2010年3月31日水曜日

普通とは最低のことである


こんにちは

昨日は横浜研に去年造った託児所棟の1年目検査でした。
大切なお子さんを預かる施設ですから、安全第一に造りました。
1年間建物を原因とする、お子さんたちの怪我はなかったそうで、ホッとしました。

ぼくは託児所棟の電気設備の監督をしました。
小規模工事なので建築一式で発注、電気工事は下請け施工でした。
例によって施工中は、ちゃんと有資格者に施工させろ、基準通りに施工しろ、とつべこべ言い続けました。
きっと電気屋さんも辟易したことでしょう。
でも1年経ってみたらちゃんと結果が出てました。
建物完成後の電気工事の不具合はゼロです。
その上、その下請け電気屋さんは、横浜研の現地電気担当の方の覚えもよろしく、その後も月に数度小工事を依頼されるようになっていたんです。
つまり、信頼と実績を得たんですね。
よかったです。
ぼくの、厳しさは結果として優しさになる、という信念が実証されました。
この信念も、例のよく怒る(笑)ぼくの元上司から受け継いだものですけどね。

さて、年度末です。
ぼくも年齢的に人事評価なんてする立場になってしまいました。
人が人を評価する、ましてぼくがするなんておこがましいことだと思います。
でもやらなくちゃならないから仕方ない。
公平な評価なんかできないと達観して、思った通りに評価するだけです。

ぼくは元教師でしたから、子どもの評価は毎学期通信簿でしていました。
教師の時の方針は、いい成績をつける、でした。
だってその方が教育効果が上がるからです。
自分はできる、と思っている子が本当にできる子に育つ。
だから、錯覚でもいいから自分はできると思い込ませる方がいい。

ぼくの教師時代は幸いに絶対評価でした。
だから一定の基準を超えていれば、いい成績をつけてもよかった。
学校の成績は、主に授業態度とテストの点数の二つで決まります。
ぼくの授業ですから授業態度はいいに決まっています。わはははは。
テストの点数も、授業態度がよくて毎日の読み書き計算の訓練がしっかりできていて、テストの形式、答え方も練習すれば、誰もが80点、全員が60点以上取れるようになってしまいます。
結果、大変よい、よい、の評価ばかりになり、がんばろう、は付けなくてすみます。
よい成績をもらえば、子どもも嬉しいし、親も嬉しい。
そして、いい成績を付けるのは教師も気分いいのです。

さて、人事評価です。
会社にはやっぱり箸にも棒にもかからないような人もいるわけです。
大人の社会では、教室の教師のようにぼくが教えたり導いたりできることは少ない。
大人はやっぱり自分自身、自助努力をどれだけするか、です。
それに大人はねー、教えてたり諭したりしても子どものようにはなかなか変わりません。
固まってしまった人も多いんです。

有能な人の場合、いい点数を付けられるので気分いい。
がんばっているからオマケしておこう、なんて思って1点上乗せなんかするとき、自分がとても良い人に思える。
でも実績も上がらず、まっとうな努力もしていない人には悪い点数を付けざるを得ない。
すると、なんだか自分が悪人に思えてくるんですよ。
すごく気分悪い。
その嫌な気分に耐えられなくなるんです。
で、アイツは性格的にはいい奴だし、まあ許せる範囲か、なんて思ってしまって「普通」の所に点を付けてしまうんです。

ここで気づきました。
普通という評価はギリギリ許せる最低線なんだ、ということ。
人は人を評価するとき、許せる最低線であれば普通と評価してしまうものなのではないか。
とすると、悪い評価が付く人は、ものすごく悪いってことです。
許せないくらいにひどい場合だけ、悪いという評価が付くのだと思います。
悪いというのは、その人自身の実績が悪いだけじゃなく、害悪を周りの同僚にも及ぼし、組織全体のパフォーマンスを落としている。
そうだから、悪いという評価を付けざるを得ない。
こういう人に対しては、悪い評価も堂々と付けられるので、気分はそれほど悪くならないんです。
むしろ義憤として悪い点数を付けるわけ。

実際、ある有名進学塾では普通という評価の講師は最低限の処遇しかしないのだそうです。
悪いという評価が付いた講師は、一度は配置転換、二度目は解雇だそう。
客商売、まして子どもを教える仕事ですから、普通の先生では困るし、悪い先生はいてはいけないのは当然ですね。

人事評価なんてことを経験してみて、ぼくの視点も広がったなー。
なーんちゃって!


写真は完成したばかりの正門守衛所。
こちらもやり直しを命じるほど厳しく監督したので、気分よく引き渡しを受けられました。

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