2010年8月23日月曜日

コミュニケーション能力を磨け


こんにちは

我が家では、子どもが何か要求するときは「正しい言葉遣い」で言わせるようにしています(もちろん大人も)。
たとえばジュースが飲みたいとき、ただ「ジュース!」と言うのでは対応しません。
「ジュース下さい」と言ったら、「はい、どうぞ」と言って注いであげます。
もちろん「ありがとう」も必ず言わせます。

コミュニケーションの基本は「礼儀」なんだと思います。
何かをしてもらいたいときには、それなりの言葉遣いと態度が必要。
これはモノだけじゃなく、人から何かを教えてもらうときも基本になります。
礼儀のなっていない子は、誰からもまともに取り合ってもらえません。
礼儀正しくさえあれば、自分の欲しいものが手に入りやすくなり、自分の足りない能力を伸ばしていけるのです。
もちろん、自分の言い分を聞いてもらうためには、礼儀正しくないといけない。
不躾な態度と言葉遣いでは、例えそれが正しいことを言っていたとしても、誰も聞く耳を持ってもらえないのです。

つまり、礼儀がコミュニケーションの「始まり」なんですよ。
そこから良好にコミュニケーションが始まる。
始まれば、人とのやりとりが生まれます。
自分が認められ、また他人も認めていく。
認め認められがコミュニケーションそのものだと思います。

『週間アスキー'10.8.31』神足裕司「Scene2010」というエッセイに、「カネ、女、それは犯罪の動機ではない。殺人の動機は昔から俺の話を聴け、だ」とありました。
このエッセイは、秋葉原無差別殺人事件を取り上げています。
先日行われた裁判での犯人の言い分を聞いて、神足さんは「これはコミュニケーションの問題だ」と思ったそうなんです。
犯人には誰も自分の言い分を聞いてくれる人がいなかった。
親も友人も誰もかも。
自分の言い分を無理にでも聞かせるために、あんな事件を引き起こしてしまったのだと。

なぜ自分の言い分を聞いてくれないのか。
それはコミュニケーションのルールを知らなかったからです。
親からも教師からも誰からも教えてもらえなかったからです。
つまりコミュニケーションを始めるための礼儀がなかった。
ぼくはそう思います。

人間の怒りの大部分は、相手に過剰な期待をかけることから起こるものだと思います。
いつも不満を持ち怒っている人の特徴は「誰それはあれをやってくれない」と言っていることです。
相手に自分勝手に過剰な期待をかけ、それが満たされないと相手の責任にする。
自分では何もしないにも関わらずね。
自分でタネを蒔き、自分で怒りの芽を育てているんです。
まあ自作自演ですよね。
だから、期待をかけられた側はびっくりするわけです。
何でこいつこんなに怒ってるんだ?って。

コミュニケーションが始まれば、逆に相手の悪いところ、くだらないところもきちんと見えてきます。
その中で、適当にかわす技も身に付いてきます。
神足さんはエッセイの中でこう書いています。

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少しコミュニケーションがあれば、”親”や”会社”が自分に悪意を持つほどヒマではないとわかるのだが。
親や社会など無能でつまらん、とわかれば怒りは自然に失せるのだが。
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礼儀正しくあり、まともなコミュニケーションができていれば、相手に過剰な期待をかけることは失礼だし、自分勝手なことだとわかってきます。
どの程度甘えられて、どこからは自分でやらなくちゃいけないのか。
それが分かってくるんです。
それが分かってくると、不満を持つこともなくなってくる。
子ども時代はこういうことの訓練期間だとぼくは思うんです。
だから礼儀正しくあれ、人とのコミュニケーションをたくさん行え、なんです。

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