。(藤原和博他『笑える子ども。』ぴあ¥800-、15-16p)
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なるほど、いじめもコミュニケーション不全が原因なんですね。
コミュニケーション能力が低いと、相手の気持ちも分からないし、自分の気持ちも上手く伝えられない。
そうなると、相手の立場も無視して自分のやりたいこと、言いたいことばかり主張するモンスターになってしまう。
あるいは、自分の気持ちをまったく言わずに、相手に迎合するだけの奴隷的振る舞いをする。
前者がいじめる側、後者がいじめられる者になっていく。
そしてそれらは表裏一体なので、あるきっかけで逆転することにもなるんです。

コミュニケーション能力が身に付いた子は、「加減」が分かります。
「ほどほど」、ですね。
どこまでなら自分の主張が通るか。
相手に配慮するところはどこなのか。
それが分かれば、上手に自分のやりたいことを実現していくことができる。
そうであれば、モンスターにもなりませんし、奴隷にもなる必要もない。
いじめのループに絡め取られることもなくなるんだと思うのです。

兄弟同士での葛藤も必要だし、同年齢の子同士、異年齢の子の中での葛藤も経験する。
そういう場もたくさんつくりたいなーと思っているんです。

2009年6月9日火曜日

ジンザイとは何か

こんにちは

昨日は労働組合の仕事で団体交渉がありました。
お題は、夏のボーナス。
交渉日程が急に決まったので、事前に交渉内容について調べたり、議論の戦略を練ったりする時間が取れませんでした。
まー、労務のプロと交渉するんですから、知らないことは相手に聞けばいい。
聞いたことを元に論理を積み重ねていけば、議論は成り立つだろうと気楽に構えました。

ある本に書いてあったんですが、成功の反対語は何か、ってこと。
たいていの人は「失敗」だと思いますよね。
でも違うんです。
成功の反対は「挑戦しないこと」なんです。
何度も失敗しても、やり続けていればやがては成功することができます。
その意味で、成功も失敗も同義なんです。
だから挑戦しなければ、失敗もしない代わりに成功もあり得ない。
だから、成功の反対語は挑戦しないことなんですね。

昨日の団体交渉も、予習が十分ではなかったので、ちょっと言いよどんだり、考え込んでしまったりする場面もありました。
でも、相手から情報を引き出し、どこをつつけばいい方向へ議論を向けられるか、勉強になりました。
ある意味、ぼくにとって挑戦する場にすることもできたと思います。
なので、気分よし!

仕事上必要とされる人のことを「ジンザイ」と言いますが、それには4種類のジンザイがいるのだそうです。
4つのジンザイに別々の漢字をあててみます。

「人材」
これは一般的に使われる漢字ですね。
この人材は、材という字を使うように、材料となる人という意味ですね。
仕事の主体にはならないけど、与えられた仕事はてきぱきとこなし、成果も出す。
期待するよりもよい仕上がりにもできる能力がある。
このくらいの人間なら絶対欲しい、というレベルですね。

「人在」
存在しているだけの人という意味ですね。
可もなく不可もなし、ですね。
与えられた仕事はなんとかこなす。
期待したレベルには仕上げてこれるけど、でも面白みはない。
クビにするほどじゃないけど、他に換えが効く程度の人。

「人罪」
たまにいるでしょ。いるだけで困っちゃう人。
あいつがいない方が仕事が進むのにーっていう人。
まったく罪ですなー。

「人財」
これが一番よいジンザイ。
会社にとって財産となる人。
こういう人は上から言われた仕事はもちろんできる。
それどころか、言われない仕事もクリエイトしていける。
つまり新しい仕事を開発できる人ですね。
今ある仕事をするだけだと、よくて現状維持です。
発展していくためには新しい仕事を開拓しなくちゃならない。
それができる人が、人財なんです。

さてさて、ボーナス交渉も堂々とできるようになるためにも、ぼくは人材、そして人財となるべく、いろいろなことに挑戦していきたいなーって思っています。

2009年6月8日月曜日

負けても得する戦い方

こんにちは

はっちゃんとっちゃんには「いい学校」に入ってもらいたいと思います。
いい学校のひとつの条件は、よきライバルに巡り会えること。
おーーこいつはすごい奴だ!と思える友だちですね。
共にあこがれ共振し切磋琢磨していく、それが生涯続くような友だち。

で、ライバルとしての「戦い方」を覚えてもらいたい。
ライバルと、こいつには負けたくない、と思って戦うのはいいことです。
でも負けることもありますよね。
負ける方が多いのが人生です。
そのとき、負けてどう思うか。
負けて沈没してしまうのかどうか。

ライバルとの戦い方は、負けても悔しいけど気分がいい。
負けちゃったけど、お前のおかげでおれもここまでやることができたぜー。
そういう達成感の残る戦い方ですね。
決して沈没はしないんです。

西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』理論社よりみちパン!セ¥1300-にこうありました。

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最下位の人間に、勝ち目なんかないって思う?
そんなの最初っから「負け組」だって。
だとしたら、それはトップの人間に勝とうと思っているからだよ。目先の順位に目がくらんで、戦う相手をまちがえちゃあ、いけない。
そもそも、わたしの目標は「トップになること」じゃないし、そんなものハナからなれるわけがない。じゃあ、これだけは譲れない、いちばん大切な目標は何か。
「この東京で、絵を描いて食べていくこと」。
だとしたら肝心なのは、トップと自分の順位をくらべて卑屈になることじゃない。最下位なわたしの絵でも、使ってくれるところを探さなくちゃ。最下位の人間には、最下位の戦い方がある!(84-85p)
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ライバルとの戦い方は、決してトップをねらう、順位を得るための戦いではない。
結局は自分との戦い。
自分を高めるための戦いなんです。
自分の目標を達成するために自分を高めていく。
ライバルはそのためのベンチマーク。

脳科学者の茂木健一郎さんも学芸大附属時代の友人の話をよく講演などでもしますが、そんな友だちに巡り会えたらいいです。
個性的でやんちゃで、でもやることはやってるから周りから認められているような子ども。
確率的に言って、そういう生徒はいい学校に集まって来ていると思うんですよ。

2009年6月3日水曜日

義務教育は普通教育である

こんにちは

最近、小学校でもパソコンを教える授業をしているようです。
我が子がお受験するのでいろんな私立小学校の案内をながめていますが、ほぼすべての学校でパソコン授業をひとつのウリにしています。
確かにITは現代人にとって必須の技術であることは確かです。
パソコンの使えないおじさんは、会社でも肩身が狭いのは事実。
だからって、小学校で教える必要があるかどうかは別の問題です。

で、実際にどんなことを教えているのかというと、インターネットでWEBを閲覧したり、電子メールを使ったり、せいぜいホームページを作ったりすることのようです。
中には、一太郎やワードといったワープロソフトの使い方を教えていたりするだけの学校もあったりして。
お金のない公立校だと、とんでもなく古いパソコンで、ずいぶんと昔の一太郎で教えていたり。

IT分野の技術的進歩は早いので、今習ったこと、習熟したことはあっという間に陳腐化してしまいます。
今の子どもが大人になったときも役に立つ技術かどうか疑わしい。
ならば、ワープロの使い方、ホームページの作り方なんか小学校で教えることはないと思うのです。
必要になったときに、自分で学べるだけの基礎があればいい。

かく言うぼくも、今の職場に入ってからオフィスやエクセルなどビジネスソフトを使う必要に迫られました。
そのときぼくは35歳にもなっていて、中年と言われる年齢でした。
学生時代からコンピュータはいじっていましたが、ビジネス目的で使ったことはなく、簡単なプログラムを組む程度の使い方したことがなかった。
それまでキーボードも、片手で人差し指だけで打っていました。

今の職場に入った頃はまだ個人で持てるほどパソコンは安くありませんでしたので、土曜日曜と2日間職場にもぐりこんで練習しました。
それでほぼ仕事に支障のない程度の使い方はマスターできました。
キーボードのブラインドタッチも、毎日退勤時間以後20分職場に残って、フリーソフトのタイピングソフトウェアを使って練習し、3ヶ月くらいでほぼマスターしました。
必要に迫られてちょっとの努力ができるなら、パソコンの使い方なんか誰でもすぐ覚えられるものなんです。

まして今の子どもなら、学校で教えなくたって興味をもって覚えちゃうもんだと思います。
先生なんかすぐ追い越しちゃう。
中高年のおじさんのようにパソコンに対する恐怖感もないし、面白いからね。

ところで日本国憲法には、こんな風に書いてあります。

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第二十六条  すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
○2  すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
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「普通教育」と書いてありますよね。
この普通教育って何なのでしょう?
そう言えば、ぼくが行った高校は「普通課」でした。
普通の高校ってことかと思っていましたが、筑波大附属駒場高校なんていう一流校も普通課だったので、わけがわからなくなった思い出もあります。

ある言葉を理解するためには、その反対語を考えてみるといい。
「普通」の反対語だから「特別」「特殊」?
まさか「異常」?
異常教育なんてあるの??

実は「普通教育」の反対語は「職業教育」なんです。
だから、義務教育を終えて進学する高等学校は、普通課と職業課に分かれるわけです。
つまり普通教育とは、職業には直結しない一般的な知識、技能を教育することだと言えるのです。
「教養教育」と言ってもいいかもしれません。

憲法において<義務教育は普通教育である>と規定しているのです。
だから義務教育では、個別の職業のための知識、技能ではなく、もっと広く教養を与えて、フレキシブルな人間に育てることを求めているんじゃないのかって思うのです。
そういう教養人としてしっかりと育った子どもが、義務教育を終えて職業に就いたらOJTですぐ使える人材になる。
高等学校から職業課に進んでも、社会の中堅になるべく専門技能を磨くことができる。
普通課の高等学校に進んだ子は、より教養を深め社会を引っ張っていく人材に育っていく。

反対に、あまりに子どものうちから個別の職業教育をしてしまうと、小さな人間になってしまうよ、という意味もあったとも思えます。
丁稚奉公の否定という意味もあったと思うのです。
だから、小学生にパソコンを教えるのは、憲法の趣旨から考えて間違っていると思うのです。
それより他にもっとやることがあるだろう、と思うのです。

そもそも学校は、学校に行かなければ身に付かない知識、技能を教えてもらうところなんだと思うのです。
ちょっと強制してもらって、負荷をかけてもらって苦労しないと身に付かないもの。
子どもの好き好みに任せていたら、絶対に身につかないもの。
パソコンの使い方なんかより、そういう教養こそが長い人生で役に立つ。

憲法を読み返してみて、そんなことを思いました。

2009年6月2日火曜日

仕事を無駄にするな

こんにちは

おかげさまでイギリス遊学から帰ってきた妹も、この不況のさなか理研のアシスタントとして採用してもらうことができました。
少しは英語ができますが、もともと文系出身なので理系の仕事は言葉がちんぷんかんぷんでしょう。
3ヶ月もすれば、理系用語にも慣れることでしょう。
これまでの人生ではつきあったことのない毛色の変わった人たちとの仕事も、いい経験になると思います。
ちょっとずつでも学び続け、自分の枠と未来を広げていって欲しいと思います。

ぼくはこれ以上出世したくはありませんが、お金は稼ぎたいと思っています。
我が子たちは私学に入れていい教育を受けさせたいので、がんばって稼がなくちゃっね。
時々、「そんなにやっても給料変わりませんから」とか「私はそんなに給料もらっていません」とか言うおじさんがいます。
そういうおじさんに限って、たいがいは給料分さえも稼いでいないように思えます。
給料変わらないからこれ以上の仕事はしない、自分の給料以上の仕事はしたくない。
結局は仕事をしない言い訳なんですね。
でもそういう働き方は、長い目で見ると損だと思うんですよ。

ではどのくらい稼げば、給料分以上の仕事をしたことになるのか。
仕事をしないおじさんたちは、自分が今もらっている給料を基準にしてモノゴトを判断しているようです。
たとえば月給手取り30万円だと、月労働時間を200時間とすれば、時給は1500円です。
時給1500円だと、コンビニのバイトよりちょっと高いくらい。
なので、コンビニのバイトくらいの仕事をすれば、自分の給料に見合った仕事だと思う。

これ、間違っていますよ。勘違いです。
会社がこのおじさんを雇用するための費用を逆算してみないといけません。
自分の人件費はいくらか。
このときもたいていの人は、せいぜいが税・社会保険込みの月収くらいしか思いが及びません。
いわゆる額面月収ですね。
手取り30万円なら、額面40万円くらいでしょうか。時給2000円。

いえいえ、会社はもっとあなたのために支払っているのです。
不況で減っているとはいえボーナスも支払わなければなりません。
退職時には退職金。
社会保険の半額負担や総務や人事に関する間接費、会社の建物の維持費や光熱費などもかかります。
それらを加えると、給料額面の2倍くらいが会社が支払う人件費となっているのです。
手取り30万円、額面40万円の人なら、人件費80万円です。
同じく月労働時間を200時間とすれば、時給4000円にもなるのです。
コンビニのアルバイト程度の仕事をされたんじゃ、とてもペイしないわけです。

しかも、これだけ稼いでトントン。
会社には利益は出ません。
利益が出なければ会社は発展していきませんし、自分の給料も上がっていかないことにもなります。
下手をすると会社が倒産しちゃって、自分の雇用さえ守れなくなってしまうんです。

「自分の給料の3倍は稼げ」とはよく言われることです。
3倍くらい稼げば、会社にも利益が出て発展させていくことができる。
そうすれば、すぐには給料は上がらないかもしれないけれど、長期的に見れば自分の給料も上げていくことができるんです。

押井守『他力本願』幻冬舎¥1600-から引用します。

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同じ量の仕事をしていても、意識して取り組む人間とそうでない人間との間には、少しずつ差が生まれ、それが蓄積していくものなのである。
ムダな仕事というものは存在しないが、仕事をムダにしている人はいる。(138p)
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あまり給料のことばかり考えて仕事をするのもうざったいことですが、時々は自分の人件費を意識してみることは、自分の仕事を見直すために必要なことだと思います。
ちょびっと余分に仕事をする習慣を身につける。
ちょっとの工夫をし続ける。
それが自分の仕事を無駄にせず、人生を無駄にしない方法なんだと思います。

プロは100点をねらわない

こんにちは

先週、次世代スパコン施工スタッフをできあがったばかりのXFEL建屋に案内しました。
完成品を実際に見れば、どんな風に施工していけばいいのかイメージが明確になります。
スパコン工事も残り1年ですから、このタイミングで見てもらおうと思ったわけです。

内田樹『態度が悪くてすみません』角川oneテーマ21¥724-にこうありました。
内田さんは翻訳家としても一流です。
プロの翻訳はどうあるべきかを述べてありました。

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すべては結果である。
どれほど訳者の側に善意があっても語学能力があっても「クライアントが欲しているようなアウトカム」が示されなければ、その仕事は評価されない。
「プロ」ということの条件を若い方の中には「自分に厳しくすること」というふうに解釈する方がいるが、これはまったくの勘違いというものである。
自分に厳しかろうが甘かろうが、そんなことは評価にはなんの関係もない。
翻訳においてたいせつなのは「クライアントが読むことを欲しているドキュメント」を差し出すことであり、それに尽きるのである。(143p)
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これはすべての仕事に通じる話だと思います。
どんな仕事でも最終的にはクライアントを満足させるものでなくてはなりません。
もちろん、自分自身が満足できるような仕事をすることはすばらしいことです。
でも自己満足だけではいけないのです。
クライアントが喜んでくれなければ、その仕事に対価は支払われないのです。
そこを間違えてはいけないと思います。

ぼく自身も、エンドユーザーである研究者がいい研究ができる施設を念頭に置いて、日々仕事をしています。
そのためにこの施設でどんな研究、実験をするのか、施設がどうあればそれが実現するのか、考えるようにしています。
もちろん、研究者と話し合ったり、学会での論文をよく分からないながらも読んでみたり、勉強もする。
そういう努力は惜しまないようにしているのです。

実際にできあがった施設を見れば、プロの施工者だったら分かるんだと思います。
どう造れば施主は満足してくれるのか、喜んでくれるのか。
そしてぼくが納得してくれるのか。

それはまた、「手の抜きどころ」も理解してもらいたいということでもある。
エンジニアというのは、右手で理想を、左手で現実を握っている存在だと、ぼくは思っています。
理想ばかり追い求めることはできません。
同様に現実だけに埋没してはいけないのです。
理想を求めつつ、現実的に考え、人、物、金、時間というリソース(資源)を最大限に生かす。
ベストエフォートな結果を出すことが大切。
そのためには、どこに注力し、どこは手を抜いてもいいのか見極めること。
それを言葉でいちいち伝えるのは大変だし、言葉は完璧ではありません。
実物を見れば、プロにはそれが分かると思うのです。

渡邉美樹『もう、国には頼らない。』日経BP¥1300-にもこうありました。

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食事に関して、私たちは(介護施設の)ご入居者の満足度を、95%まで高めていくという目標も掲げています。(略)
現場のスタッフが100%個々のお客様に対応していると、コスト的に見合いません。(187p)
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プロは完璧、100点を目指してはいけないのです。
ましてぼくらはまだこの世になかった研究施設を造っているのです。
それも予算と期限が限られた中で。
その枠の中でベストを尽くす。
見学を通じて、そんなことをスタッフのみんなに伝えたかったんです。