2013年2月27日水曜日

叱れない教師、上司は三流である


昨今の体罰問題のおかげで褒める教育ばかり絶賛されている。
もちろん褒めることは大切だけど、褒めるだけじゃ育たないよ、子どもも部下も。
失敗したらちゃんと叱らなくちゃ。
失敗に対してきちんと叱責できる親、教師、上司じゃなくちゃね。

褒められない教師、上司は二流だけど、叱れない教師、上司は三流だ。
だってね、ぼくの経験だと叱れない人は実力が無い人だよ、必ず。
どこが悪いのかまるでわかってない。
そういう人が褒めても、絶対にピント外れになる。
ピントの外れた褒め方をされても、子どもだって嬉しくないぞ。

褒めることも叱ることも、基準を持ち、記憶力を持っていないとできない。
何に比べてよいのか、何に比べて悪いのか。
基準が無ければ、褒められた方も叱られた方も納得できない。
自分がどういう状態なのかは、基準というベンチマークがあってこそ認識できるんだよ。

そして記憶力。
記憶力無い人多いよ、教師にも上司にも、信じられないくらい。
自分がどんな指示をしたのか覚えていない。
自分が指示したことを子どもや部下がその通りにやり、上手くやり遂げられた。
でも覚えていないから褒められない。
自分が指示したことを子どもや部下が守らず、適当にやっている。
でも覚えていないから叱れない。
そういうことが2度3度続けば、その教師、上司の指示なんかに従わなくなるのは当然だ。

要するに「差異」に敏感であるか。
変化を見つけ、その変化がよいものなのかどうか基準に照らし合わせ、即座に褒めたり叱ったりする。
それができないと一流じゃ無いのだ。
そうやって褒めること、叱ること、この両者を最適にバランスさせ、子ども、部下を育てる。

2013年2月25日月曜日

錯覚しよう、有能になろう!


昨日は関西大学天六キャンパスにて冷凍技師試験受験でした。
午前の理論科目は8割はとれたと思います。
いいぞ、すごいぞ、おれ!

午後の技術科目終了。6割行ったか行かないかという程度の出来。
まだまだだね、おれ。

学会事務局の皆さんとも顔見知りなので、答案提出時に「関口さん、できましたか?」と聞かれ、中身もパラパラめくられちゃった。
ハズカシー。
この間、冷凍学会の人がたくさん職場に見学に来て、おれ結構エラソウに講演しちゃったからね。
「なんだ、ちっともわかっとらんじゃないか。。。」って思われたかな。ま、それも今現在のぼくの実力!

試験が終わって、かなりぐったり。
おれももう後期中年だからなあ。
ともかく、自己採点によればギリギリ合格していそうです。
発表は4/20頃。楽しみだ。
これで今年度もひとつ(合格すればだけど)資格が増えた。

本日の受験生の中でも最高齢だったかも。
まあ、資格も若いうちに取っておかないと、活躍できる期間が短くなるからね。
でもぼくは勉強し続けるのです。いろんな分野のことを。
なぜか。

もちろん、自分の脳をアクティブにしておくってのがあるね。
新しいことを学び続ける。
それによって、自分の脳を固定させない。
柔らか頭でいられるんだ。

それより何より、おれってやるじゃん、って気持ちを持ち続けるため。
子どもを勉強好きにするのは簡単だ。
「ぼくは頭がいい」と錯覚させること。
そう錯覚すると「ぼくにできないわけがない」と思い込め、難度の高い問題にも挑んでいける。

だいたい勉強ができない、嫌いな子は、挑戦しないからね。
最初から諦めている。
どうせぼくには無理だよ、ってね。
挑戦しないなら、絶対にできるようにはならないのは当然だ。

これ、大人もそうなんだよ。
おれはできると錯覚している大人が、本当に仕事もできる。
でね、ここからが大切なんだけど、仕事ができる人は常に自分がそう錯覚し続けるように、心をメンテナンスしているんだよ。
おれってやるじゃん、という体験を自分の人生にたくさん組み込む。
意図的に。

逆に言うと、仕事ができない人は、おれはダメだ、という体験を随所でしているんだね。
ほんと、わざわざしている。
失敗するように、するように行動している。
自分で自分に、おれはダメなヤツだ、と言い聞かせてるんですよ。
たぶん、意識していないでしょうがね。

それじゃあ困るよねー。
ぼくは、おれってやるじゃん、と錯覚したい。
だから資格試験にも挑戦する。
合格を狙って、日々コツコツと努力を続ける。
合格圏に入りそうな高揚した気分、試験が終わってやり抜いた気分。
みんな、おれってやるじゃん、と錯覚するためなんだ。

2013年2月22日金曜日

ぼくが論文を書く理由


昨日は、3月に行われる空調学会近畿支部学術研究発表会の論文投稿締め切り日。
なーんにもやってなかったので、焦って書きました。
アイデアはあって、スタッフにはデータ取りしてもらっていましたから、あとは書くだけだったんですがね。
どうしてぼくってこうもギリギリにならないとやらないんだろう。
嫌になっちゃうよ。

でね、愉快だったのは、昼休み過ぎて「さー書くぞ!」と思ったんだけど、発表登録したときの研究タイトルを忘れちゃったのさ。
学会ホームページの登録フォームに書いたんだけど、写しをとるの忘れちゃったんだ。
間抜けだなあ。
自分でも笑っちゃったぜ。

で、学会事務局に「ぼくの発表のタイトル、何でしたっけ?」ってメールを送った。
自分の発表のタイトル忘れちゃうヤツなんか、前代未聞だろうねえ。
とほほ。

結局夕刻の締め切り時刻までに学会からは返事なし。
仕方ないから新たにタイトルをつけて、論文を事務局へ投稿しました。
ま、期日に間に合ったんだからよしとするかー。
うははははは。

数えてみると、今年度5本論文を書き、学会発表したことになります。
調べてみたらぼくのディビジョンの中で一番でした!エヘン!
って、クズ論文ばっかだけどねー。

こっそり言っちゃうと、学会発表の半分以上はクズだよ、クズ(笑)。
クズはぼくだけじゃないんだ。
じゃあなぜクズ論文にもかかわらず、わざわざ書き、発表するのか。

普通の人はたぶんこう考えているでしょ。
自分には人に知らせるような成果はひとつもない。
とても論文なんか書けないし、発表なんて恐れ多いって。
いい成果が出た。
それを世に知らしめ、広めたい。
だから論文を書き、発表するんだって。

ちがうんだなー、これが。
論文を書く、学会発表をするってのは、自分を鍛えるためでもあるんだよね。
むしろ、自分を鍛えるってことが第一目的なんだ。
発表して同業者の批判にさらされたり、無視されたり。
何より、やってみればわかるけど、自分で自分のダメさ加減がはっきりする。
それがいいんだよ。

論文を書いてみる。
あちゃー、ここが抜けてるなーって気づく。
ここが曖昧すぎって冷や汗が出る。
学会発表をしてみる。
参加者から鋭い突っ込みを受け、たじたじとなる。
まったく無反応で、しら~っとする。

いいこともあるよ。
誰かがヒントをくれたりね。
褒めてくれれば次へつながるモチベーションにもなる。
これも論文を書き、発表をするから得られるんだ。

だから、どんな分野、職業であっても専門家を自認するなら、最低でも年1本くらいは論文を書いたり、発表したりしなくちゃダメなんだ。
鍛えられないからね。
それ抜きに専門家面しているヤツは、ニセモノなんだ。
クズ論文しかかけないヤツよりも、クズ野郎なんだ!

2013年2月21日木曜日

ブラック企業という発明


ぼくもナンチャッテですが管理職になり、スタッフの労務管理もする立場になりました。
いろいろと気づくことがあり、大変面白い。
何事も「実務」に就いて経験してみることですね。

ぼくも管理監督者になったんで、スタッフたちに極力残業をさせないように気をつけています。
そのために労働法の原則通り、残業させる場合はぼくが命令する、ことにしています。
けっこうみんな勝手に残業しちゃうんですよ。
それがサービス残業につながってしまう。

必要なら残業せざるを得ないのですが、ぼくもスタッフも自覚的でありたい。
もちろんぼくもスタッフたちのすべての仕事を把握しているわけじゃありませんし、それも難しい。
だから、残業するときはあらかじめスタッフから「残業します」と申告してもらい、もちろん必要性を検討してからですが、ぼくからちゃんと残業命令することにしています。
であれば、当然ですが堂々と残業代を請求できます。

こういうシステムにしたら、ほぼ残業はなくなり、定時に終わるようになってしまいました。
よかった、よかった。

さてさて、なぜ世の中にサービス残業が横行するのか、その原理が分かってきました。
理由は単純。

 労働者の生産性が低いから

これです。
もうちょっと正確に言うと、給料に比して生産性が低い、のです。
その分をカバーしなくてはならないから、残業せざるを得ない。

ノルマ>能力の場合、それを解消するには2つの選択肢しかありません。
能力を向上させるか、労働時間を伸ばす。
前者はすぐにはできませんから、後者を選択せざるを得ないのです。

残業はそもそも法令では、管理監督者の命令によって行うものです。
だから労働者が勝手に残業してはいけないのですよ、本来は。
ところが、サービス残業する人は往々にして、管理監督者に命じられることなく自主的(?)に残業しています。
なぜか。

それは、自分でも自分が生産性が低いことを(うすうすでも)認識しており、それをカバーしたい、あるいはごまかしたいという意識が働いているんですね。
ちゃんと給料分働いていますよ、とアピールしたいわけです。
だって、定時まででは終わらないんだもん。
ノルマをこなすために残業してでもやる。
そうやって、自分の能力が低いことが明らかになることを防いでいるんです。

さらに管理監督者側も、そいつの生産性が低いことを認識しており、勝手に残業することを黙認する。
そうしないと自分の部署の仕事が終わらず、自らの首を絞めてしまいかねないからね。

これってかなり不幸なシステムだと思いますよ。
だからサービス残業を防ぐには、それをしなくてよいくらい自らの能力を引き上げるか、現在の自分の能力に見合った仕事量に抑え、その代わり給料を引き下げるかしかない。
どちらも一朝一夕にはできず、むずかしいことです。

このことを逆手にとったのが「ブラック企業」。
ブラック企業は相場よりもちょいと高給で求人します。
買い手市場の現在、高給に釣られアホなやつらがどんどんやってきます。
きちんと理性が働いて、自分の現在の能力を把握している人なら、応募なんてしませんよ。
自らの能力に無頓着で、給料と職能が関連したものだと露も思わないような奴らが、ただただ高給に目がくらんでやってくるのです。

日本の労働法は解雇規制が厳しいので、まともな会社はなかなか正社員を採用しようとしません。
どこの馬の骨とも分からないような若者を、いきなり正社員にはしないのが当たり前の世の中になってしまいました。
派遣、契約社員ばかりです。

ところがブラック企業は、最初から正社員として雇用します。
正社員として採用された若者は、正社員としてのポジションを守りたい、というインセンティブを持ちます。
多少大変でも正社員なんだからがんばろう、と思うわけです。

そこでブラック企業はその正社員にとんでもないノルマを課します。
人間、がんばればできるもんです。
サービス残業、休日出勤いとわず、正社員となった若者はバリバリ働きます。
そして理不尽なノルマを達成させてしまうのです。

ただし、そのがんばりはいつまでも続けられるわけじゃありません。
1年ないし2年、いくら体力のある若者でも疲れ果ててしまいます。
肉体的にも精神的にも追い詰められ、自主的に辞めていく。
日本の労働法は自主的に辞めることに対しては何の規制もありません。
ブラック企業としては、もう十分稼いでもらったから、辞めてくれてありがとうなんです。
また募集をかければ、健康で元気でアホな若者がどんどんやってくるんですから。

ブラック企業、誰が考えたんでしょうねー。
ビジネスモデル特許取れるかも??

2013年2月20日水曜日

いじめ対策にはロバスト性の育成を

子ども社会だけじゃなくて、大人社会にも「いじめ」はあるよ。
いじめたり、いじめられたりしている人を観察して気づくのは、どっちも「性格が悪い」。
そして、どっちも「仕事ができない」。

なぜなら両者とも人間関係に拘泥しすぎているからだ。
他人の言うこと、やることを気にしすぎる。
あるいは、他人のやることに口を出しすぎる。
いちいちうるさいよ。

他人の言うこと、やること、それに影響を受けやすい性格だといじめ側になった
り、いじめられる側になったりするのだ。
それに振り回されるから、効率も下がり、仕事もできなくなる。

もちろん人間関係も大事だ。
人間関係が円滑だと効率もよくなる。
だが人間関係「だけ」になってしまってはいけない。
他人の言うこと、やることがすべて正しいわけでもなく、すべて間違いというわけではない。
自分の言うこと、やることがすべて正しいわけでもなく、すべて間違いというわけでもないのだ。
その「仕分け」をする必要がある。

すなわちその「仕分け」ができる人が、性格もよく仕事もできる。
必要なことにはセンシティブであり、逆にどうでもよいことには鈍感でよい。
そうすればくだらん奴らの言うことに振り回されず、間違いのない行動を取れるのだ。
あるいは、いちいちどうでもいいことに口を出して、無駄な時間を使う必要がなくなる。

必要なことには敏感だけど、どうでもよいことには鈍感。
これを品質工学では「ロバスト性」という。
安定した工業製品にはロバスト性が求められる。
機能、性能に無関係な外乱に影響を受けないこと。
でも機能、性能に関係する情報には敏感であること。
安定的な工業製品はロバスト性を満たしているのだ。

人間も同じである。
世の中くだらん外乱に満ちあふれている。
それらにいちいち付き合っていたら、やりたいことができなくなってしまう。
かといって必要な情報、助言を逃しても、やりたいことへの障害になる。
仕分けないとね。

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人の心の中には、悪意や嫉妬、コンプレックスやルサンチマン、怒りや憎悪といったネガティブな感情が渦巻いている。
人は社会的動物だから、こうした感情は人間関係から生まれ、それを他者にぶつけることで快感が得られる。
これは道徳的な善悪の問題ではなく、脳の配線(アーキテクチャ)がそうなっているからだ。
私たちは誰もが感情に支配されているから、自分の感情を無意識のうちに合理化してしまう。
他人の言動に対して怒りを感じると、その瞬間に自分が「善」、相手が「悪」となり、表に出せない悪意や憎悪は「正義」に変わる。(橘玲『(日本人)』348p)
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いじめというのは、人間の本性、本能なのである。
それを「なくす」ことはできない。
でもそれを制御・コントロールすることはできるのである。
それが「知性・理性・論理」なのだ。

仕分けるためには、「基準」がいる。
基準とは知識と経験だ。
つまり勉強、学力。
不勉強な奴らが、いじめたりいじめられたりしているのだ。
それも「正義面」して。

だからぼくは子どものいじめも、なくそうとしてもダメだと思っている。
制御、コントロールできるようにすること。
知性、理性、論理を鍛えてやる。
そうやってロバスト性を身につけさせることこそ、いじめ対策として有効なのだと思うわけだ。

2013年2月17日日曜日

伝統を創る

こんにちは
 
昨日ははっちゃんの学校の発表会。
いわゆる学芸会ですね。
小学校と中学校との合同。
父母の数がすごいので、府中の森芸術劇場の大ホールを借り切っての開催です。
はっちゃんの演技もすばらしかったですが、自閉児クラスの子どもたちの演技がすばらしく、涙が出ます。
 
演目は、男子は体育マスゲームと音楽、女子はダンスと音楽の2種目。
普段の授業と業間休みでこなせるものなので、総練習以外授業時間を圧迫しません。
それでいて見栄えもいいものができる。
 
その秘密の一つは、毎年基本的に同じことをやることです。
種目は同じでも、子供たちは毎年成長していきます。
つまり、子どもたちは毎年違う種目に挑戦するわけです。
先生たちにとっては、毎年同じだから、準備や練習の見通しが立ち、合理的に練習できる。
 
子どもたちも上級生の演目を見て、来年はこんなのをやるんだな、と分かります。
ダンスや体育マスゲームの動きも、それぞれの学年で習得した動きに、次の学年の動きを加えていくような形になっている。
だから、子どもたちもステップを踏んで習得していけるし、先生たちも教えやすい。
やることがほぼ決まっているから、早めに練習に着手することもできます。
子どもたちも、これまでに覚えたことを元に発展させていけるので、自らの成長も感じられる。
 
そして全部が普段の授業の延長です。
背伸びはさせるけど、無理はさせない。
それが子どもを向上させる秘訣なんです。
 
ぼくが公立小学校の教師だった頃のことを思い出すと、やたら学芸会の練習に時間をかけていました。
その分、通常の授業時間がかなり圧迫されてしまっていました。
なぜそんなに練習に時間がかかるのか。
小規模校だったからかもしれませんが、演目が多すぎということもありました。
でもそれよりも、毎年毎年、すべての先生が新しい演目を採用することにも、その理由があったように思います。
 
新しいことを教えるのは、とても大変です。
先生も初めて、子どもも初めて。
試行錯誤が伴います。
小道具の用意だって、毎年毎年です。
 
にわか作りですから、どうしても仕上がりが間に合いません。
短時間でいろいろ教えられるので、子どもだって上手になりにくい。
イライラして、どうしても叱りながらの指導になってしまう。
結果的に、あまり見栄えのよくないものを父母の方たちにご披露する羽目になってしまうわけです。
 
それだけ苦労しても、学芸会が終わったらきれいさっぱり忘れる。
小道具はゴミとして捨ててしまい、せっかく覚えた劇の台詞、歌の歌詞、お遊戯の振り付け、器楽の技術も、そこできれいさっぱり捨ててしまう。
とてももったいないですよね。
つまり、指導がブチブチ切れているんですよ。
 
ゆとり教育の行き過ぎの反省から、指導要領が変わって、指導内容が増えました。
その割に、授業時数は増えていないようです。
行事などに使える時数もたくさんとれない状況なんです。
 
どうですか、この際学芸会を「学校の伝統」にしてしまうというのは。
学年ごとにやることを決めてしまう。
毎年毎年、同じことをやるようにするのです。
 
もちろん、伝統はすぐにはできないかもしれません。
うまくいかなくて、来年は変えた方がよい、と思うこともあるでしょう。
でもあきらめちゃだめですよ。
数年かけて創っていく、そういう意識を持つ。
悪いところだけ変え、よいところは残す。
最初の数年は先生たちは大変かもしれないけど。
 
伝統の良さを知り、伝統を創っていく。
これからの公立学校には必要なことじゃないかなって思っています。
 

2013年2月15日金曜日

アトピーに抗ヒスタミン剤は効かない

似てるようで違う、アトピー性皮膚炎と蕁麻疹。
蕁麻疹はすでに生理学的機序がわかっていて、かゆみを止めるには抗ヒスタミン剤が有効。
 

ところがアトピー性皮膚炎はまだ生理学的機序が不明で、抗ヒスタミン剤はまったく効かない。
あれ?おれ結構病院で抗ヒスタミン剤処方されてたぞ。
たしかにいくら飲み続けても、かゆみは取れなかった。 
無駄な投薬だったんだな。
 

さらに面白いことに、fMRI(機能的MRI;脳のどこが活動しているか動的に観察する機械)による脳観察によると、アトピー性皮膚炎と蕁麻疹ではかゆみを感じている脳部位も違うんだそうだ。
 神経学的にも、アトピー性皮膚炎と蕁麻疹は異なるものなのだな。

さてさて、ぼくのアトピー、非常に軽快しています。
まだ下肢や上腕にかゆみは残りますが、その他の部分の赤い発疹はほぼ消えました。
顔がぼーっとほてる感じも消失。
からのふけ状の皮膚の脱落も減りました。

やはり単身赴任の神戸ではちょっと悪化しますが、家に帰る土日で回復。
現在はその繰り返しです。
やはり単身赴任はストレスなんですねー。
 
ビオチンをサプリメントとして飲み始めて4ヶ月です。
ぼくの体には合っているようです。

 ビオチン 5mg+ミヤリサン 6錠+ビタミンC1g

これを8時間おきに飲む。
これだけです。
 
その他やっていることを列挙しておきます。
必ずしもアトピーのためではありませんが、相乗効果が出ているように思います。


・かさかさした部分、ひっかいてしまった傷にはワセリンを塗る。
・糖質制限食;極力砂糖、炭水化物の多いものは食べない。肉と野菜中心。
・1日1食夕食だけ。
・体や頭は石けん、シャンプーで洗わない。お湯で流すだけ。
・時々頭を石けんで洗いますが、そのときはクエン酸リンス。
・早寝早起き(10時過ぎに寝て、6時頃に起きる)。

2013年2月14日木曜日

バカになれる男が勝つ!

おれがスタッフたちに言うことは、いつも同じだ。
繰り返し、繰り返し同じことを言う。
だっておれはマニュアル主義者だからね。

それを聞いて「同じことばっかり言いやがって、バカな野郎だ」と思うやつもいるだろう。
そうだ、おれはバカなのだ。

技術は「ABC」。
当たり前のことを、バカにしないで、ちゃんとやる。あるいは、当たり前のことを、バカになって、ちゃんとやる。
それが大切なのだ。

バカにする、ということは、他人に向けられたものだ。
他人をバカにし、自分を高みに置く。
他人をバカにすることによって優越感を持っているのだ。

こういうヤツはエンジニアとして不適である。
実力もない。身につかない。
他人をバカにするヤツに限って、いつも同じことで失敗を繰り返している。

エンジニアはバカになることが必要なのだ。
バカになるとは、自分に向けられたもの。
大事なことはバカの一つ覚えなのである。
バカ正直なのである。
徹底的にその通りにバカみたいにやることが重要なのだ。
それこそが、先へ進み、進歩し、未来を切り拓く王道なのである。

おれは毎度毎度同じことを言う。
なぜなら、それが大切なことだからだ。
役に立つことだからだ。
へんてこな個性なんか糞食らえ。
自分なりの工夫なんかやめちまえ。

だからそれをバカにするヤツこそバカなのである。
昔からいうではないか。バカという方がバカ。
そう、他人をバカにすることなく、自らがバカになりきれる人間が一流なのである。

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誰にもできない仕事ができるようになるためには、誰にもできないことをやる必要はなく、むしろ誰にでもできることを確実にひとつひとつこなすことが一番の近道になる(齊藤正明『マグロ船仕事術』210p)
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2013年2月13日水曜日

貴重な経験

先日、大変な経験をしてしまいました。

その日のお昼、子どもたちとミスドで食事をしていたとき、便意をもよおしました。
ミスドのトイレに入り、いきりましたが、なかなか出てこない。
10分程度そこでがんばりましたが、出口から数cm頭を出したところで停止。
それ以上いくらいきんでもだめ。
うわあ、どうしよう。脂汗だらだら。

これはここでは無理だ、家に帰ってゆっくりやろう。
そう思い、いったん数cm顔を出したやつを、ふたたびふるさとに帰っていただきました。
意外と戻るもんですね、あいつ。
子どもたちにドーナツを早く食べさせ、家に戻りました。

そしてまた家のトイレでいきむこと、十数分。
やはり数cm顔を出すだけで、それ以上進まない。
かなりやばいです。

なぜこういうことになってしまったのか。
思い出してみると、一昨日の授賞式、ひな壇の上で便意をもよおしたのでした。
場所が場所だけに、我慢せざるを得ず、しばらくすると便意もなくなったんです。
そしてそのまま今日に至ってしまったのでした。

そのまま大腸でからからになるまで水分を吸収されたあいつ。
かわいそうに、かちかちになり、そしてさらに後ろから押されて巨大化してしまったのです。

話を戻して、数cm顔を出して止まってしまったあいつ、さらに数分努力を続けてみましたが、まるで変化なし。
おおそうだ、我が家はウォシュレットだった。
水は岩をもうがつ、というではないか。
ウォッシュレットの水の勢いで、あいつを溶かしてしまおう。
我ながらいいアイデア。

ところがところが、岩のようになってしまったあいつ、ウォッシュレットの噴霧を受けて表面はわずかに溶けているのだが、とてもとてもすぐに消滅しそうにはない。
5分ほど水放射を続けたが、無理だと諦めた。

よーし、よく老人ホームで便秘の老人にやるように、割り箸で掻き出してみよう。
トイレから子どもに声をかけ、割り箸を持ってきてもらった。
自分で割り箸をあそこに突っ込んでみたが、やはり自分での操作は難しく、下手をすると直腸をぶち破ってしまいそうだったので,この方法も断念。

浣腸をするしかないか、と思った。
もちろん我が家に浣腸のストックはない。
だって、そういうプレイをする趣味はないからね、おれ。
薬局に買いに行かねばならない。

ふたたびあいつにふるさとに戻っていただきました。
意外と戻るんですな。
尻に違和感を抱えたまま自転車に乗り、最寄り駅そばのマツキヨヘ。
浣腸33mL入り2本セットを購入。
よーし、人生初の浣腸だー!

家に着き、浣腸とともに再びトイレに。
容器の先端を奥深く体内に差し込み、ゆっくりと薬液を注入。
取説を読むと、薬液を注入した後10分間我慢すること、とある。
括約筋をぎゅっと締め、パンツをはき、台所のキッチンのタイマーを操作。

この状態での10分間は異常に長い。
なかなかタイマーは進まない。
脂汗が吹き出す。

5分を経過したところで我慢ならず破水。
液体が外部に流れ出した。
焦ってトイレに駆け込む。
便器に座るとすぐさまビシューッと薬液だけが出てくる。
失敗か?!

それでもいきんでいると、あいつが顔を出した。
がんばれ!
メリメリメリという感触。
あと少し!
スッポーンという音とともに、あいつがようやく生まれてきた。
あー、よかったー。


写真はコージェネ大賞授賞式。
便意を我慢している瞬間。

2013年2月11日月曜日

ぼくらが勉強する理由

こんにちは
 
休日は子どもたちに勉強を教える。
1日30~40分だけどね。
今日は長男に分数の約分を教えた。
一桁の割り算を暗算でできるようになったから。
 
約分の意味をちょいと説明してから練習。
あっという間にできるようになっちゃった。
「すごいね、約分は5年生で習う勉強だよ」と言うと、すごく喜ぶ。
絶対、錯覚してくれたと思う。
 
子どもを勉強好きにするには、自分は勉強ができる、と錯覚させることだ。
その方法はすごく簡単。
自分の学年よりちょっと先をやること。
 
特に算数はこれがやりやすい。
段階を踏んでいけば、間違いなく先に進められる。
そして、今の子供の実力の5~10%増しの負荷をかける。
 
いきなり20%も30%も負荷をかけちゃいけないよ。
大きな負荷は、もちろんできればいいのだが、できない可能性も高い。
それはバクチである。
堅実に行く。
ちょっと難しいけど、できちゃった。
その経験が大事。
 
先取り学習をすることがよいというのは、ぼくは以前から知っていた。
5年生までに小学校で習う読み書き計算を終わらせちゃおうと思っていた。
なので、小2のうちに3年生の1学期くらいまで進めればいいかなと思っていた。
 
ところが、友人のまこくんの家ではもっと先までやらせていると聞く。
今現在の子どもの知能で可能なら、別に学年なんか関係ない。
学年枠など気にせずどんどんやる。
なるほどー。
持つべきものは優秀な友人である。
我が家でも遠慮なくやろうと思ったのだ。
 
実際やらせてみると、ぼくが思っていたよりもずっと小2の頭脳はかしこいのだ。
段階さえ踏めば、どんどんとできるようになってしまう。
それも無理なくである。
我ながらびっくり。
 
勉強の合間に、子どもたちになぜ勉強しなければならないか、語って聞かせる。
勉強するのは誰かに勝つためじゃないよ。
はっちゃんもずっとまこくんと友だちでいたいだろう。
でもはっちゃんが、まるで勉強のできない子だったらどうだろう。
友だちでいらえるだろうか。
はっちゃんだって、アホな子がいたら助けてあげるかもしれないけど、友だちになろうとは思わないだろう。
 
友だちって、困ったときに助け合える存在。
助けてもらうばっかりじゃなくて、時には助けてあげることもできる。
そういう人同士じゃないと友だちでいつづけられないんだ。
 
つまり、いい友だちをつくるため、よい仲間をつくるために勉強するんだよ。
勉強しない人は、よい仲間にはなれない。
悪い仲間でつるむことしかできないんだ。
 
もちろん大人になっても、ずっと勉強はし続けなければならないんだよ。
素晴らしい人たちの仲間になって、楽しい人生にするためにね。
 

2013年2月1日金曜日

性格のつくられ方

行動遺伝学での双子研究によると、性格形成は遺伝が約半分、残りが環境によって形成される。
だが、性格形成に家庭(子育て)はほとんど影響を及ぼしていないのだそうだ。
性格は子育てではなく、家庭以外の環境で決まるという。
家庭以外の環境とは、具体的は学校などでの友だち関係のことだ。

実は、性格は社会的集団の中での「ポジション取り」なのである。
キャラクター的役割分担、といってもよい。
たとえばお笑いキャラは クラスに数人いればよい。
自分はお笑いキャラになりたくても、誰かが先にお笑いキャラポジションを取ってしまったら、もう空席はないのだ。
別のキャラに収まるか、そいつよりおもろいことをやり続け、クラスのみんなにそれを認めてもらうしかない。

つまり、性格は一定の集団内で、自分が演じたい役割を、その集団が認めることによって固定される。
あるいは、その集団がある者に役割を割り当て、それを当人が受任することによって固定される。

よく、子どもが家で見せる姿と、学校での振る舞いが大きく違うことにびっくりする親がいる。
それは、学校では学校での役割がその子に割り当てられているからである。
性格のことをパーソナリティと言うが、パーソナリティとは「仮面」が語源である。
性格とは、ある集団の中で仮面をかぶって役割を演じることなのである。

だから、ある集団でいったん割り当てられたキャラは、自分ではなかなか変えることができない。
性格は集団の力学関係で決まってしまうからだ。
自分が変えようと努力しても、周りのみんながそれを認めなければ変えられないのだ。

キャラを割り当てられると、そのキャラを演じなければならない。
そういう「義務」が発生するのだ。
お笑いキャラポジションを得た者は、皆を笑わせる義務が発生する。
周りの集団が、それを期待するからだ。
笑わせられないと、お笑いキャラから退席しなければならない。
だからいつもおもろいことを考え、そのタイミングを見るようになる。
そしてお笑いの技術を磨く。

こうやって、性格は集団の中で与えられ、磨かれることによって、個人の中に定着していく。
すると他の集団に移っても、たとえばクラス替えしても、強化された性格はそこでも発揮することができる。
他の集団でもすぐに自分のポジションを見つけ、安定させることができるのだ。

だから、進学したりして全員が新しい集団に入ったときなどは、キャラの争奪戦が行われるのだ。
それぞれの子のキャラ分担がはっきりしたとき、クラスは落ち着く。

だから自分の得たいキャラを得られるかどうかが重要なのだ。
ぼやぼやしていると、損な役割を与えられてしまう。
それが「いじめられキャラ」である。

もちろん、自らすすんでいじめられようと思う子はいないだろう。
だが、クラスの集団がいじめられる対象を欲しており、その子に割り当てる。
もちろん拒んでもいいのだが、たいていは拒みきれない。
結局、いじめられキャラを受任してしまうことになる。

周りが決め、本人が認める。
役割が固定する。
そうなると、周りもいじめることが当然になり、本人もそこから逃げられなくなるのだ。
だってそれがクラス内での『役割』なのだから。
いじめがエスカレートする原理はこれなのである。