2012年5月10日木曜日

資格論

こんにちは

昨夜、フェイスブックで友人にキツーイことを書いてしまいました。
友人が図書館司書の資格をとりたい、その資格を使って図書館ボランティアをして、図書館をよくしたい、赤木かん子さんや武雄市の樋渡市長のように図書館改革をしたい
そう言ったからね。
おいおい、資格ってそういうものじゃないだろう、ってことで。

以下、転載します。

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水を指すようだが、図書館司書はヒマと金さえあれば努力なしに取れる資格だ。
赤木さん、樋渡さんは司書資格を持っているのだろうかあ。司書だからあのような仕事ができるのだろうか。
図書館司書の資格をとるための勉強は、君にとってワクワク心躍るものだろうか。
そして、資格をとったあと、もっとワクワクするものが待っているのだろうか。

ボランティアで図書館司書資格が必要なことは全くない。
資格を持っていると、一目置かれるとか、自分の意見が通りやすいとか、威張れると勘違いするな。
本当に実力が備わっていないと、化けの皮はすぐ剥がれる
化けの皮が剥がれると、資格を持っていることが返ってより低い評価につながってしまうのだ。
偉そうな資格を持っているくせに、あの程度かよ。   
資格を持つということは、それだけ厳しい評価にさらされるということだ。

もっと戦略的に生きよ。
人生は有限だ。 
無駄な努力も、無駄のうち。
努力することは無条件によいことではないのだ。
  
常にモニターすること。
自分が努力することで、何かが変わり、何かが善くなったかどうか、常にモニターする。
変わらないなあ、とか、善くならないなあ、というときは、その努力の方向は間違っているということだ。
それを、自分は間違っていない、変わらないのはあいつが悪いからだ、善くならないのは社会が悪いからだ、と他に責任を求めてしまう人を傲慢と呼ぶ。

努力して資格を取っても、それが報われないのはその資格に値するだけの実力がないからだ。
いや、その資格を取ることは実力が身につくことにつながらないものだったのだ。
なぜなら、楽に取れる、誰にでも取れる資格だからだ。  
そういう資格に意味はない。

さらに図書館司書資格はやっかいなことに、お金と時間は使う。
これを「苦労」と認識しがちだ。
苦労が報われない時、人はしばしば他人や社会のせいにするのだ。
傲慢な人間へまっしぐらだぜ。

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